学位論文要旨



No 114335
著者(漢字) 靍谷,泰之
著者(英字)
著者(カナ) ツルタニ,ヤスユキ
標題(和) キラルな芳香族スルホキシドの光ラセミ化反応の機構と液晶への適用
標題(洋)
報告番号 114335
報告番号 甲14335
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4461号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀江,一之
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 教授 荒木,孝二
 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 助教授 加藤,隆史
内容要旨

 キラルな化合物は,自然界,あるいは生体内に豊富に存在する.また,光学異性体のうち一方と選択的に反応するのは生体内の反応の特徴である.天然に存在する不斉化合物を合成したり,修飾したりする試みは実用的な観点から重要である.そこで,長年にわたって光学活性分子の絶対配置,不斉反応の反応機構,実用的価値の高い光学活性物質の合成に関する研究が活発に行われてきた.一方,光化学反応は,光子を吸収した分子が励起状態を経て進行することから,熱反応とは反応機構や生成物が異なる.本研究は,キラルと光を結びつけるという発想に基づき,光不斉反転による光ラセミ化に着目した.数種類の化合物で,こういった光ラセミ化が報告されているが,反応機構についてほとんど報告のないスルホキシドを採り上げ,励起状態と反応機構を明らかにした.また,光による液晶制御の可能性を検討するため,スルホキシドの光ラセミ化を液晶に適用した.

 芳香族スルホキシドの光化学に関する研究は,光照射後のC-S結合の開裂により生成したラジカル対と,それらの複雑な生成物に関する研究が主であり,スルホキシドの光反応初期の物理過程や,光励起状態での不斉反転の機構に関する研究は,ほとんど行われなかった.そこで,芳香環の-*状態の影響から,励起状態及び光不斉反転の機構を検討するために,置換基の芳香環の大きさを変えたジアリルスルホキシドを4種類(PHSO,NASO,PNSO,PYSO)合成し,ヘキサン溶液,メタノール溶液について,蛍光スペクトルを測定し,9,10-ジフェニルアントラセンの蛍光スペクトルと面積を比較して蛍光の量子収率,,を求めた.次に,150WのXeランプとモノクロメーターを用いて様々な波長の光を照射して光ラセミ化を行い,光学活性の変化をCDスペクトル,光分解による濃度の変化をHPLCで測定し,それぞれのスルホキシドのR体からS体及びS体からR体への光反転の量子収率,inv,及び光分解の量子収率,dec,を求めた.また,応用化学科の平尾公彦教授のご協力を得てGaussian94で分子軌道計算を行い,基底状態及び励起状態の電子構造と,遷移エネルギーを求めた.

 

 分子軌道計算から,励起状態は,-*(芳香環),n-*(スルフィニル),-*(スルフィニル)状態であることが初めて明らかになった.それぞれの遷移エネルギーは,-*の場合,芳香環が大きくなるにつれ小さくなるのに対し,n-*,-*の場合はほぼ一定である.また,振動子強度から,n-*,-*は禁制遷移であることがわかった.

 蛍光は,芳香環の小さなスルホキシドからは見られず,PNSO(メタノール溶液),PYSOから見られた.また,芳香環の大きなPYSOの方がPNSOよりは大きな値となった.また,無極性の溶媒中よりも,極性溶媒中の方がは大きい値となった.これは,分子軌道計算の結果とよく対応し,芳香環による共鳴が大きくなるにつれ-*の遷移エネルギーが小さくなり,一方では,n-*,-*の遷移エネルギーは芳香環の共鳴の影響をほとんど受けないためと考えられる.

 光ラセミ化の実験から得られた量子収率は,PHSO,NASO,PNSOの場合,それぞれinv=0.3〜0.4,dec=0.03〜0.04であった.PYSOは,inv=0.02〜0.03,dec=0.002〜0.003(メタノール溶液),0.012〜0.016(ヘキサン溶液)となった.芳香環の小さいスルホキシドにおいては,光反転及び光分解が効率よく起こっているのに対し,PYSOにおいては反転及び分解の効率が下がっている.分子軌道計算と,蛍光測定の結果から,芳香環の小さいスルホキシドは最低励起状態がn-*あるいは-*状態であると考えられ,PYSOは最低励起状態が-*に入れ替わったと考えられる.各励起状態の遷移エネルギーのスルフィニル基の角度依存性を計算したところ,基底状態及び-*状態ではキラルな正四面体型が安定であり,n-*状態では角度によらずほぼ一定,-*状態では反転の中間状態である平面構造の方が安定であるという結果が得られた.これらの結果から反転によるラセミ化がn-*,-*で起こるという機構が明らかになった.その中でも-*の寄与が大きいと示唆される.

 有機化合物を用いた光機能材料の媒体としては,ポリマーが,透明性,加工性に優れている.しかし,アモルファスなポリマーマトリックス中では,化学反応などに必要な自由体積に不均一な分布があり,また,自由体積の分布は,ポリマー鎖の分子運動の影響を受けるなどして,有機化合物の光化学反応の進行は溶液中とは異なる.光ラセミ化を溶液中とポリマー中で比較するため,まず,PYSOの希薄溶液(濃度1〜2×10-5M)に高圧水銀灯の365nmの光を干渉フィルター,カットフィルターを用いて照射し,光ラセミ化を行った.また,ポリマーにPYSOをドープしたサンプルを作成し,室温と88Kで光照射を行い,光ラセミ化を行った.溶液中では,inv=0.02〜0.03,dec=0.004〜0.005と求められ,溶媒を変えたことによる影響はみられなかった.室温でのポリマーサンプルでは,CDスペクトルの変化から求めたは,溶液中とほぼ同じ値であった.室温においては,ポリマー鎖の分子運動が依然活発なため,光反転に必要な体積(sweep volume)より大きな自由体積がポリマー中に充分に存在していると考えられる.

 ポリマーサンプルを88Kで光照射したところ,反応の一次プロットが直線から大きくずれた.これは,ポリマー鎖の分子運動が88Kにおいて抑えられ,自由体積が減少したためと考えられる.反応初期の傾きから求めた量子収率=0.016であり,室温の値と同程度であった.ポリマー鎖の影響を強く受けているために,反応の進行が妨げられているが,自由体積に不均一な分布があり,比較的反応しやすい空間があることを反映している.

 最近は,液晶を光化学反応で制御する研究が活発に行われている.これらは主に,フォトクロミック反応で,液晶の秩序構造や,相転移温度,界面の配向を変化させ液晶の光物性を制御するものと,フォトクロミック分子にキラリティを導入して,コレステリック相のねじれピッチを変化させるものに分けられる.光ラセミ化でコレステリック液晶のらせん構造を制御することを検討するため,液晶にPYSOをドープし,光ラセミ化によるらせんピッチの変化とコレステリックの消失点を観察し議論することにした.

 4-4’ペンチルビフェニルカルボニトリル(5CB)にPYSOをドープし,垂直配向のシランカップリング剤で処理した石英板で厚さ12mのポリエチレンフィルムとともに挟んだ.水銀灯の365nmの光を照射し,光ラセミ化を行った.らせんピッチは偏光顕微鏡でフィンガープリントテクスチャの幅を測定して求めた.また,PYSOの初期濃度を変えたサンプルを作成し,それぞれの初期ピッチと,テクスチャの均一性が失われるまでの間のピッチを測定した.

 らせんピッチの長さpと,添加したキラル化合物の濃度Cの間には次のような関係がある.

 

 ここで,Mは,液晶中のキラル化合物のらせんピッチ強度,gはエナンチオマー過剰率である.PYSO/5CB系ではM=-1.1M-1m-1であった.光照射中のらせんピッチの長さp(t)はR体,S体の濃度CR(t),CS(t)の速度式を用いて次のように導出できる.

 

 I0は照射光量(einstein cm-2s-1),lはサンプルの膜厚(cm),ODは吸光度,tは照射時間(s),C0はこの場合,PYSOの初期濃度であるが,R体,S体の濃度(M)の和である.アセトニトリル中の量子収率inv,decを用いて理論曲線を得た.測定値は理論線とよく一致した.初期濃度が低い方が,観測される最大ピッチp1が大きくなる傾向が見られるが,フレデリクス転移によりテクスチャの均一性が失われるときのピッチはおおよそ50m-65mであった.また,他のキラル分子(S)-(-)-1,1’-ビ-2-ナフトールを5CBに様々な濃度でドープしたサンプルを作成し,ピッチを測定したが,0.25wt%のサンプルで42.5mのピッチが得られ,0.2wt%のサンプルではテクスチャは不均一になっていた.この濃度ではピッチの計算値は53.1mであるので,テクスチャの均一性が維持される最大ピッチはPYSOの場合とほぼ同じ約50mである.

 本研究において,芳香環の大きさの異なるスルホキシドを合成し,分子軌道計算と蛍光測定から,励起状態を議論し,光不斉反転による光ラセミ化の機構を明らかにした.また,ポリマーマトリックスが光ラセミ化に及ぼす影響を調べた.さらに,液晶中の光ラセミ化について議論した.液晶中にドープした光不斉反転する分子のラセミ混合物に円偏光を照射すると,ネマチック状態からフィンガープリントテクスチャを誘起することが期待できる.円偏光照射による定常状態のCR-CSは異方性因子をg=(l-r)/として,C0g/2に等しいため,テクスチャが現れるかどうかはC0,g,Mから見積もることが出来る.しかし,50mのピッチを得るためには,濃度が20wt%,gがPYSOと同じ2.1×10-3の場合には,Mは31m-1M-1より大きな値が必要となる.円偏光照射による液晶の光スイッチングを行うためには,液晶への溶解度,異方性因子g,ねじれピッチ強度Mの大きな分子が要求される.

審査要旨

 生体内においては,キラル化合物が豊富に存在し,反応が不斉選択的に起こるため,光学活性分子の合成,絶対配置,不斉反応の反応機構の研究は重要視されている.また,光合成,視覚認識の機構の解明,光スイッチ,光メモリー,光機能性分子に応用すること等を目的とした有機分子の光化学反応の研究も活発に行われている.

 一方,キラル分子の光反応を扱う主な研究分野としては,光を利用した不斉合成が挙げられる.しかし,適用できる分子が限られているなどの問題があり,実用的な不斉合成に発展しているとは言えない.ところが最近になり,光スイッチや光記録材料に応用することを目的とした液晶の光制御の分野において,キラル分子の光反応が注目されるようになった.本来,キラリティの変化は光学的に微小な変化で検出するのは困難であるが,液晶の増幅効果を利用することにより,光学的に大きな変化を得ることが出来るためである.

 本論文は,キラル分子の光反応のなかで,光でキラリティが反転する分子に着目したものである.光立体反転する分子のうち,光分解が起こりにくく,室温で熱ラセミ化が起こらず,不斉合成が容易なキラルなジアリールスルホキシドを選び,その光励起状態と光反転の機構を,光ラセミ化,分子軌道計算,蛍光測定の結果に基づき,初めて明らかにしている.また,光ラセミ化を液晶に適用し,光ラセミ化によるコレステリックピッチの変化,フレデリクス転移によるネマチック相への相変化を観察している.さらに,非常に困難であるために世界で1例しか報告のない円偏光による液晶制御について議論し,光反転する他の分子の円偏光制御への適性と,具体的な改良点などの可能性を示している.また,優れた光機能材料の媒体であるポリマー中でのスルホキシドの光ラセミ化の挙動についても初めて報告している.

 第1章では,キラル化合物の光反応,スルホキシドの光化学,光反応による液晶制御に関する過去の研究をまとめ,本研究の背景と,各章の目的を述べている.

 第2章は,スルホキシドの光励起状態と,光ラセミ化の機構を明らかにしたものである.芳香環の大きさの異なる4種類のスルホキシドを合成し,分子軌道計算,蛍光測定,光ラセミ化による光反転の量子収率の測定を行った.分子軌道計算からスルホキシドの励起状態はn,*,,*,,*状態であることがわかった.また,,*状態の遷移エネルギーは芳香環が大きくなるにつれ小さくなるのに対し,n,*,,*状態の遷移エネルギーはほぼ一定であることがわかった.蛍光測定においては,芳香環の大きなスルホキシドからは蛍光が見られたが,分子軌道計算の結果も考慮し,最低励起状態がn,*あるいは,*状態から,*状態に入れ替わっているためと説明している.光ラセミ化の測定から,光反転の量子収率を求めたところ,再び,*の遷移エネルギーの影響が見られ,芳香環の最も大きなピレニルスルホキシドの反転の効率が下がった.また,スルフィニル基のコンホメーションの変化に伴う遷移エネルギーの変化を計算し,,*状態において光反転が起こるという結論を得ている.

 第3章では,ポリマー中におけるスルホキシドの光ラセミ化を室温と液体窒素温度で測定し,ポリマーマトリックス中の局所自由体積や,ポリマー鎖の分子運動が反応の進行に与える影響を議論している.室温においては,ポリマー中の局所自由体積が光反転に必要な体積に比べ充分に確保されているために溶液中と同様に進行したが,液体窒素温度ではポリマー鎖の分子運動が抑えられ,局所自由体積が減少したために,反応の進行にマトリックスのミクロな不均一性の影響があらわれたと考えている.

 第4章では,ネマチック液晶中のスルホキシドの光ラセミ化によるコレステリック相のピッチ変化の測定を行い,フィンガープリントテクスチャの消失点を測定している.また,光反転による液晶制御という新しい液晶の光制御の可能性についても考察している.

 第5章は,本論文のまとめである.スルホキシドの光反転の機構,励起状態,ポリマーマトリックスが及ぼす影響,液晶中の光ラセミ化について,本論文で明らかにしたことを要約し,さらに,液晶中の光ラセミ化から得られた結果をもとに,光反転する分子による液晶制御の可能性を議論している.また,今後の展望と課題として,種々の光反転する分子の円偏光を用いた液晶制御への適性について述べ,液晶への溶解性を高めるために配位子を工夫したクロム(III)錯体が,円偏光制御の実現に有力な候補であることを示唆している.

 以上のように,本論文は,数種類の芳香族スルホキシドの分子軌道計算,蛍光測定,光ラセミ化から,キラルなジアリールスルホキシドの光立体反転の機構と励起状態を初めて明らかにしたものである.また,光反転する分子を用いた液晶制御の可能性を初めて具体的に示唆している.

 このような知見は,キラル化合物の光化学の進歩,光化学反応による光制御,光記録素子を目的とした研究の発展にとって,意義深いものであり,光機能化学の進歩に寄与するところは大きい.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク