本研究では、マーケティング分野の製品概念形成という問題をとり上げている。ブランド・アイデンティティ(Brand Identity:BI)という概念と購買意向との関係に着目し、それをモデル化・可視化することで、ユーザーの主観に基づいた戦略的な製品概念形成を支援する方法論を提案し、システムの構築と実験・評価を行った。ユーザーには、ブランド・マネジャー等の専門家を想定している。なお、BIとは「ブランド戦略家が創造または維持しようと意図する独自のブランド連想の束」を意味し、消費者の受容に影響を与える送り手側(企業側)の意図を、消費者の認知内容で定式化するものである。この方法論/システムを用いることによって、ユーザーは、マーケティング戦略に沿っていて、かつ高い購買意向が見込める製品概念を、自身の意思や主観を反映しながら戦略的に形成することができる。 提案するBIと購買意向の関係モデルを「VBA-PIモデル(Value-Benefit-Attribute Layer and Purchase Intention Model)」、構築したシステムを「BICSS(Brand-Identity-Creation Supporting System)」と名付けた。従来、知的活動において漠とした知識(暗黙知)を顕在化する過程である"思考の外在化"に計算機の支援を取り入れる研究が様々になされてきたが、本研究では、そこに戦略的アプローチを取り入れた"戦略的な思考の外在化"を提案している。戦略部分を明示的に取り出して扱うことで、ユーザーに問題の所在を強く意識させるとともに効率的に解を得ることが可能になる。VBA-PIモデルを戦略的な思考の外在化の方法論で構築したシステムがBICSSである。 本研究ならびに本システム構築の必要性は、現代社会が抱える問題に求めることができる。元来、人間のニーズ・願望・嗜好といったものは実は明確な形(形式知)をとっていない場合が多く、そこから的確に要求機能を明確化する(=概念形成する)のは難しいことである。そのうえ、近年、社会システムの大規模化・複雑化が進み、いっそうそれが困難になっている。このような社会状況下においてもマーケティング分野で製品開発の際に求められる製品概念は、あくまで消費者のニーズ・願望・嗜好に合ったものでなければならない。しかも、概念形成は、製品設計プロセスの最上流に位置するものなので、この成否が製品の成否の要になる。このような背景から望まれる、マーケティング分野での製品概念形成に対する有益な計算機支援を本研究の目標とした。 ここでいう製品概念形成の「製品」とは、中身(機能)のほかに、パッケージ、ネーミングなど様々な要素から成り立っており、無形のイメージという財産を持つと考えられる。このため単なる製品としてではなく、有形無形の財産を含めた「ブランド」iという視点で製品を捉えていく必要があり、BIという概念を利用するのはそのためである。既存のブランド(製品)に対して消費者の持っているBIを分析し、構造化・可視化の実現をはかり、それを製品概念形成に利用することで、消費者の認知や嗜好をベースにユーザーが自分の戦略を反映したBI開発や管理ができるような手法/システムを提供するのが本研究の狙いである。 なお、工学的、社会学的問題には、以下の性質を持つものが多いが、本研究で扱うマーケティング分野での概念形成支援問題も同様に以下の性質を持つ。 ・ 要求仕様(ユーザの要求対象)が陽に定式化できない問題 ・ 知識に基づく探索が必要であるが、領域知識ii、対象知識iiiともに未整備な問題 ・ 組み合わせ探索空間が膨大な問題 このような条件下では、対象知識を整備し、要素の組み合わせ問題として定式化することで問題解決をはかることが多い。ただし、ユーザの評価尺度が明確に定式化できない状態なので、解法に工夫が必要となる。例えば、複数の視点からの解法を組み合わせる方法や、対話型進化計算法などを取り入れた手法などの利用が有効である。本研究でもそれらの方法を用いている。 また、概念形成活動の本質は、人間の思考の創造的活動に基づいているため、間題解決に際して以下の機能が必要とされる。これは創造性支援研究に通じるものである。 ・探索空間を広げる ・思考に刺激を与える ・効率的に解に到着できる モデル化にあたって、消費者は購買に関する意思決定をする際にどのような心理過程を経るのかということを理解しておく必要がある。本研究では、BI概念を取り入れた購買意思決定モデルを考案し、マーケティング・コミュニケーションという刺激(入力)から購買行動(または購買しないという行動)という出力への変換を担う消費者情報処理部分に注目した。その中で中心的な役割を果たすBIと購買意向の関係をモデル化したものが「VBA-PIモデル」である。 VBA-PIモデルの構成は、(1)構造化したBI(これを"VBA3層構造"と呼ぶ)、(2)BIと購買意向との関係(これを"A-PIモデル"と呼ぶ)、(3)(1)と(2)の統合、である。(1)については、ブランド連想に階層化の考えを導入し、BIを「Value(価値)-Benefit(利便)-Attribute(属性)」の3階層が連関した構造として捉えた。(2)については、購買意向と直接強く結び付いているのはBIの3階層のうちAttribute層であり、Value層、Benefit層はValue-Benefit-Attributeの連関からAttribute層を介して間接的に購買意向と結び付いていると考え、Attribute層と購買意向との関係を抽出してモデル化を行った。(3)については、(1)(2)に共通するAttribute層をキーとして統合するという方針をとった。 このVBA-PIモデルに基づき、そこに戦略的なアプローチを取り込んで構築したシステムがBICSSである。BICSSは生成検査法の手法を取り入れ、製品概念形成とその評価を繰り返しながら最終的に有用な製品概念を得ることを可能にしたシステムで、以下のような特徴を持つ。 ・ アンケートデータを用いて、現在の製品(ブランド)群のBIをVBA3層構造で表す。これによりBIの内容把握を容易にすると同時に、領域知識・対象知識を整理する。VBA3層構造化に加え、BICSS独自の構造化の特徴として重要なのは、属性を群化することで自由連想の量と順序を構造化することに成功したことである。 ・ 独自のBI構造化の更なる利用として、戦略的な製品概念形成を可能にした。戦略的アプローチの手法としては対話型進化計算法を用いている。具体的には、遺伝的アルゴリズムを内包した模擬育種法と帰納学習法を統合した方法で戦略知識の生成を行い、戦略知識の適用学習には経験強化型の強化学習手法を用いる。 BICSSを利用することで得られる最終的な製品概念は以下のような特徴を持つ。 ・消費者が現在持っているBIを基礎に敷いているため、実現可能性が高い ・当該ブランド(製品)のマーケティング戦略に沿っている ・購買意向を高める(少なくとも維持する) ・ユーザー自身の意思や主観を反映している また、BICSSは、概念形成を行う際に、思考に刺激を与えて探索空間を広げ、効率的に解に到着することを可能にするシステムである。 本研究では、上記の応用として、ビール市場における製品概念形成問題、陶磁器制作における製品概念形成問題という2つの実問題に対して、BICSSを適用し、各分野の専門家(前者の課題では消費財メーカーのブランド・マネジャー、後者の課題では陶磁器のデザイナー)に対して実験を行った。その結果として以下のことが観察され、本研究および本システムが製品概念形成に有効だということを実証した。 1.ユーザーが満足する製品概念を形成することができた。 2.その内容は、ユーザーの創造性を引き出すものであった。 3.概念形成の過程が効率的であった。 4.ユーザーごとに、個性を反映した異なった概念形成が行われた。 5.同じユーザーでも、課題に応じて別の特徴をもった概念形成が行われた。 以上 i高級ブランドを指すのではなく、製品として固有の名称をもつものを総称している ii領域で観測される現象を説明する理論、原理知識のこと iii対象に関する知識(領域知識を除く)であり、例えば対象の構造や、その部分構造などを指す |