学位論文要旨



No 114327
著者(漢字) 山内,昇
著者(英字)
著者(カナ) ヤマウチ,ノボル
標題(和) アルキルラジカルの生成および熱分解・異性化反応に関する研究
標題(洋)
報告番号 114327
報告番号 甲14327
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4453号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 松為,宏幸
 東京大学 教授 幸田,清一郎
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 水野,哲孝
 東京大学 講師 三好,明
内容要旨

 アルキルラジカルは炭化水素の燃焼や、大気化学において重要な役割を果たすラジカルである。特に高温度領域におけるアルキルラジカルの生成および反応は、炭化水素の燃焼の初期過程で重要な役割を果たすため、その反応速度論的情報は燃焼現象を理解する上で重要であり、過去にも数多くの研究が行われている。しかし実験技術の制約から、過去に報告されている研究のほとんどは、燃焼温度よりの低い温度で行われており、高温での情報は低温の実験結果の外挿により推定されたものが大半である。しかしアルキルラジカルの熱分解反応では、低温の実験条件では高圧極限が成立しているのに対し、高温常圧条件下ではfall-off領域に入っている可能性があり、実際の燃焼のモデリングに低温の高圧極限の外挿値を用いるのは必ずしも妥当ではないと考えられる。

 反応機構を理解する上で、反応の総括速度定数とともに、反応が分岐する場合には反応の分岐率の情報が不可欠である。しかし、分岐反応の研究は反応系が複雑になるため実験データの解析が難しく、研究例が非常に少ないのが現状である。

 そこで本研究では、高温におけるアルキルラジカルの生成、分解および異性化反応の分岐を中心に研究をおこなった。本論文では、(1)O(3P)+C3H8反応の反応分岐率、(2)アルキルラジカルの熱分解および異性化過程、(3)低温におけるアルキルラジカルの異性化過程の直接的観測についての報告を行う。

1.O(3P)+C3H8反応の反応分岐率

 OH,O,Hなどによる飽和炭化水素からの水素引き抜き反応は、燃焼における炭化水素酸化の初期過程として重要な役割を演じている。そのため、これらの反応については、過去にも数多くの反応速度の測定が行われてきた。しかし、C3H8以上の飽和炭化水素には、異なった環境のC-H結合部位が存在し、引き抜かれるH原子の部位によって、後続反応が異なってくるため、炭化水素の燃焼機構を検討するには、総括反応速度定数に加えて、水素引き抜き反応の分岐率に関する情報も重要となる。反応の分岐率については、反応速度のグループ加性則や遷移状態理論により推定されているが、実験的には、引き抜き反応により生成するアルキルラジカルの異性体を選択的に検出するのが難しいため、低温度領域における同位体を用いた研究があるのみで、直接観測した例はない。

 本研究では、高温におけるO+C3H8反応

 

 の分岐率の直接測定を試みた。

 実験は、レーザー光分解-衝撃波管法を用いて行った。反応の分岐率は、secondary水素が引き抜き抜かれて生成するi-C3H7の熱分解反応のみが水素原子を放出することを利用して行った。観測された水素原子濃度の時間変化を図1-1に示す。後続反応であるOH+C3H8やH+C3H8反応が水素原子濃度の変化に関与するため、分岐率を決定するために数値シミュレーションをおこなった。実験値とのフィッティングにより反応(1-1b)の分岐率f1-1bは0.55(944K),0.51(1130K)と評価された。図1-2に本研究で評価したf1-1bと、他の研究での推定値を比較するが、本研究の値は、遷移状態理論を用いた計算値とよく一致している。

図1-1 水素原子濃度の時間変化。実線が実験値と合わせた数値シミュレーションの計算値。破線と点線は、数値シミュレーションで求めた下限と上限。図1-2 反応(1-1b)の分岐率の温度依存。●:本研究室で行われた光イオン化質量分析計での実験値、○:本研究で得られた実験値。実線はTST計算の値、点線は推奨値。
2.アルキルラジカルの熱分解および異性化過程

 アルキルラジカルの熱分解反応は、炭化水素燃焼過程において、炭化水素からの水素引き抜き反応の後続反応として重要な反応である。高い温度領域では、エネルギー的に不利なC-H結合解離が主反応経路であるC-C結合過程に競合する可能性が考えられるが、この競合に関する情報はほとんどない。

 長い直鎖をもつアルキルラジカルは、短い直鎖を持つアルキルラジカルの主要反応経路である結合解離過程に競合して、水素原子の分子内移動過程が起こるとされていて、いくつかの研究がなされている。しかし、ほとんどの速度パラメーターは複雑な反応系の実験から推定されているため、より直接的な実験による検討が必要である。

 本研究では、衝撃波管と原子共鳴吸収法を用いて、高温(950-1300K)、常圧(〜1atm)条件下でのn-C3H7,i-C3H7,n-C4H9,s-C4H9,i-C4H9,1-C5H11および1-C6H13の熱分解反応および異性化反応で生成する水素原子を観測することにより、C-H結合解離、および異性化反応の寄与についての検討を行った。

 実験は、衝撃波管-原子共鳴吸収法(ARAS)を用いて行った。アルキルラジカルの生成には、対応するヨウ化アルキルの熱分解反応、

 

 を利用した。ヨウ化アルキルの熱分解反応では、HIを生成する分子解離反応(2-1b)がC-I結合解離反応(2-1a)と競合するので、(2-1a)によってアルキルラジカルと等量生成するヨウ素原子をARASによって定量することにより、アルキルラジカルの初期生成量を決定した。

 図2-1に2つのプロピルラジカル異性体の熱分解反応より生成する水素原子の収率を示す。2つのプロピルラジカル異性体間の収率の大きな違いは、それぞれの異性体間の、3員環を経由する異性化過程は重要でないことを示している。また、n-C3H7の非常に小さい収率は、1000-1400Kの温度領域において、C-H結合解離はほとんど競合しないことを示唆している。図2-2に3つのブチルラジカル異性体から生成する水素原子の収率を示すが、ブチルラジカルの結果からもC-C結合解離過程が支配的であり、C-H結合解離過程および4員環経由の異性化過程は重要でないことが示唆される。

 次に、より大きな環の遷移状態を経由する異性化を調べるために、1-C5H11と1-C6H13について実験をおこなった。図2-3、2-4に観測された1-C5H11と1-C6H13の結果を示す。1-C5H11では、5員環の遷移状態を経由する異性化を経た反応経路のみから水素原子が生成するので、実験結果は5員環経由の異性化の存在を示唆する。一方1-C6H13では、6員環の遷移状態を経由する異性化を経た反応経路のみが水素原子が生成しないので、やはり実験結果は6員環経由の異性化の存在を示唆する。

 競合反応の分岐率はFall-offの効果を大きく受けると考えられるので、multi-channel RRKM計算をおこなってその効果を検討した。図2-1にn-C3H7の計算結果を示す。高圧極限を仮定した計算(図中の1点破線)では、収率の温度依存が説明できず、過去に報告されている熱力学データにも一致しないのに対し、Fall-offを考慮した計算ではうまく説明することができる。より大きな分子である1-C5H11と1-C6H13の計算でもFall-offの効果が重要であることが示唆される。

図2-1 n-C3H7(●)及びi-C3H7(○)熱分解反応における水素原子の収率。i-C3H7のデータ上(○)の実線は、i-C3H7の収率の平均値,n-C3H7のデータ(●)上の実線:RRKMによる計算値、一点破線:高圧極限を仮定した場合の計算値。図2-2 n-C4H9(O),s-C4H9(●)及びi-C4H9(□)熱分解反応における水素原子の収率。各データ上の線は収率の平均値。図2-3 1-C5H11熱分解反応における水素原子の収率。一点破線(-・-):高圧極限を仮定したときの計算値。3本の平行線はRRKMによる計算値、(…)Eu(5sp)=20.2kcal mol-1.(-)20.5.(--)20.8。図2-4 1-C6H13熱分解反応における水素原子の収率。二点破線(-‥-):高圧極限を仮定したときの計算値。3本の平行線はRRKMによる計算値、(…)Eu(5sp)=14.3kcal mol-1.(-)14.6.(--)14.9。
3.低温におけるアルキルラジカルの異性化過程の直接的観測

 2章において、高温(900-1400K)におけるアルキルラジカル熱分解反応に関する検討をおこなったが、異性化反応のトンネル効果や、衝突当たりの下方エネルギー移動の平均値<Edown>は、反応速度定数に与える影響は大きいと考えられるが、これらを検討するためには高温の実験データだけでは不十分である。第2章の実験条件ではアルキルラジカルの熱分解反応は、結合解離過程と異性化過程の競合反応となるが、それよりも低温、低圧条件下では、異性化過程が単独で起こることが予想される。そこで本研究では、光イオン質量分析計を用いて、1-C5H11の異性化過程を直接観測することを試みた。

 実験は、光イオン質量分析計を用いて行った。反応気体は、反応管に巻かれたリボンヒーターにより加熱され、反応管中に挿入した熱電対により温度を測定する。2-C5H11のイオン化ポテンシャルは、1-C5H11より小さいため、適切な光源でイオン化することにより、1-C5H11の異性化で生成する2-C5H11を選択的に観測することができる。本実験では、光源としてBr(〜7.9eV)またはC(〜7.9eV)放電ランプを用いた。以前本研究室で行われた実験では、Brランプによりi-C3H7を選択的に観測することに成功している。

 1-C5H11は反応管中に導入した1-C5H11Cl/He混合気体中にをArFレーザーを照射し、1-C5H11Clの光分解反応

 

 を利用して生成させた。

 観測された信号には反応開始後、1-C5H11の異性化反応で生成した2-C5H11によるものと思われる信号の上昇が観測された。反応開始時に信号の急激な上昇がみられたが、これは、レーザー光分解時の余剰エネルギーにより1-C5H11が異性化して生成した2-C5H11によるものか、または、光源による異性体の分離が完全でないために拾った1-C5H11の信号によるものと考えられる。観測結果より得られた1-C5H11の速度定数を図3-1に示すが、fall-off領域にみられる典型的な速度定数の圧力依存性が観測されている。これらの実験データとRRKM計算により、エネルギー移動過程およびトンネル効果についての検討をおこなった。

図3-1 437K(○)、461K(●)における1-C5H11の反応速度定数
審査要旨

 本論文は「アルキルラジカルの生成および熱分解・異性化反応に関する研究」と題して、炭化水素燃料の燃焼過程などで重要な、アルキルラジカルの生成および単分子分解過程に関する反応速度論的研究をまとめたもので7章より構成されている。

 第1章は緒言で、燃焼の化学反応におけるアルキルラジカルの位置づけおよび既往の研究について述べている。そのなかで、燃焼条件に近い高温度領域におけるアルキルラジカルの生成、単分子分解に関する研究、特に競合反応の反応分岐率に関する研究が進んでいないことを指摘し、また複数の反応経路が競合する単分子反応において、漸下効果が重要になる可能性について指摘している。

 第2章においては、実験に使用した衝撃波管-原子共鳴吸収法、および光イオン化質量分析装置について述べている。

 第3章では、酸素原子とプロパンの反応における反応分岐率の実験的な測定について述べている。プロパンの二級水素原子が引き抜かれることにより生成するイソプロピルラジカルの熱分解反応からのみ水素原子が生成することに着目し、衝撃波管と原子共鳴吸収法を用いて高温(944K,1130K)において、二級水素原子引き抜きの分岐率を決定している。本研究は酸素原子とプロパンの反応の反応分岐率を実験的に測定する初めての試みであり、観測された分岐率は既往の遷移状態理論を用いた推定値とよく一致すると述べている。

 第4章では、高温におけるアルキルラジカルの熱分解および異性化過程についての研究について述べている。実験は衝撃波管と原子共鳴吸収法を用いて行なわれ、アルキルラジカルの単分子反応で生成する水素原子の収率から競合反応についての議論を行っている。高温(900-1400K)、常圧におけるプロピルおよびブチルラジカル異性体の熱分解反応の研究から、アルキルラジカルの熱分解反応においてはエネルギー的に有利な炭素-炭素結合解離過程が主反応経路であり、エネルギー的に不利な炭素-水素結合解離過程、3員環、4員環の遷移状態を経由する異性化過程はほとんど競合できないと結論している。また、実験結果の単分子反応論による解析から、実験条件下、延いては実際の燃焼条件下において漸下効果が顕著であることを示している。1-ペンチルラジカルと1-ヘキシルラジカルの実験結果からは、5員環、6員環の遷移状態を経由する分子内水素移動過程が炭素-炭素結合解離過程に競合することが示され、それぞれの分子内水素移動過程の反応障壁の高さを評価している。

 第5章では、1-ペンチルラジカルの異性化過程の直接観測に関する研究について述べている。実験は異性化過程が唯一の反応経路となる条件下(450-510K,1-7Torr)で行われた。異性化反応の生成物である2-ペンチルラジカルのイオン化ポテンシャルが反応物の1-ペンチルラジカルのそれよりも小さいことを利用して、適切なイオン化光源により選択的に2-ペンチルラジカルを観測している。この2-ペンチルラジカルの濃度の時間変化より、1-ペンチルラジカルの異性化過程の反応速度定数の温度依存、圧力依存を観測している。また実験結果の単分子反応論による解析から、異性化過程の障壁の高さおよび衝突による平均エネルギー消失量を評価している。さらに評価した障壁の高さが、第4章の高温の実験や既往の量子化学計算により求められた値より小さいことから、トンネル効果の可能性を指摘している。

 第6章においては、アルキルラジカル生成の前駆体として用いたヨウ化アルキルの単分子分解過程について述べている。衝撃波加熱したヨウ化アルキルから生成するヨウ素原子の収率を原子共鳴吸収法を用いて測定し、炭素-ヨウ素結合解離過程とヨウ化水素分子脱離過程の反応分岐率について議論している。測定された反応分岐率と理論計算との比較から、理論計算において2つの反応経路の相互作用を考慮した取り扱いが重要であることを指摘している。またヨウ素原子の結合部位(一級、二級、あるいは三級)の違いによる、ヨウ化水素分子脱離過程の反応障壁の高さの違いについて評価している。

 第7章は結言であり、研究成果をまとめ、実際の燃焼条件においてアルキルラジカルの単分子反応の漸下効果を考慮することが重要であること、複数の反応経路が競合する場合はこの効果が特に顕著になることなどを結論している。

 以上要するに、本論文は燃焼の化学反応過程において重要なアルキルラジカルの生成および熱分解・異性化反応に関して新たな反応速度論的知見を与えたものであり、化学システム工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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