本論文は、「パイライト型化合物NiS2-xSexの金属-絶縁体転移」と題し、強相関絶縁体-金属転移(モット転移)を示す典型的な系であるNiS2-xSexをモデルシステムとして取り上げ、輸送現象、比熱、帯磁率、光学反射スペクトル等の多角的な実験手段を駆使する事によって、モット転移の臨界挙動を主に電荷のダイナミックスという観点から明らかにしたものである。構成は以下の6章からなっている。 第1章では、研究の背景と目的が述べられている。高温超伝導の発見を契機として、電子間の強いクーロン反発によって遍歴電子が局在化する現象、モット転移に潜む豊かな物理が再認識されるようになった。特に、金属側から絶縁体に連続に近づくときどのような形で転移が起こるのか?というのは最も重要な問題である。ところが、多体効果があらわな転移近傍の臨界挙動を理論的に近似なしに取り扱うこと非常に困難であり、現実の系を用いた実験的なアプローチなくしてその物理の解明は成し得ない。 本研究の題材であるNiS2-xSexはモット絶縁体NiS2を母体としている。Se置換あるいは圧力印加による伝導バンドの幅の制御によって、反強磁性絶縁体から反強磁性金属に転移した後、常磁性金属へと連続的に転移する。転移を精密に制御できるという点で、NiS2-xSexはモット点の臨界挙動を実験的に探る上で理想的な系である。本研究の目的はNiS2-xSexの金属-絶縁体転移近傍の物性の体系的な研究を通じて、モット転移の臨界挙動の物理の理解に寄与することにある。 第2章では、試料の合成と測定法について述べている。化学輸送法により高品質の単結晶をすべての組成領域にわたって合成し、粉末X線による評価を行った。また、本研究で用いた測定手法の原理、実際の測定方法、データの解析法などがまとめられている。 第3章では、NiS2-xSexの低温の諸物性を組成および圧力の関数として系統的に測定した結果が記述されている。電気抵抗、ホール効果、比熱、光学伝導度、磁化率などの測定結果をもとに、常磁性金属相と反強磁性金属相では金属-絶縁体転移に向けての挙動が全く異なっていることを明らかにした。常磁性金属相の諸物性は通常のFermi液体論の範疇で理解でき、金属-絶縁体転移へのアプローチはBrinkman-Rice流のキャリアの有効質量の増大として表現できる。一方、反強磁性金属相で有効質量の増大が抑制され、キャリア数の減少により金属-絶縁体転移が生じることを示した。この結果は、反強磁性磁気秩序の形成に伴い、ブリルアンゾーンを折りたたみが生じ、小さなFermi面が出現するとの描像によって理解される。磁気秩序の出現が金属から絶縁体へのアプローチを質的に変えることを実験的に明確に示したことが、本章の最も重要な成果である。 第4章では反強磁性金属相と常磁性金属相の境界点、量子臨界点に焦点を当て、その特異性が議論されている。常磁性金属相では明確なFermi液体的な挙動が観測されるのに対し、量子臨界点では電気抵抗率が低温でT1.5に比例し、帯磁率も低温で-Tに比例した大きな温度変化を示すなど、非Fermi液体的な挙動が観測される。 第5章では、高温領域で観測される金属から絶縁体クロスオーバー的な変化について述べられている。金属-絶縁体転移の弱い一次転移の臨界点より高温の領域では、温度および組成の変化に伴って、電気抵抗率に金属から絶縁体へ徐々に移行していくのが観測される。Hall係数及び光学伝導度スペクトルの組成依存性は、このクロスオーバーの過程でキャリア数には変化が現れず、伝導の状態がコヒーレントなものからインコヒーレントなものへと移行していくことを示している。また、温度変化によりクロスオーバーを生じさせた場合、キャリアのコヒーレンスの回復していく過程が光学伝導度スペクトルの中赤外領域の励起構造の変化として観測された。本章の内容はモット転移を示す系に普遍的に観測されるクロスオーバーの起源を実験的に明らかにしたものであり、その意義は大きい。 第6章は本論文の結論が述べられている。本研究で明らかとなったNiS2-xSexのMott転移に関する知見と、強相関電子系全体の理解に与えるインパクト、今後の研究についての展望が示されている。 以上を要するに、本論文はパイライト型NiS2Se2-xをモデル物質として選び、多角的な実験手法を駆使して、強相関金属-絶縁体転移(Mott転移)の臨界挙動の詳細を明らかにした。本研究を通じて、金属相から絶縁体相へのアプローチに果たす磁気秩序の役割、高温の金属絶縁体クロスオーバーの物理的描像が解明された。臨界挙動をこれだけ体系的にかつ精密に調べ例はほとんどなく、強相関電子系の物理を構築していく上で重要な基礎を与えることは疑いない。物性物理学さらには物理工学への貢献は大きく、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |