学位論文要旨



No 114312
著者(漢字) 三嶋,謙二
著者(英字)
著者(カナ) ミシマ,ケンジ
標題(和) チャープパルスを用いた化学反応のレーザー制御に関する理論的研究
標題(洋) Theoretical Studies on Laser Control of Chemical Reactions by Chirped Pulses
報告番号 114312
報告番号 甲14312
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4438号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 講師 中野,晴之
内容要旨

 特定の反応生成物のみを選択的に手に入れることは長年の化学者の夢である。大抵の場合は、反応の温度や圧力の変化、触媒の付加などにより反応を制御している。しかし、このような方法はバルクの統計力学的でマクロな性質を利用しているにすぎないので、効率的に反応制御することは困難である。特定の振動数とコヒーレンスをもつレーザー光線は物質との電磁的相互作用が量子力学的に記述されるので、レーザー光線を用いれば、ミクロなレベルで物質を反応制御できることが期待される。そこで近年、レーザー光線を用いて、原子、分子の化学反応を制御しようという試みが実験的にも理論的にも盛んになりつつある。

 レーザー制御当初はレーザーの波長、強度による制御のみが注目されていたが、近年、chirped laser pulse技術の進歩により、位相をパラメーターとしたレーザー制御という新しい概念が確立されつつある。本論文では、様々に見えるこれらの現象も集約するとchirped laser pulseの3つの特性が関与していることを明らかにした。(1)レーザー誘起による励起波束の運動量分布、(2)パルス内ポンプ-ダンプ効果、(3)断熱高速遷移(ARP)である。これらは、他のレーザーパラメーターには見られない優れた特徴であって、さらなる化学反応への理論的応用が期待される。しかも、chirped laser pulseは実験的に発生させるのが比較的容易であり、レーザー制御実験の実現も大いに期待される。本論文では、chirped laser pulseの3つの特性を最大限に生かしながら、化学的に重要な系に応用し、新たなレーザー制御の可能性を明らかにする。対象とする化学反応は、(1)分子非断熱過程、(3)NaIとCOの分子非断熱過程、(3)光解離分岐反応、(4)HODの光解離分岐反応とCu(111)表面からのNH3分子の光脱離反応、(5)Na4+クラスターのab-initio計算、(6)コヒーレントラマン分光の7つである。

 本論文で用いた最も簡単な線形位相変調レーザーパルスによる状態間の相互作用ポテンシャルVint(t)は次のように表わされる。

 Vint(t)=-E(t)=-E0exp(-(t-t0)2)cos(((t-t0)/2+0)(t-t0)+)が正(負)のときE(t)は正(負)のchirped pulseである。本論文では、最も単純な単一のUV線形位相変調レーザーを用いた量子制御の可能性について理論的計算(波束計算)を行った。波束法では次のような時間依存型Schrodinger方程式を数値的解法で解く。

 

 ここで、Hiは各々の電子状態のハミルトニアンを、V23(x)は2つの電子励起状態間の断熱相互作用を表わす。

 (1)通常、光解離反応は幾つかのポテンシャル曲面交差によって分子非断熱過程を伴う。従って、前期解離現象は分子分光、分子動力学などの分野で盛んに研究されている代表的な化学反応である。準安定状態に存在する分子の寿命をレーザーで制御できれば、選択的な量子状態生成への手がかりとなるなど応用性は高い。そこでまず、分子非断熱過程にもたらすchirpの影響とその利点とを明らかにする。

 第一電子励起状態のノルムの時間変化を調べたところ(図1)、負のchirped pulseの場合、パルスを照射した瞬間に第一電子励起状態のノルムとfluxが急激に増大し、短時間の内にノルムは完全に解離する。従って、励起分子を高速に光解離する場合は、負のchirped pulseを用いるのが効果的である。正のchirped pulseの場合は、パルスを照射している間は励起状態のノルムが増加し続け、照射後は、第一電子励起状態のノルムはほぼ1で安定する。fluxはほとんど無く、解離波束がほとんど得られない。従って、正のchirped pulseを用いれば、波束は励起状態のポテンシャル井戸に閉じ込められ光解離を抑制できる。これはchirped laser pulseのARPの特性によるものであることを明らかにした。

図1

 (2)ここでは、NaIとCOの分子非断熱過程の及ぼすchirpの影響を明らかにした。NaIの電子励起状態の準安定状態に存在する波束の振動運動は励起レーザーのchirpによって大きく異なり、負のchirped pulseではかなり不規則な振動パターンを示した。これは、負のchirped pulseの持つ周波数成分の時間順序による波束の密度分布の広がり、コヒーレンスの破壊によるものであることを明らかにした。また、電子励起状態で解離する波束密度は、負のchirped pulseでは減少することを見い出した。これは、レーザー励起時に、負のchirped pulseではパルス内ポンプ-ダンプ効果によって波束の励起密度が減少することが判明した。また、COの準安定状態に存在する波束の寿命は、ARP機構によって、負のchirped pulseで短く、正のchirped pulseで長くなることがわかった。

 (3)光解離分岐反応は分子非断熱過程に劣らず重要な光解離反応であり、特定の解離生成物のみを高収率で選択的に得るという点で実用性は高く、そのレーザー制御は興味深い。ここでは、chirped pulseによって光解離分岐反応の分岐比が効率よく制御できることを示す。正のchirped pulseを用いた時、波束は励起状態に100%励起される。負のchirped pulseを用いると、片方の経路の分岐比は全く影響を受けず、もう片方の経路の分岐比はパルス内ポンプ-ダンプ効果により著しく減少した。これは、レーザーの周波数の時間変化(t)と励起状態の波束の平均位置における励起状態と基底状態のエネルギー差の時間変化V(t)を比較することにより解釈できる。正のchirped pulseの時は、(t)とV(t)が一点でしか交差せずARPにより分岐比が増加するが、負のchirped pulseの時は、片方の経路の(t)とV(t)だけが長時間近接(共鳴)している(図2)ので、励起された波束が脱励起する。従って、正のchirped pulseではchirp rateの大小で分岐比は制御できないが、負のchirped pulseでは岐比は制御できることがわかった(図3)。

図2図3

 (4)HODの光解離分岐反応は単一のポテンシャル曲面で進行し、分子非断熱過程を全く伴わない点で極めて例外的である。ここでは、そうしたHOD分子の利点を生かして、chirpによって光解離分岐反応の分岐比のみを効率よく制御できることを具体的に明らかにする。正のchirped pulseの時は100%の波束が励起され、chirp rateの大きさにかかわらず、ほぼ同じ分岐比で解離する。負のchirped pulseの時はパルス内ポンプ-ダンプ効果が起こり、chirp rateの絶対値が増加するとD+OHチャンネルへの分岐が減少する。これは、レーザーの周波数の時間変化(t)とそれぞれのチャンネルに対する励起状態の波束の平均位置における励起状態と基底状態のエネルギー差の時間変化VOH(t)とVOD(t)との比較により説明できる。すなわち、負のchirped pulseの時は、(t)とVOH(t)だけが長時間近接(共鳴)しているので、D+OHチャンネルの波束のみが脱励起する。

 単分子気相反応は化学的には非常に特異な環境での反応であり、通常は凝縮相で進行する。にもかかわらず、凝縮相における化学反応の研究は不明瞭な点が多く、レーザー制御は未発展の研究分野である。例えば、金属表面からの分子の光脱離反応のレーザー制御に関する研究は一例しかない。ここでは他に先駆けて、chirped pulseによる光脱離確率のレーザー制御について研究する。正のchirped pulseの時は多量の波束が散逸する。負のchirped pulseの時はパルス内ポンプ-ダンプ効果により、散逸する前に大量の波束が脱励起する。電子励起状態ポテンシャルを滑って脱励起した基底状態の波束はエネルギー障壁を越えたりトンネルし、光脱離確率は著しく増加する。レーザーの周波数(t)と励起波束の平均位置における励起状態と基底状態のエネルギー差V(t)を比較すると、負のchirped pulseの時(t)とV(t)が長時間共鳴し、パルス内ポンプ-ダンプ効果が効くことがわかった。

 (5)ab-initio MRCI法によってNa4+クラスターの安定異性体、遷移状態、光吸収スペクトルを理論的に計算し、実験結果との比較を行い、よい一致を得た。また、その解離ダイナミックスと異性体間のレーザーコントロールを電子状態の観点から議論した。

 (6)ラマンスペクトルの構造は分子ダイナミックスの痕跡であり、分子特性の情報が得られるが、入射光であるchirped pulseの3つの特性がどのように反映されるか全く不明である。そこで、ラマンスペクトルに及ぼすchirpの影響を明らかにする。系の全波動関数|(t)〉を次のように展開する。

 

 |{nk}〉、|{nk+1L}〉は放射場の多モード状態、は自発ラマン散乱振幅、は誘導ラマン散乱振幅を表わす。レーザー照射後、chirpなしの場合のラマンスペクトル強度PL0(t→∞)とchirpありの場合のラマンスペクトル強度PL(t→∞)の比はPrel(t→∞)=PL(t→∞)/PL0(t→∞)=1+42/A4で与えられることがわかった。ここで、はchirp rateを、Aはパルスの時間幅を決めるパラメーターである。したがって、レーザー照射後のラマンスペクトルはchirpの符号にはよらず、transform-limited pulseより強度が増加することがわかる。レーザー照射後の誘導ラマン散乱による分子振動分布は正のchirped pulse、transform-limited pulse、負のchirped pulseの順に増加する。これは、パルス内ポンプ-ダンプ効果によって誘導放出確率が同じ順番で増加することによる。

審査要旨

 本論文は「Theoretical Studies on Laser Control of Chemical Reactions by Chirped Pulses(チャープパルスを用いた化学反応のレーザー制御に関する理論的研究)」と題し、チャープパルス(位相変調レーザーパルス)と分子系の相互作用の特性を量子波束法と解析的手法により理論的に解明し、チャープパルスの3つの特性、すなわち、(1)レーザー誘起による励起波束の運動量分布、(2)パルス内パンプ-ダンプ効果、(3)断熱高速遷移を用いた化学反応ダイナミックスのレーザー制御について新しい知見を得たものである。本論文の構成は6章から成っている。

 第1章では、本研究の目的と背景について述べられている。

 第2章では、電子励起状態間の断熱結合と分子の質量を変化させながら、分子非断熱過程に及ぼすチャープパルスの影響を一次元モデル計算によって考察している。量子波束法を用いた数値計算により、準安定励起状態に励起された分子を高速に光解離させたい場合は負のチャープパルスを、励起状態のポテンシャル井戸に波束を閉じ込めて長寿命励起状態の分子を得るには正のチャープパルスを用いるのが効果的であるということを明らかにしている。電子励起過程における断熱高速遷移による振動準位の選択励起と寿命により、このような全く異なる現象が得られると結論している。また、具体的に、NaIとCO分子系に応用し、チャープパルスの影響を考察している。

 第3章では、光解離分岐反応(一次元モデルとHOD分子)と金属表面からの光脱離反応(Cu(111)面からのNH3分子の光脱着)のチャープパルスによるレーザー制御について理論的研究を行っている。光解離分岐反応の励起波束の分岐比は正のチャープパルスでは制御不可能であるが、負のチャープパルスを用いるとチャープ速度の大きさを変化させることで分岐比を制御することが可能であることを見い出し、分岐比制御には、チャープパルスのパルス内パンプ-ダンプ効果と断熱高速遷移の特性が関与していることを明らかにしている。一方、金属表面からの光脱離反応では、数百フェムト秒の時間幅の長い負のチャープパルスを照射すると、光脱離確率が極めて増大することを見い出している。光脱離確率制御にも、チャープパルスのパルス内パンプ-ダンプ効果と断熱高速遷移の特性が関与していると結論付けている。

 第4章では、興味ある動力学実験研究の行われているNa4+クラスターを取り上げ、その異性体の構造、異性化反応の遷移状態、また励起状態を利用した異性化反応のレーザー制御の観点から、各構造における電子励起スペクトルを高精度の非経験的量子化学計算により検討している。3種の構造異性体と2種のそれらの異性化反応の遷移状態の存在を明らかにし、実験吸収スペクトルとの比較から、低温で存在するクラスターの構造を予測している。さらにラマン断熱過程を利用した異性化反応のレーザー制御について提案している。

 第5章では、入射光としてチャープパルスを用いてラマンスペクトルを制御し、ラマン過程に対するチャープパルスの影響とそれに関わるチャープパルスの特性について解析的手法により考察している。レーザーの強度とチャープ速度は十分小さいとし、チャープ速度を摂動項ととらえ、ラマンスペクトル強度の解析式の導出に成功している。その結果、レーザー照射後のラマンスペクトルはチャープ速度の符号にはよらず、バンド幅限界のパルスより強度が増加することがわかった。また、誘導放出確率がパルス内パンプ-ダンプ効果によって正のチャープパルス、バンド幅限界のパルス、負のチャープパルスの順に増加することにより、レーザー照射後の誘導ラマン散乱による分子振動分布は同様の順番で増加すると結論している。

 第6章では、本論文で示されたチャープパルスを用いたレーザー制御について総括している。また、チャープパルスを用いた凝縮系における化学反応の量子制御について、密度行列を用いた新しい理論的手法の将来展望が述べられている。

 以上のように、本論文は、理論的研究により、チャープパルスの有する特徴を最大限に利用した新規な化学反応レーザー制御の可能性について述べたものであり、理論化学、分子工学に貢献するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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