内容要旨 | | ポルフィリン化合物は動物と植物の両方に共通にみられる生体物質の一つで,光合成や酸素輸送など多くの生化学現象において主要な役割を果たしている.ポルフィリン化合物はこれらの生体反応機構の解明の点で興味深いだけでなく,ポルフィリン化合物が可視光領域に強い吸収ピーク(Qバンド)を持つという特徴を利用して,さまざまな工学的応用が試みられている.中でも,人工光合成系の設計は,次世代のクリーンエネルギーとしての太陽エネルギー利用の観点から注目を集めている.これらの応用の実現にはポルフィリン化合物の可視部吸収帯(Qバンド)の制御方法の確立が必要不可欠である. 他方,理論化学の発展段階をかんがえるならば,大きな系の励起状態を定量的に記述することが緊急課題の一つである.基底状態に対しては種々の方法論が開発されているが励起状態にも適用可能なものは少なく,適用例も小さな系に限られている.励起状態の記述が困難な要因として,励起状態は一般に開殻系で一つの電子配置では記述できず,励起エネルギーの算出には基底状態と励起状態を同精度にバランス良く記述する必要がある点が挙げられる.Multireference Moller-Plesset(MRMP)法はこれらを克服できる方法として開発され,小さな系に対してその有用性が実証されてきた. 本研究では,ポルフィリンのQバンドの吸収波長や強度を理論的に制御することを目的とした.ポルフィリンをポリアセンの拡張系とみなし,交互炭化水素の性質を利用した励起状態の取り扱いを試みた.理論計算にはMRMP法を用いた. 1.ベンゼン,ナフタレンの電子励起スペクトルに関する研究 まず交互炭化水素のベンゼンとナフタレンの電子励起スペクトルをMRMP法により理論的に同定するとともに.ポリアセンのスペクトルの一般的性質について考察した.ベンゼンは古くから実験的にも理論的にも数多く研究され,その電子励起スペクトルはほぼ完全に同定されており,理論の検証には格好の対象である.一方,ナフタレンの電子励起スペクトルの同定は,まだ確定していないピークがいくつかある.Huckel近似やppp近似のもとでは,ポリエンやポリアセンなどの交互炭化水素には次のようなpairing propertyが成立する.基底状態において,占有軌道をエネルギーの高い方から1,2,…,非占有軌道をエネルギーの低い方から1’,2’,…と番号づける.二つの縮重した励起配置i→j’とj→i’の線形結合より一電子励起状態をionic plus(+)状態とcovalent minus(-)状態に分類できる.基底状態はminus状態として振る舞う.遷移双極子モーメントは+状態と-状態の間の遷移で値を持つ.Pairing propertyは電子相関効果を含むCASSCF波動関数においても近似的に成立し,これらの-*励起状態は電子相関に対する振る舞いが異なる.Ionic(+)状態の主配置は一電子励起配置である.一方,covalent(-)状態では,特にg状態で二電子励起配置が大きな割合で含まれるため,高電子励起配置を考慮する必要がある.Covalent(-)状態に対する二次の摂動計算によるdynamic - polarization効果は基底状態と同程度であるが,ionic(+)状態では基底状態より大きく,その記述にはこの効果の考慮は不可欠である.Ionic(+)状態のCASSCF励起エネルギーは過大に算出されるが,この効果により2eV程度改善される.また,covalent(-)状態は対応するionic(+)状態より常に低いエネルギーを与える.ベンゼンに対してはRydberg励起状態の計算もおこなった.Rydberg励起状態の主配置は一電子励起配置で二次の摂動計算によるdynamic - polarization効果は基底状態よりも小さい.MRMP法により,ベンゼンの-*励起エネルギーを平均0.1eV程度,Rydberg励起エネルギーを平均0.15eV程度のずれで高精度に実験値を再現できた.また,ナフタレンに対しては未決定の状態も含めて,平均0.2eV程度の精度で理論的に同定することができた.ベンゼンのvalence-*励起エネルギーの計算結果を次表に示す. Table.Valence -* excitation energies(eV)of benzene2.ポルフィリン化合物の低励起状態に関する研究 1.で得られた知見に基づいて,ポルフィリンのQバンドの制御を試みた.色素を構成するポルフィリン化合物は可視部に強い吸収ピークを持つ.フリーベースポリフィン(FBP)はそれらの基本分子であるが,可視部に弱いQバンド,近紫外領域に強いBバンドと呼ばれる吸収ピークを持つ.FBPの低励起状態はGoutermanの四軌道モデルによって説明されてきた.四軌道とはほぼ縮重したHOMOとnext HOMO,およびほぼ縮重したLUMOとnext LUMOで,D2h対称においてこれらの軌道の対称性はそれぞれau,b1u,b2g,b3gであり,Qバンドは11B3uと11B2uの二つの励起状態からなる.FBPは18電子共役系とみなすことができ,これらの軌道は18電子のポリアセンであるナフタセンの軌道と対応づけることができるので,上述の交互炭化水素の満たすpairing propertyを利用することができる.11B3u状態の主配置au→b3gとb1u→b2gの遷移双極子モーメントは大きさがほぼ等しく向きは平行であるが,これらの配置が異符号で混ざるためにこの状態の強度は低くなる.11B2u状態では主配置au→b2gとb1u→b3gの遷移双極子モーメントは大きさがほぼ等しく向きは反平行で,これらの配置が同符号で混ざるために同様の打ち消しがおこる.この結果,FBPのQバンドは弱くなる.このようにFBPのQバンドが弱いのは交互炭化水素系の性質によるもの(pseudo-parity禁制)で,この性質をくずすことでQバンドの強度を高めることができる.この性質は,(1)置換等によるポルフィン骨格の修飾,(2)共役系の状態の変化,(3)金属原子の分子中心への導入などの化学修飾を施すことでくずされる.本研究では,(1)meso位の炭素原子の窒素原子による置換(Tetraaza[TA-P]),(2)ピロール環の二重結合への水素付加(Tetrahydro[TH-P],Dihydro[DH-P]),(3)Mg,Zn原子の分子中心への導入を施し,これらのQバンドに対する効果を系統的に調べた.これらの化学修飾により基底状態の安定構造は次のように変化する.TA-Pでは,窒素原子が炭素原子より電気陰性度が大きいのでNmeso-C結合が短くなり,内側の四つの窒素原子で構成される中心環のサイズは小さくなる.TH-Pではピロール環の二重結合が還元されて結合長が伸び,中心環のサイズは大きくなる.一方,中心金属原子の有無は基底状態の安定構造にほとんど影響を与えない.MRMP法により計算したフリーベースポリフィリンのQバンドの結果を上図に示す.励起エネルギーの順序は,11B3u状態ではTH,TA-P<TH-P<FBP,TA-P<DH-P,11B2u状態ではTH,TA-P>TH-P>FBP,TA-P>DH-Pとなった.ここでTH,TA-Pは(1)(2)の両方を施した分子を意味する.(1)の窒素置換はピーク位置にほとんど影響を与えず,(2)の水素による還元は11B3u状態をred-shift,11B2u状態をblue-shiftさせてこれらの分裂幅を増大させる.Qバンドの振動子強度は,TA-Pでは特に11B2u状態が強くなり,TH-Pでは11B3u状態の強度が増大する.この変化は軌道エネルギーの変化と対応づけられる.TA-Pでは占有au軌道が大きく安定化してHOMOとnext HOMOの縮重がとけ,b1u軌道からの励起がより支配的となるために強度の打ち消しがFBPほどには起こらずQバンドは強くなる.TH-Pではau軌道とb2g軌道が不安定化することによってHOMOとnext HOMOおよび,LUMOとnext LUMOともに縮重がとけ,11B3u状態においてau→b3g励起配置がより支配的となり,Qバンド強度は増す.これらの分子のQバンドはFBPにくらべ10倍以上の強度を持つ.また,フリーベースポルフィリンと金属ポルフィリンの間での励起エネルギーの順序は,11B3u状態ではフリーベース化合物<Mg化合物<Zn化合物,11B2u状態ではMg化合物<Zn化合物<フリーベース化合物となり振動子強度もこの順序で増大する.このようにpairing propertyを利用したMRMP法により理論的にQバンドの制御ができる. MRMP excltation energies and oscillutur strength of Q hasd of free-hase porphyrins3.第一・第二周期の原子に対する短縮分極関数の提案 1..2.の研究を行ううえで基礎となる事柄に基底関数の問題がある.高精度のab initio分子軌道計算には基底関数に分極関数を入れることが必須である.通常,分極関数は非短縮のまま用いられるため,その数とともに計算コストは飛躍的に増大していき,大きな系に対して分極関数を入れた計算を実行するのは容易でない.本研究では,現在広く利用されているDunningのcorrelation consistent基底関数(ccpVTZ)用に第一および第二周期の原子(B-Ne,Al-Ar)に対する短縮分極関数を提案し,その有用性について検討した.決定したのは2d/1d,3d/1d,3d/2dセットでnd/mdはn個のd型ガウス関数をm個に短縮することを意味し,n=mのときはDunningのオリジナルの非短縮セットを示す.これらのセットを用いていくつかの二原子分子の各種物理量およびベンゼンの-*励起エネルギーについてテスト計算を行った結果は大きく{1d/1d},{nd/1d,n=2,3},{(nd/2d,n=2,3),(3d/3d)}の三つの組に分けられる.特に,{1d/1d}から{nd/1d,n=2,3}への変化が顕著である.全エネルギー計算において,SCFおよびCASSCFエネルギーは2個のガウス分極関数を使うことで十分な精度が得られるが,動的電子相関を取り入れる計算(ここではMRCI計算)は短縮後の基底の数に大きく依存するため{nd/1d,n=2,3}から{nd/2d,n=2,3}への全エネルギー変化も大きい.解離エネルギーの変化の様子は分子により異なる.平衡核間距離に関しては2d/1dセットで3d/3dに匹敵する結果が得られる.零点振動数には他にみられるような規則的な変化は見られない.また,イオン化ポテンシャルや励起エネルギーにおける変化は小さく2d/1dセットで十分な精度が得られる.以上のことから,使用できる分極関数の数が制限されるような大きな系に対しては,2d/1dセット,より正確な電子構造を必要とする場合は3d/2dセットの使用が推奨される. 上で得られた結果は目的の色やQバンド強度を持つポルフィリン化合物の理論設計の指針となるものと期待される.さらに,本研究における取り扱いは交互炭化水素およびその類似体に広く適用できるので,これらの化合物の励起状態が主役を演ずる現象の理論的取り扱いにおいて有用な手段となり得ると考えられる。 |