学位論文要旨



No 114344
著者(漢字) 一杉,太郎
著者(英字) Hitosugi,Taro
著者(カナ) ヒトスギ,タロウ
標題(和) シリコン表面上における人工原子構造の緩和と異方的原子拡散
標題(洋) Relaxation in artificial atomic structure and anisotropic migration on Si surface
報告番号 114344
報告番号 甲14344
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4470号
研究科 工学系研究科
専攻 超伝導工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北澤,宏一
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 助教授 渡邉,聡
 東京大学 講師 藤岡,洋
 東京工業大学 助教授 長谷川,哲也
内容要旨 1はじめに

 固体物理の分野で原子スケールの物理が非常に大きな関心を集めている。その背景として、半導体技術の急速な進歩により、ナノメータスケールの非常に微細なデバイスの開発が試みられるようになったことがあげられる。さらに、低次元系において量子ホール効果やラッティンジャー液体等の現象が脚光を浴び、これらが原子スケールでどのような振る舞いを見せるのかも関心が持たれている。もう一つの背景として、走査トンネル顕微鏡技術の発展により原子を表面で自在に操ることが可能となり、作製した原子構造の物性を評価することが可能になってきたこともあげられる。本研究では微細な領域の表面物性を理解することを目的として、STMを用いて水素終端Si(100)2×1表面上に作製した原子スケール構造の物性と、Ga原子の吸着ポテンシャルエネルギー面の研究を行った。さらに、大型計算機を用いた第一原理計算による物性研究グループの協力を得て、作製した原子構造の物性を理解し、これから作るべき構造の設計および物性の予測を行ないつつ研究を進めた。

 本研究は大きく分けて以下の二つの研究から成り立っている。

1.ダングリングボンド構造の電子状態と構造緩和

 一原子幅の原子細線は電気が伝導するのか、という大きな疑問に対して実験的な挑戦が非常に盛んである。そのような実験に関連して、STMを用いて水素終端Si(100)2×1表面上にダングリングボンド(DB)からなる原子スケール構造を作製し、そのトンネルスペクトルおよび電子状態密度の空間分布を測定した。そして第一原理計算の結果と比較して、実際に原子スケール構造を作るとどのような構造安定化を起こすのか、また、それに伴い電子状態はどのような変化を起こすのかというテーマについて議論する。

2.吸着ポテンシャルエネルギー面(PES)の直接観察

 固体表面における原子の吸着・表面拡散・脱離などについての研究が、薄膜成長や触媒作用のメカニズムに関連して、幅広く行われている。基板表面での原子の動きは表面と原子間の吸着PESに支配されおり、その知見を実験的に得ることが非常に重要である。しかし吸着PESのナノメータスケールでの空間分布測定はいまだ皆無といってよい。本研究では水素終端Si(100)2×1表面上のGa原子像が吸着PESを反映することを示し、その空間分布を議論する。

 すべての実験は超高真空STMを用い、室温および低温(30K〜150K)で測定を行った。AsドープしたSi(100)(7〜18m・cm)を試料基板とし、探針はタングステンを電解研磨したものを用いた。水素終端Si(100)2×1表面に観察時より大きなトンネル電流とバイアス電圧を印加しながらSTM探針を移動させることにより、水素原子を引き抜いてDB構造を作製した。

2ダングリングボンド構造の電子状態と構造緩和

 水素終端Si(100)2×1表面には、paired DB(Siダイマーから二つの水素が抜けたもの)とunpaired DB(Siダイマーから水素が一つ抜けたもの)の2種類のDBが存在する(図1(a))。それらDBをダイマー列に沿って並べた、長さ数nmから十数nmの3種類の構造:(a)paired DBのみ、(b)unpaired DBのみ、そして(c)それら両者がランダムに混在した構造を作製し、STM/STS観察を行なった[1]。無限の長さのDB構造を仮定して得られた第一原理計算[2]と比較した結果を表に示す。

表 3種類のDB構造についての実験結果と計算結果の比較

 以上の考察から、次の結論が導き出された。

 1.unpaired DBまたはpaired DBのみが連なった構造のように、長さが数nm程度であっても、周期的な原子構造と見なせるものについては構造緩和が起き、それに伴い電荷が再分布してエネルギーギャップを持つようになる。

 2.フェルミ準位に有限な状態密度を持つ構造にするためには、単原子幅と二原子幅の原子構造をランダムに混ぜるのがよい。

図1:(a)水素終端Si(100)2×1表面の模式図。(b)unpaired DBのみからなる構造のSTM像。(7nm×4nm,サンプルバイアスVs=-2.0V,トンネル電流It=20pA,100K)

 比較的長い構造(数nmから十nm程度)では緩和が起きることがわかり、無限大の長さを持ったDB構造の第一原理計算と良い一致を示した。それでは数個のunpaired DBが並んだ構造はどのような緩和を示すのであろうか。100K付近でunpaired DBがダイマー列に平行に並んだ構造のSTM観察を行うと、DBの高さに差が出ることを見いだした。2,3,4,5個のDBで構成した列の断面図を図2(a)に示す。断面図はVs=-2.0V(占有状態)、It=20pAで測定した。

 DBが2つの場合は高さの差はないが、3つの場合は両端のDBに比べ中心のDBが低く観察される(図2(b))。DBが4つの場合には両端のDBは同じ高さだが、中心の2つのDBが低く観察されている。DBが5つの場合は両端のピークと中央にもう一つピークが存在する。このような原子数個分の構造中で起きる緩和は、長さの効果や両端の効果が効いてくることが予想され、周期的にDBが並んでいるとみなした計算結果では説明できない。Li、川添ら[3]による3つのDBが並んだ場合に関する第一原理計算は実験を非常によく再現し、第二層のSi原子が重要な働きをすることが明らかになった。第二層の原子は図2(c)に示すように交互に左右に変位してペアを作る傾向があり、それに伴い第一層Si原子が突きだすか、または沈む。このとき、突きだした原子の電子エネルギー準位が低くなり、沈んだ原子の電子が突き出した原子に移動することがわかった。

図2:(a)DB構造の断面図。(b)3つのDBから構成された構造のSTM像。(4nm×2nm,Vs=-2.0V,It=20pA,100K)(c)3つのDBから構成された構造の最安定構造。(d)4つのDBから構成された構造の最安定構造の一つ。楕円はDBをあらわし、矢印が原子の変位方向をあらわす。

 偶数個DBからなる構造の場合、計算で示唆される二つの最安定構造が時間的にフリップしていることがわかった。2個のDBからなる構造の場合、フリップする時のバリアは48meV程度と見積もられた。偶数個の場合は一つの第2層原子がペアを作ることができない(4つの場合を図2(d)に示す)が、ペアの組み替えが起きることにより、ペアを作らない原子が実効的に移動してバリアが半分程度まで下がると予測される。このように偶数個の場合、ソリトンのような働きをする原子の移動を通じて、二つの最安定構造がフリップを起こしていると結論した。これらのDB構造は擬分子と見なすことができ、その緩和はヤーンテーラー変形と解釈することができる。

3吸着表面ポテンシャル(PES)の直接観察

 低温においてシリコン水素終端表面へのGa原子吸着の様子をSTM観察した結果、Ga原子が一次元的に拡散していると考えられる棒状の構造を見いだした(図3(a)。今後Ga barと呼ぶ)。このGa barは100K付近の狭い温度領域でのみ観察され、38K、77K、150K、室温では観測されない。

 第一原理計算より得られた、水素終端表面上のGa原子に対する吸着PES[4]を図3(b)に示す。二つのシリコンダイマー列間が最もエネルギーが低くなっており、STM像でGa barが存在する位置と一致している。このPESに基づいて、Ga原子が隣の安定位置に飛び移る確率を求めたところ、100Kで100s-1程度の確率であり、STMで観察された結果を説明するのに適当な大きさであった。またダイマー列を横切る方向に飛び移る確率は非常に小さく、100Kでは一次元方向にのみ移動することも確かめられた。以上のことからGa barは一次元的に運動しているGa原子をSTM観察した結果と結論づけられる。両端のダイハイドライドが井戸型ポテンシャルの壁となっていることがSTM像からわかり、実際に第一原理計算でもダイハイドライドが600meVの壁となっていることがわかった。

 ポテンシャル井戸に閉じ込められて、一次元ランダムウォークをしているGa原子が各ホッピングサイトを訪れる回数はポテンシャル井戸の長さに逆比例する。また、STMで観察されるGa barの高さは、探針直下にGa原子が訪れる回数を反映している。したがって、長い井戸に閉じ込められたGa原子ほどSTM探針直下を訪れる回数が少なくなり、低く観察されることが期待される。実際、実験では長いGa barほど低く観察されている。さらに、STM探針とGa原子の間の相互作用について詳細な検討を行った結果、ほぼ無視できることがわかった。これらの結果から、STMはGaの存在確率を直接観測でき、同一Ga bar内での高さの違いから、吸着エネルギーの差を定量的に導けることを示した。

 実験では高さが徐々に減っていくGa barも観察されている。図3(c)はそのSTM像の断面図と、断面の最高点をゼロ点とした時の各サイトの吸着エネルギー差を表している。この結果から数nmオーダーで空間的にポテンシャルが変化していることがわかった。STM像を詳細に検討した結果、この原因は表面のステップやシリコン欠陥ではなく、最表面以下の不純物にあると結論した。不純物の種類については現在考察中である。

図3:(a)Ga barのSTM像。(11nm×4nm,Vs=-2.0V,It=20pA,100K)(b)吸着PESの第一原理計算結果。等高線の間隔は0.1eV。(c)高さが徐々に減るGa barの断面図と吸着エネルギー差。
4結論

 微細な領域の表面物性について議論した。将来原子レベルの細線を作ると、細線内で構造安定化が起きて半導体的になる事を指摘し、ある程度のランダムネスが必要であると結論した。また、ダングリングボンド構造のフリッピングバリアの低下にはソリトン的な原子が重要な役割を担っていることを明らかにした。細線を作る際のプロセスにおいては表面の吸着ポテンシャルの理解が不可欠である。本研究から、最表面以下の不純物原子が表面の吸着ポテンシャルに影響を与えている可能性があることがわかった。これは薄膜成長過程の理解に関連して重要な知見に発展すると思われる。

謝辞

 実験に協力していただいた橋詰富博氏、平家誠嗣氏(日立基礎研)、松浦志のぶ氏(東大工)にお礼を申し上げます。また第一原理計算および有益な議論をしていただいた、渡辺聡助教授(東大工)、諏訪雄二氏、小野木敏之氏(日立基礎研)、川添良幸教授、大野かおる助教授、Li助手(東北大金研)に感謝いたします。

参考文献[1]T.Hitosugi et al.,Jpn.J.Appl.Phys.36,L361(1997).[2]S.Watanabe et al.,Phys.Rev.B54,17308(1996).[3]Li et al.in preparation.[4]Suwa et al.in preparation.
審査要旨

 本論文は、シリコン表面上に作製した原子構造の緩和と吸着原子の拡散に関するものであり、5章より構成されている。

 第1章では本研究の目的および動機を述べ、つづく第2章で本研究の土台となった関連研究をまとめている。提出者が新開発した超高真空-低温-走査トンネル顕微鏡(STM)(第3章)を用いて、本研究では微細な構造・領域の表面物性を理解することを目的として、水素終端Si(100)2×1表面上に作製した原子スケール構造の物性評価(第4章2,3節)と、Ga原子の吸着ポテンシャルエネルギー(吸着原子が基板表面上で感じるポテンシャルエネルギー)の空間分布測定が行われた(第4章4節)。さらに、本研究結果に基づいて行われた物性研究グループによる第一原理計算(局所密度汎関数法)の結果を基に、作製した原子構造の物性を理解し、それ以降に作製した新構造の設計および物性の予測を行ないつつ研究が進められた。以上の結果をもとに、第5章で本研究の総括と今後の展望を述べている。以下に各章を簡単にまとめる。

 第1章および第2章では、本研究の目的と意義を述べ、関連する研究をまとめている。数個から数十個の原子からなる微細な構造を作製することの重要性に触れ、その微細構造の物性測定がほとんどなされていないことを指摘し、本研究の必要性を強調している。

 第3章は、超高真空-低温STMの設計開発および実験手順について述べている。新STMは30Kまでサンプルを冷却することが可能であり、レベルの高い分解能、安定性を達成することに成功している。

 本研究は大きく分けて以下の二つの研究から成り立っている。

 第4章2,3節では人工微細原子構造の電子状態と構造緩和について議論している。実験的な挑戦が非常に盛んに行われつつある、「一原子幅の原子細線は電気伝導するか」という疑問に応えるために、STMによるアトミックマニピュレーション手法を用いて水素終端Si(100)2×1表面上にダングリングボンド(DB)を持ったSi原子からなる原子スケール構造(DB構造)を作製し、そのトンネルスペクトルおよび電子状態密度の空間分布を測定した。そして第一原理計算の結果と比較して、実際に原子スケール構造を作るとどのような構造安定化が起きるか、また、それに伴う電子状態の変化について議論している。DB構造の物性は、原子一個単位の長さおよび幅の変化に非常に敏感であることを見出している。

 第4章4節では水素終端Si(100)2×1表面上のCa原子像が吸着ポテンシャルエネルギー差を反映することを示し、その空間分布を議論している。低温において水素終端Si(100)2×1表面にGa原子を吸着してSTM観察した結果、Ga原子が一次元的に拡散していると考えられる棒状の構造(Ga bar)を見いだした。STMで観察されるGa barの高さから、STMはGaの各サイトにおける存在確率を直接観測でき、同一Ga bar内での高さの違いから、吸着ポテンシャルエネルギーの差を定量的に導ける可能性を示した。実験では同一Ga bar内で高さが大きく変化しているものも観察され、数nmオーダーで空間的にポテンシャルが変化していることをも見出している。STM像の詳細な検討と、さらに不純物原子のクーロン力が3nmから4nmに及ぶことの考慮から、この空間的変化の原因は表面のステップやシリコン欠陥ではなく、最表面以下の隠れた位置にある不純物原子または格子欠陥であると結論している。これらの結果は細線を作る際のプロセスや薄膜成長過程の理解に関連して重要な知見に発展すると思われる。

 以上、本論文では固体表面における原子レベルでの微細な構造の物性について、系統的ないくつかの知見が得られ。また、電子構造の観点からの考察が行われた。これらは、原子レベル微細加工および物性制御・デバイス開発などにおいて、将来への示唆を与えるものである。また、これらの研究成果は、論文提出者の物性物理、計算科学、装置開発技術等の広範な知識・技術を生かしたものであり、物質科学を中心とする境界領域科学に対しての貢献が大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54701