学位論文要旨



No 114308
著者(漢字) 伊藤,賢志
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ケンジ
標題(和) ポジトロニウム消滅寿命による高分子ゲルの体積相転移に伴うサブナノ構造変化
標題(洋) Change in sub-nano structure of polymer gel during volume phase transition studied by positronium annihilation lifetime
報告番号 114308
報告番号 甲14308
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4434号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 宮山,勝
 東京大学 教授 工藤,徹一
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 堀江,一之
 東京大学 助教授 藤浪,眞紀
内容要旨

 インテリジェント材料としての利用が期待される高分子ゲルの重要な物性の一つが体積相転移現象である.温度,溶媒組成,pH,塩濃度,電界の変化など,物理化学的な外的環境の変化により膨潤・収縮を可逆的に制御でき,この特性を利用して高分子ゲルは広く応用されている.近年では,さらなる高機能化,また,高分子溶液などの基礎的な物性研究のために,分子・原子スケールにおよぶ,より低次元での局所構造に関する情報が必要とされている.そこで,高分子ゲル中の分子レベルにおける構造変化について考察するときの有効な物性の一つが自由体積パラメーターである.これまでの微視的構造に関する多くの研究においても,自由体積パラメーターとの関連から議論されてきた.それは,自由体積が体積相転移現象などの高分子ゲルに特徴的な巨視的物性の発現に関連するプリミティブな物性の一つとして考えられているからである.

 さて,陽電子消滅寿命測定法は,高分子材料の自由体積に相当するサブナノレベルの自由空間に関する情報-サブナノ空間の大きさ・数濃度・大きさの分布-が直接得られることから,ユニークな局所物性評価法として期待されている.ポジトロニウム(positronium,Ps)の消滅寿命は空孔の大きさを,その収率は自由体積の数を反映する.よってこれらの性質を利用して,Psの寿命測定よりサブナノレベルの自由空間の大きさ(R)および数濃度(IPs)を正確に,また,特異的に見積ることが可能であり,有機高分子系における自由体積の評価法として有用性が示されている.

 本研究では,陽電子消滅寿命測定法を高分子ゲル中の数Å程度の微細空隙の評価に適用した.アクリルアミド系ゲルの相転移に伴う急激な体積変化前後のサブナノ構造変化を追跡し,そのときの高分子網目のダイナミクス,膨潤溶媒-高分子網目間との相互作用の状態について,自由体積の変化から考察した.ポリアクリルアミド(PAAm),ポリ-N-イソプロピルアクリルアミド(PNIPA)ゲルを取り上げ,これら高分子ゲルの体積相転移を誘発する基本的な物性である,温度,溶媒組成,pH,塩濃度の効果について検討した.本研究は,これまでほとんど未解明である,高分子ゲルの体積相転移と自由体積すなわち分子レベルでの構造変化の相関を明らかにすることが目的であり,ゲルの微視的イメージを確立する手懸かりになると期待される.

 第一章では本研究の目的およびその意義付けの助けとして,研究対象とした高分子ゲルの性質・利用・研究についての概要と自由体積の概念および陽電子消滅測定の背景について述べた.

 第二章では陽電子消滅寿命測定法の測定原理・測定装置の概要・消滅寿命曲線の解析方法について述べた.分子半径程度の自由空間を有する非晶質物質中に侵入した陽電子は電子と結合することによりPsを形成する.スピンが三重項のオルト-ポジトロニウム(-Ps)は周辺のスピンが反対の電子を捕捉してピックオフ反応により消滅するため固有の寿命(〜140ns)が短縮し,その消滅寿命は高分子などの自由体積の大きさとよい相関をもつ.また,-Psはバルク中の反磁性分子からは反発を受けるため,電子密度のより低い自由空間中に局在化する性質をもつ.これらの特性により空孔プローブとして同法は用いられる.陽電子源は,22NaCl(7×105Bq)を用いた.陽電子消滅寿命曲線は,fast-fast同時計数装置により得た.温度依存性の系以外は,20℃にて測定を行った.

 第三章では-Psの消滅寿命と空孔半径との定量的な相関についての理論的モデルと算出方法について述べた.空孔半径は消滅寿命から中西らの式を利用して算出した.

 第四章ではゲルの体積相転移における巨視的な膨潤度の統計熱力学に基づいた理論的な取り扱いおよび実験試料の合成法について述べた.PNIPAゲルはN-イソプロピルアクリルアミドとN,N’-メチレンビスアクリルアミドから,また,PAAmゲルはアクリルアミド,N,N’-メチレンビスアクリルアミドおよび所定量のメタクリル酸ナトリウムから,フリーラジカル共重合法により調製した.重合により得たゲルは純水で洗浄後,試料として用いた.PNIPAゲルは温度および溶媒組成誘起,また,PAAmゲルは溶媒組成,pH,塩強度誘起による体積相転移についてそれぞれ検討した.

 第五章では純水で膨潤したポリビニルアルコールゲル中の自由体積と含水量との関係について検討した.ゲル中の高分子鎖に水分子が一層程度以上吸着すると系の自由体積の大きさはバルク水と同程度となることが確認された.また,-Psの相対強度から見積もった自由体積の数濃度は,赤外吸収から見積もられたゲル中の水素結合の量とよい相関を示した.

 第六章では温度変化依存性について検討した.PNIPAゲルは純水中で33℃に体積相転移点を有し,この温度以下では膨潤状態に,それ以上では収縮状態にある.膨潤状態でのPNIPAゲルのRは純水中の測定値と一致した.ゲル中の膨潤水の微視的な構造は,ゲルに付着した結合水あるいは非晶水でも自由水と同じであることがわかった.一方,収縮状態においては〜0.18nmおよび〜0.33nmの2成分に分離し,水とは異なることがわかった.これまでのバルク高分子(R:0.27〜0.40nm)および氷(R:〜0.13nm)などの測定値から,前者は高分子鎖近傍に配位した分子運動が抑制された水分子の構造を,後者は高分子網目の凝集構造であると予測された.

 第七・八章では溶媒組成依存性について検討した.PNIPAゲルのメタノール分率依存性では,メタノールリッチ相における膨潤状態で自由体積成分が2成分に分離した.この結果から,メタノールリッチ相における膨潤状態ではPNIPAゲル中のナノ構造は不均一性が高いことが示唆された.4mol%のメタクリル酸置換基を導入したPAAmゲル中におけるRのアセトン分率依存性では,膨潤状態で対応する混合溶媒の自由体積とほぼ一致し,収縮状態で溶媒組成の依存性を示しながら,対応する溶媒のRよりわずかに小さい値が得られた.また,転移点近傍では巨視的な体積変化の不連続性とは異なり,転移点濃度より若干低アセトン含量側でRの減少が観測され,微視的な構造変化が生じていることが示唆された.転移点で自由体積の不均一性が増大することが確認された.イオン基をもたないPAAmゲルとの比較から,自由体積分率の組成依存性は,自由体積の加成性に加えて溶媒・高分子間の平均的な相互作用の状態が重要であることが示唆され,ゲルの膨潤状態と収縮状態とでそれらの異なることが明らかとなった.

 第九章ではpH依存性について検討した.Rは,巨視的な膨純度の変化に対応した変化を示した.膨潤・収縮状態における自由体積の大きさの違いはゲル内部の平均的な組成の差に依存していると考えられる.また,この結果は,PNIPAゲルを温度誘起させた場合と逆の傾向を示した.収縮状態において,PAAm高分子網目の凝集力がPNIPAゲルの疎水基のそれよりも大きいことを示唆している.IPsは,収縮状態において,pHに対する相関が観測されたが,これはカルボキシル基の脱プロトン化を反映していると考えられる.さらにIPsの変化点が巨視的な相転移点よりも低pH側に現れた.これは,Huらの蛍光プローブ法から得られた,プローブの拡散係数の変化に対応した.

 第十章では塩濃度依存性について検討した.膨潤状態におけるPAAmゲルのRは塩濃度の変化によらず,〜0.32nmで一定であり,対応する混合溶媒での観測値よりも〜0.1nm程度小さかった.この差はアセトン-水混合溶媒でのアセトン濃度依存性にて確認された,転移点よりわずかに低濃度側でのRの減少と同じ起源に由来しており,それは,貧溶媒であるアセトン分子の増加による高分子網目の微視的な凝集,あるいはゲル中の溶媒の組成比が水分子が多いほうに偏っているためと考えられる.収縮状態のゲルの測定範囲におけるRは〜0.29nmであった.

 第十一章ではこれまでの実験より得られた結果を基にして,自由体積から見た高分子ゲルの体積相転移の起源に関する考察を行った.膨潤ゲルのRは対応する溶媒のそれと概ね一致した.一方,収縮ゲルは,溶媒組成変化の場合を除き,その体積収縮とともにRは減少した.そして,PNIPAゲルについては2種類の自由体積成分が観測された.溶液や高分子中に水素結合に由来する相互作用が存在するときにPsの消滅寿命で見積もられる物質中のRは一般的に0.2〜0.3nmの範囲である.pHおよび塩強度変化により収縮したPAAmゲルのRは〜0.29nmであった.これは高分子網目の凝集に水素結合が重要な役割を果たしていることを示唆している.一方,溶媒組成変化による収縮では〜0.32nmと比較的大きい値が観測された.これは対応する溶媒の自由体積に近い値であることから,ゲル中の溶媒分子と高分子鎖間に形成される相互作用のバランスが高分子網目の凝集に影響を与えていることを示唆している.PNIPAゲルの巨視的な収縮の結果,小さい自由体積が観測された.これは凝集した高分子網目中に取り残された結合水によると解釈された.一方,メタノール-水混合溶媒のRはメタノール分子の疎水性および系の平均分子体積に相関して,メタノール分率の上昇とともに増加した.メタノールリッチ相における膨潤PNIPAゲルの大きい成分が自由メタノール分子に由来する自由体積と予測されることから,小さい成分は,水素結合を介することにより,高分子鎖上へ凝集配位した一次結合溶媒分子が形成する自由体積成分であると予測される.PNIPAゲルで観測された2種類の自由体積は,水素結合に起因した相補的な相が生じるとともに疎水的相互作用による自由体積が形成されることを反映しており,その結果,巨視的な体積変化を引き起こすと解釈できた.膨潤ゲルの自由体積は高分子鎖と溶媒分子間の相互作用およびゲル中にとりこまれたバルク・ライクな溶媒相に影響を受けていることが,また,収縮ゲルについては高分子鎖の凝集と高分子鎖・溶媒分子間の相互作用が重要な役割を担っていることがわかった.

 第十二章では本研究において得られた結果および演繹された重要な結論について総括した.ポジトロニウム消滅寿命で見積もられた自由体積をプローブとして,体積相転移に伴うPAAmおよびPNIPAゲルのサブナノ構造変化を明らかにした.ゲル中の自由体積と相転移を引き起こす原動力となる高分子鎖・溶媒分子間の相互作用の状態との関連について考察した.巨視的な体積相転移の起源となる微視的な構造変化を自由体積の変化としてとらえることができた.高分子ゲルのこれまでにない微視的描像が構築できた一方で,陽電子消滅寿命測定法が高分子ゲルの評価に有効に適応できることが示された.

審査要旨

 高分子ゲルは、温度、電界など物理化学的な外的環境の変化により膨潤・収縮を可逆的に制御できる特性をもつため、広い分野での応用が進められている。本論文は、高分子ゲルの体積相転移と分子レベルでの構造変化の相関を明らかにすることを目的に、温度、溶媒組成などの変化により生じる体積相転移に伴うサブナノレベルの自由体積変化を陽電子消滅寿命測定法を用いて測定、解析したものであり、全十二章からなる。

 第一章では、本研究の背景、目的およびその意義について述べている。

 第二章では、陽電子消滅寿命測定法の測定原理・測定装置の概要・消滅寿命曲線の解析方法について述べている。微小空孔などの自由空間をもつ物質中に侵入した陽電子は電子と結合しポジトロニウムを形成する。その消滅寿命は空間の大きさを、その収率は空間の数を反映することから、有用な空孔プローブとして用いられることを述べている。

 第三章では、ポジトロニウムの消滅寿命と空孔半径との定量的な相関についての理論的モデル、および算出方法について説明している。

 第四章では、ゲルの体積相転移における巨視的な膨潤度の理論的な取り扱い、および実験に用いたポリアクリルアミド(PAAm)およびポリ-N-イソプロピルアクリルアミド(PNIPA)ゲルの合成法について述べている。

 第五章では、純水で膨潤したポリビニルアルコールゲル中の自由体積と含水量との関係について調べた結果を述べている。陽電子消滅寿命測定により、ゲル中の高分子鎖に水分子が一層程度以上吸着するとゲルの自由体積の大きさはバルク水と同程度となること、またその自由体積の数濃度はゲル中の水素結合の量とよい相関を示すことを見い出している。

 第六章では、PNIPAゲルの自由体積の温度変化依存性について調べている。PNIPAゲルは純水中で33℃に体積相転移点を有し、この温度以下では膨潤状態にそれ以上では収縮状態にある。ゲルおよび自由水の自由体積の比較から、膨潤状態のゲルは自由水と同じ自由体積をもち、収縮状態のゲルには、凝集した高分子網目およびそれにより分子運動が抑制され氷状構造となった水分子に起因する2種の自由体積が存在することを明らかにしている。

 第七章ではPNIPAゲルについて、また第八章ではPAAmゲルについて、微視的構造の溶媒組成依存性を検討している。PNIPAゲルの自由体積のメタノール分率依存性では,メタノールリッチ溶媒における膨潤状態で自由体積成分が2成分に分離し、収縮状態では対応する混合溶媒の自由体積と一致した。一方、PAAmゲルでのアセトン分率依存性では、膨潤状態では混合溶媒の自由体積とほぼ一致し、収縮状態では溶媒の自由体積よりわずかに小さい値が観測された。これらより、自由体積の溶媒組成依存性は、構成する溶媒の自由体積の加成性に加えて溶媒・高分子間の相互作用の状態により定まるものと推定している。

 第九章では、自由体積のpH依存性について調べた結果を述べている。自由体積の大きさは、巨視的な膨純度のpH依存性に対応した変化を示すことを見い出している。また、収縮状態において、PAAm高分子網目の凝集力がPNIPAゲルの疎水基のそれよりも大きいことを明らかにしている。自由空間の数濃度のpH依存性は、蛍光プローブ法から得られる結果と対応していることを確認している。

 第十章では、PAAmゲルの自由体積のNaCl濃度依存性について調べた結果を述べている。自由体積は、巨視的な膨純度と対応し、膨潤状態では混合溶媒での値よりもやや小さい約0.32nm、収縮状態では約0.29nmであることを明らかにしている。

 第十一章では、これまで得られた結果を基にして、高分子ゲルの自由体積の変化をまとめている。膨潤ゲルの自由体積の大きさはゲル中にとりこまれたバルク・ライクな溶媒相のそれと概ね一致する。一方、収縮ゲルは、pH依存性など水素結合に由来する相互作用があるときはその体積収縮とともに自由体積は減少するが、溶媒組成変化の場合は溶媒の値に近い比較的大きい値となる。収縮ゲル中の自由体積の大きさについては高分子鎖の凝集と高分子鎖・溶媒分子間の相互作用が重要な役割を担っていることを明らかにしている。

 第十二章は総括であり、本研究において得られた成果を要約し結論を述べている。

 以上、本論文は、陽電子消滅寿命測定法で見積もられた自由体積をプローブとして、高分子ゲルの体積相転移に伴うサブナノ構造変化、および高分子鎖・溶媒分子間の相互作用を解明したものである。この成果は、高分子ゲルの物性発現機構および陽電子消滅寿命測定法の有効性に関して重要な知見を得たものであり、材料化学、分析化学の進展に寄与するところが大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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