学位論文要旨



No 114304
著者(漢字) 林,卓哉
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,タクヤ
標題(和) 変形したカーボンナノチューブの構造と電子状態
標題(洋)
報告番号 114304
報告番号 甲14304
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4430号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,邦夫
 東京大学 教授 山本,良一
 東京大学 教授 七尾,進
 東京大学 助教授 市野瀬,英喜
 東京大学 助教授 渡邉,聡
 東京大学 講師 宮澤,薫一
内容要旨 1.緒言

 カーボンナノチューブはそのグラファイトシートが円筒状になった一次元構造を有する物質である。その特徴的な構造に由来すると考えられる興味深い電気的性質や、高い強度を有することが理論と実験の両面から明らかになってきた。これらの性質を活かした電子材料、構造材料など広範な用途が考えられている。また、最近開発されたレーザーアブレーション法による単層ナノチューブの高収率合成法の出現により、実地の利用へのハードルが一段低くなった。

 本研究はカーボンナノチューブが外部からの応力に対して示す挙動とその結果得られた構造に関する知見を電子エネルギー損失分光法(EELS)と計算を利用して得ることを目的とする。チューブの外部からの応力による変形は複合材料が変形・破断する際に繊維材が複合材料内部で示す挙動と類似するため、複合材料の性質を知る上で重要になると考えられる。また、ナノチューブを用いたナノ電子デバイスを作製する際の配線の折れ曲がり部分にチューブの変形が現れてくることになり、その部分に関して電子状態の測定を試みることは意義深いものと言える。

2.カーボンナノチューブのEELS測定

 すりつぶし加工を施したカーボンナノチューブなどに関する観察結果とそれらの部位に対して得たEELS測定の結果を示す。ナノチューブに関するEELSの測定の例は複数報告されているが、いずれも直線部についての測定結果の報告であり、本研究で試みたようなナノチューブの様々な形状部、とりわけ外部からの応力によって変形したナノチューブの様なものに関する測定例は存在しない。そこで、ナノチューブの様々な形状部に関するエネルギー損失吸収端近傍構造(ELNES)を測定し、各部位毎にどのような特徴がスペクトルに現れるのかを見いだすことを試みた。

2-1EELS測定結果と考察

 多層のチューブから得られるELNESはグラファイトのそれと似た構造を取っている。グラファイトのような異方性の強い物質のスペクトルはビームの入射角によってスペクトルの各ピークの強度比が大きく変化する。ナノチューブもグラファイトシートが円筒状になった構造を有する異方性を持った物質であり、長手方向に直角に測定位置を変化させると**の強度比に変化が生じることが報告されている。本実験でのスペクトルの空間分解能を検証するためにチューブの長手方向に垂直にチューブの端部とチューブの中心部のスペクトルを測定したところ、**の強度比に変化が生じており、適切な条件で約4nmの空間分解能を有することが分かった。

・直線部

 直線部のELNESに関しては他のグループの結果と比較が可能であり、本研究で得られた直線部のELNESは矛盾なく一致していた。

・うねり構造部

 うねり構造部では直線部で見られる*の第一ピークが肩になっており、2eVほど高エネルギー側にシフトした位置にメインピークが現れている。この*ピークのシフトは5員環と7員環により折れ曲がっているチューブでも起こっている。また、直線部では302eV付近に見られるピークがうねり構造部ではマイナーなフィーチャーとなっていて、300eV付近と304eV付近に他の部位に関するスペクトルには見られないピークが存在している。また、308eV付近には肩が存在している。

・折れ曲がり部

 5員環と7員環によって折れ曲がっている部分のスペクトルには298eV付近に他の部位には見られないピークが存在している。*の領域がなだらかに減少しているようになっているのも特徴であり、うねり構造部同様、308eV付近に肩が存在している。

・チューブ先端部、カプセル端部

 ナノチューブの先端部とナノカプセルの端部とはどちらも5員環の配置によって閉曲面を形作っている部位であり、スペクトルも非常に似たものになっているが、直線部、うねり構造部や折れ曲がり部で見られるような296eV付近のピークが目立たなくなっている。

 得られたスペクトルのEXELFSから得られる情報として励起原子近傍に存在する原子の動径分布がある。動径分布はEXAFSから動径分布を求めるのと同様の手法を用いる。手順はスペクトルを4次関数などでフィッティングして振動部分だけを取り出して、波数表示に変換した後にフーリエ変換や最大エントロピー法により動径分布を得る、というものである。得られた動径分布はをナノチューブの各部位に関して作成したモデルから求めた動径分布と比較したところ、構造が明確な直線部や折れ曲がり部、チューブの先端部などでは比較的良い一致を示していたが、うねり構造部では最近接原子位置以外でよい結果を得られなかった。強度比に関しては一致はほとんど見られないが、これはナノチューブの持つ異方性、及びモデルと実際のチューブが厳密には異なることに起因するものと考えられる。また、測定機器の設定上、EXAFSに比べて数分の1のサンプリング区間からしか振動部分を得られないためにデータ点数が不足し、フーリエ変換の精度が落ちることも一致を妨げる要素である。

2-2まとめ

 電子顕微鏡観察を元に構築したモデルの妥当性を検証するためにEELS測定を行い、各部位ごとにスペクトルにどのような差異が現れるのかを調べた。その結果、うねり構造部、折れ曲がり部などで直線部とは異なる様相を呈したスペクトルが得られた。直線部と比較して変化している部分がその部位の構造的特徴に由来していると考えられるが、詳しいことは以下のスペクトル計算により明確になるものと考えられる。

3.多重散乱法によるELNES推定

 実験により得られたスペクトルを解釈する手段として多重散乱法と電子状態計算により非占有電子状態密度を求める方法とがある。この章では多重散乱法による計算について述べる。

3-1計算結果と考察・直線部

 直線部の結果はグラファイトのものと*領域のピークの強度比が異なっている。測定結果と比較すると、ピーク位置に関してはよい一致を示している。

・うねり構造部

 うねり構造部では直線部の結果と比較した場合、実験で得られたスペクトルの差異と同様の傾向が現れている。他の部位では観察されない300eV付近のピークに該当する部分にピークが計算結果にも存在しており、計算においても他の部位とは異なる位置に現れている。うねり構造部に原子が結合することによって結合状態が明示的に変化しているモデルに於いても300eV付近の構造が現れていることから、うねり構造部付近の炭素原子同士の角度関係の変化にこの構造が由来することが分かる。

・折れ曲がり部

 折れ曲がり部に関しては強度比が直線部とは異なるが、ピーク位置に関しては明確な違いは見られない。折れ曲がり部ではうねり構造部のように極端な原子同士の角度関係の変化が生じておらず、直線部と大きな差がないために位置関係に変化がみられないものと考えられる。強度比の変化はチューブを構成するグラファイトシートの持つ曲率により生じている可能性がある。

・先端部

 チューブの先端部のモデルに関する結果は折れ曲がり部と同様の傾向を示しており、原子同士の角度関係は大きく変化していないことが分かる。

3-2まとめ

 多重散乱法計算の結果に於いて測定結果と同様の構造がうねり構造部モデルに生じていたことから作製したモデルが妥当であったと言える。マフィンティンポテンシャルという疎で異方性の強い系を得意とはしないポテンシャルを用いているためか、スペクトルを測定した部位のサイズと計算で考慮に入れた原子の数に開きがありすぎたために強度比の一致が見られていないものと考えられる。

4.分子軌道法による非占有電子状態密度の計算。

 ELNESのスペクトルに寄与している小角散乱を近似に取り入れると、双極子選択則が成り立ち、角運動量量子数l=±1の状態間の遷移のみが許されることになる。炭素原子で言うと内殻電子は1s状態で、遷移する先は2p状態ということになり、スペクトルには2p対称性が反映されていることになる。従ってDOSも2p状態のもののみを考慮すればよいことになる。これをp-orbital projected densities of conduction statesということでp-DOSと呼ぶ。

4-1計算結果と考察

 計算によって得られたp-DOSはクラスターによる計算のため離散的なものになる。それをスムージングをして各ピークに幅を持たせていくことで実験で得られたELNESと比較することを試みた。

・直線部

 直線部の計算において、径の大きいチューブのDOSは平坦なグラファイトシートのものとほぼ同じ強度比を示しており、モデルがチューブのように円筒状にはなっていないものの、実験においてチューブの径が大きくなっていくとグラファイトに近いスペクトルが得られることと一致している。

・うねり構造部

 うねり構造部でも原子間の結合角度の面でsp3的になっているために径の大きいモデルでも小径モデルでも*領域の高エネルギー側の強度が増している。測定領域内と計算でのうねり部の結合角の変化した部分の比率を考慮に入れた場合、測定結果に現れた特徴的な構造はうねり構造に起因することを示す結果が計算により得られたと言える。原子の結合による影響は高エネルギー側のピークがより際立つという形で現れていたが、結合している原子の種類による違いは明確にならなかった。

・5員環部、7員環部

 5員環部、7員環部に関しては直線部とほとんど変化が現れず、実験結果と比較的良い一致を示していた。

4-2まとめ

 実験結果と比較してピーク位置はよく再現されていたが、全体的に*領域の幅が広くなっていた。強度比に関しては結合角が変化した原子の比率が現実とモデルにおいて違うために差異が生じているものと考えられるが、測定結果でのうねり構造部のスペクトルの他の部分とは異なる構造の由来を特定することが可能であった。

審査要旨

 本論文は,カーボンナノチューブに外部から応力を加えたとき生成する構造について,高分解能電子顕微鏡(HREM)と電子エネルギー損失分光法(EELS)によって観察して,これと計算機シミュレーションを対比させて調べた成果をまとめたもので,全10章からなる.

 第一章は序論である.カーボンナノチューブの構造の特徴と電子的物性について紹介した後,ナノチューブのうねり部分をナノ電子デバイスとして利用する可能性を示して,本研究の意義を述べている.

 第二章では,ナノチューブの作製法および電子顕微鏡試料の作成法を述べている.ガス中アーク放電法によって作製した束状のナノチューブを機械的にほぐして,電子顕微鏡試料とした.

 第三章では,HREM内のその場観察によって,外力によってナノチューブにうねり(原子的な寸法での挫屈)構造が生じることを発見した事実を述べている.観察法は,電子線照射によって試料支持膜が変形することを利用したもので,簡単ではあるが独創的なものといえる.

 第四章では,経験的および半経験的ポテンシャルを用いて,うねり部の構造を計算機シミュレーションした結果を示している.うねりの形成機構として,ナノチューブの6員環網目から5員環-7員環の対が生成するモデルよりも,炭素原子の結合状態が変化するモデルの方が妥当であるということを形成過程のエネルギー変化に基づいて結論した.

 第五章では,EELSの原理および測定法,測定結果を述べている.用いた方法では,約4nmの空間分解能が得られた.うねり部からのスペクトルには,約300eVと約304eVにこの部分に特徴的なピークが見い出された.スペクトルは,吸収エネルギーの比較的低い内殻電子の吸収端微細構造(ELNES)と吸収エネルギーがさらに高い領域でのスペクトル構造(EXELFS)に分けて検討されている.この章では,EXELFSの解析から求まる原子の動径分布について,第四章で検討したうねり部の構造との対応を論じた.EXELFSの解析には,X線吸収端EXAFSの解析理論を応用している.

 第六章では,ELNESに相当する部分のEELSの計算法の概要を説明している.

 第七章では,多重散乱法によるスペクトルの計算機シミュレーション結果について,第八章では,分子軌道法によるシミュレーション結果を述べている.

 第九章では,測定結果と計算結果を対比させて,うねり部の構造について論じている.

 EXELFSの解析結果は,EELSから得られる情報には限りがあるために,十分に結論を出せないにしても,炭素原子の結合状態変化モデルの方が妥当であると考えるべきであることを示した.ELNESの解析結果からも,うねり部に特徴的なピークの位置は,結合状態変化モデルと一致していると結論した.ピーク強度の定量的議論は,実験上の測定状態と解析モデルの状態が完全には一致させられないために,困難であった.

 第10章は総括である.

 以上を要するに,本論文はカーボンナノチューブのうねり部分の原子的構造および電子的状態を高分解能電子顕微鏡観察,電子エネルギー損失分光測定,計算機シミュレーションによって調べたもので,カーボンナノチューブという新奇材料の電子デバイスとしての応用に有益な示唆を与えたものである.

 よって,本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる.

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