学位論文要旨



No 114359
著者(漢字) 立田,晴記
著者(英字)
著者(カナ) タツタ,ハルキ
標題(和) サッポロフキバッタの形態形質変異に関する統計遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 114359
報告番号 甲14359
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1967号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 加藤,和広
 東京大学 助教授 岸野,洋久
 東京大学 助教授 根本,圭介
内容要旨

 昆虫の形態変異に関する研究は、一見して違いがわかるような少数の形態や色彩に基づいておこなわれることが多かった。しかし少数の形質に頼る分析は、集団の類別には役立つものの、微小地理的なレベルで生じる形態変異を十分にあきらかにするものではない。また地理的変異の研究では単に形態変異のパターンを記述するにとどまり、形態の機能を考慮した研究がおこなわれてこなかった。生物の形態は独立に変化するものではなく、それぞれの機能や遺伝的関係を通じて影響を及ぼしあいながら独自の構造が形成されていく。したがって本研究では、サッポロフキバッタという顕著な形態の地理的変異が観察できる昆虫を材料に、単なる変異パターンの把握にとどまらず、形態の機能を念頭におき、形態分化の程度を把握し、形態分化を推し進める選択の様式について推論し、また形態変異に関与している遺伝的基盤を明らかにすることによって、より包括的に形態進化の様相を探ることを目的とする。

 サッポロフキバッタPodisma sapporensisは北海道、サハリン、クリル諸島に分布する短翅性のイナゴ科昆虫である。本種は翅が著しく退化しており、地域集団間での遺伝子流動はほとんどないものと考えられている。したがって、それぞれの地域集団で遺伝的分化がすすみ、形態に大きな違いが生じていると解釈されてきた。これまでは多変量解析による形状因子の抽出や年次変動データを比較することで、間接的に集団間で遺伝的分化が生じている可能性が指摘されてきたが、遺伝データから遺伝的分化が裏付けられた例はない。また形質にはたらく選択については環境パラメータと形態変動の関係から、形質ごとに選択に対する反応が異なる可能性が指摘されてきたが、これを裏付ける実験はおこなわれてきていない。したがって上記2点の問題に注目して形態解析を進めた。

 まず、適応度と形態形質との関係をみるため、北海道札幌市観音沢集団より雌の終齢幼虫を採集し、高温室内で飼育後、一回以上産卵した53個体について解析をおこなった。9つの形態形質を測定後、主成分分析によりサイズスコアを取り出し、個体の適応度の指標となる卵塊あたりの卵数との関係を調べた。これより、雌の体サイズが増加するにしたがい産卵回数が増加する傾向がみられた。これらの結果は、体サイズの大きい雌ほど適応度が高くなる傾向があり、他種の昆虫にみられる現象と一致したが、サイズと適応度の間に強い相関関係は見いだせなかった。

 また、多くの生物では、形質間における相対成長の関係が雌雄間で異なっていることが多い。このような相対成長の雌雄差を生み出している要因の一つに性選択の関与が指摘されてきた。そこで雌雄の交尾器2形質、非交尾器6形質の表現型分散共分散行列を比較することにより、どの程度表現型の相対成長パターンに違いがあるのかを探ってみた。北海道札幌市近郊の7つの集団から採集された雌雄成虫個体の形態形質を測定後、分散共分散構造の同等性を比較した。すると、雄では交尾器、非交尾器にかかわらず、各集団の主成分軸が一定で、かつ各主成分の固有値が集団間で比例関係にあり、分散共分散構造が類似していた。雌の非交尾器では分散共分散構造が集団間で一定に保たれていたのに対し、交尾器では主成分軸の一定性は認められたものの、各主成分の固有値は集団間で大きく異なっており、雄に比べて雌交尾器の分散共分散構造は集団間で一定していなかった。交尾器の散布図を比較してみると、雄では各集団の95%信頼楕円の長軸、単軸方向が一定しており、楕円の大きさも均一で大きく重なり合っていたのに対し、雌では楕円の大きさや軸の方向は一定しておらず、楕円の大きさも雄と比較して大きくなっていた。雌雄で共通した交尾器官における変異パターンの差異は、雄交尾器には雌の雄交尾器に対する好みの違いによって生ずる隠蔽された性選択(cryptic female choice)がはたらき、雌交尾器は主に遺伝的浮動による効果が反映されている可能性と、雌交尾器にも地域間で異なる方向性選択がはたらくことで集団間の分散共分散構造が一定の傾向を持たないという可能性が考えられた。

 また、いくつかの昆虫では、転座、逆位などの染色体の構造変異が形態変異に大きく関与していることが指摘されている。サッポロフキバッタにおいても国後島個体群で染色体に転座が生じ、新しい性決定システムをもたらしている。染色体構造が大きく変化している集団は変化していない集団と比較した場合、染色体の組みかえにより形態発現システムにも大きな変化が生じている可能性がある。そこで染色体に変異がみられる国後島個体群と変異がみられない5つの北海道集団の形態形質を比較し、染色体変異と形態変異の関連性について調査をおこなった。その結果、非交尾器のみならず、交尾器形質においても染色体変異がみられた集団の形態形質に特異的変化はみられず、交尾器形質と非交尾器6形質に基づくフェノグラムのトポロジーはよく一致していた。これよりサッポロフキバッタにおいては染色体変異と形態変異の関連性は見いだせず、染色体の組みかえが形態変異に及ぼす影響よりも、塩基レベルの違いが形態変異に及ぼす影響の方が強い可能性が示唆された。

 つぎに性選択が形態形質に与える影響を調べるために、北海道手稲山集団をもちいて形態形質にかかる性選択の方向や強さが推定された。交尾している132ペアと交尾をおこなっていない雄106,雌124個体それぞれを採集し、それらの9つの形態形質を測定後、交尾の有無を適応度の指標ととらえることにより、選択勾配分析法をもちいて性選択がかかっている形質を検出した。すると雄では中脚に有意な方向性選択が検出され、交尾している雄のほうがしていない雄にくらべ中脚が長くなる傾向があった。サッポロフキバッタの雌は常に雄の交尾を受け入れるわけではなく、しばしば体を震動させることで雄を振り落とす行動をとる。交尾時に雄の中脚は雌の胸部にフックのようにかけられることから、中脚が長い個体ほど雌にしがみつく能力が増し、交尾成功が上昇すると考えられた。さらに雄交尾器では腹板幅と尾毛に負の方向性選択が観察された。腹板の内側には生殖器が収まっていることから、雌が小さな交尾器形態を好むことにより、腹板の小さい雄の交尾成功が上昇すると考えられた。尾毛は感覚器の役割を果たしていると考えられており、とりわけ交尾時に感覚器としての役割を果たしているものと思われた。交尾成功に大きく関与している肛上板については方向性選択は検出されず、非線形選択のみ検出された。一方で雌では肛上板、尾毛、腹板のすべてに有意な負の方向性選択が検出された。形態形質の比較から、雌の形態形質には性選択が関与していないと考えられてきたが、今回の調査から雌交尾器にも性選択が関与していることが明らかになった。したがって、雌雄の交尾器の形態差は雄に対する性選択と雌に働く遺伝的浮動というシステムではなく、雌雄に異なるタイプの性選択が働くことで生じた可能性が示唆された。

 また、サッポロフキバッタには線虫や双翅目昆虫の幼虫がしばしば寄生する。寄生を受けた個体の消化器や生殖器は寄生者によって食害され、正常な生殖をおこなうことができない。今回選択測定実験で調査された集団の寄生率は10%程度と低く、寄生による選択圧は雌の中脚を除き、いずれも有意な大きさではなかった。しかし集団によって寄生率が大きく異なっていることを考えると、寄生者が集団の形態に選択圧として大きく影響している可能性は無視できないと考えられた。

 また室内の一定した環境下で飼育された個体の形態形質に関する遺伝的背景が調べられた。まず、選択勾配分析を適用した手稲山集団から2〜3齢幼虫が採集され、室内で雌雄一個体ずつ隔離され交配させた。採集された卵は野外で越冬させた後、翌年孵化させ、成虫になるまで一定環境下で飼育された。親世代とF1個体の形態10形質を測定した後、親子回帰法により形態の遺伝率と遺伝相関が求められた。また、形態が大きく異なっている5つの北海道集団から2〜3齢幼虫を採集し、5x5の片側ダイアレルデザインによってかけあわせをおこない、翌年出現したF1世代の個体をもちいて10形質の遺伝率と優性度、また遺伝的分化の程度が調べられた。ダイアレル分析より、胸部長と交尾器に集団間で有意な遺伝的分化が確認され、形態形質で遺伝的分化が起こっているとする仮説が支持された。特に胸部形態は年次変動が少なく、年による違いを考慮してもなお集団間で明瞭な地理的変異が認められていることから、胸部形態は遺伝的な違いを反映しやすい形質であるといえる。また別の遺伝実験から示されているように、翅は多くの遺伝的変異をふくんでいたことから、顕著な集団間、集団内変異は環境分散によるものではなく、遺伝分散が強く関与していることが明らかになった。またほとんどの形質では相加遺伝分散にくらべ、優性分散が大きかったのに対し、交尾器形質の腹板幅では相加遺伝分散の割合が高く、遺伝率も高かった。また形質間の遺伝相関から明らかになったことは、交尾器形質によっては他の形質にかかる選択の影響をまぬがれることで独自の進化をたどってきた背景も明らかになった。

 以上、本研究はサッポロフキバッタ集団における形態分化の様相を明らかにし、それに対する性選択および遺伝的背景の重要性を指摘したものである。

審査要旨

 サッポロフキバッタ(Podisma sapporensis)は北海道、サハリン、クリル諸島に分布する短翅性のイナゴ科昆虫である。本種は翅が著しく退化しており、地域集団間での遺伝子流動はほとんどないものと考えられている。したがって、それぞれの地域集団で遺伝的分化がすすみ、形態に大きな違いが生じていると解釈されてきた。本研究は、サッポロフキバッタ地域集団における形態分化の様相を統計遺伝学的に解析したものである。

1.体サイズと繁殖価

 適応度と形態形質との関係をみるため、雌の終齢幼虫を採集し、雌の体サイズと卵数の解析をおこなった。これより、雌の体サイズが増加するにしたがい産卵回数が増加する傾向がみられた。これらの結果は、体サイズの大きい雌ほど適応度が高くなる傾向があり、他種の昆虫にみられる現象と一致したが、サイズと適応度の間に強い相関関係は見いだせなかった。

2.染色体と形態変異:集団間比較

 サッポロフキバッタにおいては国後島集団で染色体に転座が生じ、新しい性決定システムをもたらしている。そこで染色体に変異がみられる国後島集団と変異がみられない5つの北海道集団の形態形質を比較し、染色体変異と形態変異の関連性について調査をおこなった。その結果、非交尾器のみならず交尾器形質においても、染色体変異がみられた国後島集団の形態形質に特異的変化はみられず、交尾器形質と非交尾器6形質に基づくフェノグラムのトポロジーはよく一致していた。このように、サッポロフキバッタにおいては染色体変異と形態変異の関連性は見いだせず、染色体の組みかえが形態変異に及ぼす影響は少なかった。

3.交尾器の集団内変異:性的相違

 雌雄の交尾器2形質、非交尾器6形質の表現型分散共分散行列を比較することにより、どの程度表現型の相対成長パターンに違いがあるのかを調べた。すると、雄では交尾器、非交尾器にかかわらず、各集団の主成分軸が一定で、かつ各主成分の固有値が集団間で比例関係にあり、分散共分散構造が類似していた。雌の非交尾器では分散共分散構造が集団間で一定に保たれていたのに対し、交尾器では各主成分の固有値は集団間で大きく異なっており、雄に比べて雌交尾器の分散共分散構造は集団間で一定していなかった。雌雄で交尾器の変異パターンが異なっていた理由として、雄交尾器には雌の雄交尾器に対する好みの違いによって生ずる隠蔽された性選択(cryptic female choice)がはたらき、雌交尾器は主に遺伝的浮動による効果が反映されている可能性と、雌交尾器には地域間で異なる方向性選択がはたらくことで集団間の分散共分散構造が一定の傾向を持たないという可能性が考えられる。

4.形態形質にかかる性選択

 性選択が形態形質に与える影響を調べるために、形態形質にかかる性選択の方向や強さを推定した。9つの形態形質を測定後、交尾の有無を適応度の指標ととらえることにより、選択勾配分析法をもちいて性選択がかかっている形質を検出した。すると雄では中脚に有意な方向性選択が検出され、交尾している雄のほうがしていない雄にくらべ中脚が長くなる傾向があったことから、中脚が長い個体ほど雌にしがみつく能力が増し、交尾成功が上昇すると考えられた。さらに雄交尾器では腹板幅と尾毛に負の方向性選択が観察された。一方、雌では肛上板、尾毛、腹板のすべてに有意な負の方向性選択が検出された。形態形質の比較から、雌の形態形質には性選択が関与していないと考えられてきたが、今回の調査から雌交尾器にも性選択が関与していることが明らかになった。したがって、雌雄の交尾器の形態差は、雄に対する性選択と雌に働く遺伝的浮動というシステムではなく、雌雄で異なるタイプの性選択が働くことによって生じたと考えられる。

5.形態形質の遺伝様式

 室内の一定した環境下で飼育された個体の形態形質に関する遺伝的背景を調べた。ダイアレル分析より、胸部長と交尾器に集団間で有意な遺伝的分化が確認され、形態形質で遺伝的分化が起こっているとする仮説が支持された。また別の遺伝実験から示されているように、翅は大きな遺伝的変異をふくんでいたことから、顕著な集団間、集団内変異は環境分散によるものではなく、遺伝分散が強く関与していることが明らかになった。交尾器形質の腹板幅では相加遺伝分散の割合が高く、遺伝率も高かった。

 以上、本論文は、サッポロフキバッタ集団における形態分化の様相を明らかにし、それに対する性選択および遺伝的背景の重要性を指摘したものであり、学術上、応用上価値が高い。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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