学位論文要旨



No 114360
著者(漢字) 田中,章
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,アキラ
標題(和) 環境影響評価制度におけるミティゲーション手法の国際比較研究
標題(洋)
報告番号 114360
報告番号 甲14360
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1968号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武内,和彦
 東京大学 教授 渡辺,達三
 東京大学 教授 磯部,雅彦
 東京工業大学 教授 原科,幸彦
 東京大学 助教授 恒川,篤史
内容要旨 1.研究の背景と目的及び方法

 持続可能な開発の形成における環境影響評価の重要性が再認識されつつある中,開発による貴重な生態系の消失などの悪影響を補償するために人為的に生態系を復元又は創造するという代償ミティゲーションが着目されている。そこで本研究では,日本の環境影響評価制度における代償ミティゲーションの可能性について検討することとした。その方法として,アメリカ,香港及び日本におけるウェットランドの代償ミティゲーションの事例について国際比較分析を行なった。

 アメリカは環境影響評価制度に位置付けられた自然環境に対する代償ミティゲーションが最も盛んに実施されている国であることから,香港はアジアの中で環境影響評価に位置づけられた自然環境に対する代償ミティゲーションが行われている唯一の地域であることから選定した。

 ウェットランドを選んだのは,干潟や湿地は野生生物のハビタット,水源涵養,水質浄化などの環境保全機能を有しており,その重要性が認識されているにもかかわらず,日本においては,現在,最も開発圧力が高い場所となっているからである。特に,本研究で取り上げた河辺生態系は,近自然型工法などが開発され,近年,特に着目されている空間であるからである。

 研究方法は,政府職員やコンサルタントに対するインタビュー調査,既存資料の収集・整理による分析,また,各国事例については現地調査を行なった。アメリカの事例については実際にコンサルタントとして従事した経験から得た情報を元にした。

2.環境影響評価制度における生態系ミティゲーションの規定

 まず,代償ミティゲーションと環境影響評価制度との関係を明らかにするために,各国の同制度における生態系ミティゲーションの規定やガイドラインを分析した。

 アメリカの環境影響評価制度(国家環境政策法)は,西部開拓の自然破壊の歴史と産業公害の顕在化という背景から,自然環境保全と公害防止の両方に重点が置かれた制度となっている。環境影響評価に必要な合意形成手続きを詳細に規定しており,その手続きの結果として適切なミティゲーションが形成される仕組みであること,プロセスとしては環境影響評価,ミティゲーション提案,ミティゲーション事業の計画,モニタリング及び審査までを含むことがわかった。また,ミティゲーションは,回避,最小化,代償の順で検討することが規定されている。

 香港の制度(環境影響評価条例)は,住宅地開発などの面開発が多いという背景から,自然環境保全に重点が置かれた制度となっている。環境影響評価,ミティゲーション提案及びミティゲーション事業の計画についての各行為の内容について実体的に規定していることがわかった。また,生態系の環境影響評価については特別な規定があり,ミティゲーションは,アメリカと同様に回避,最小化,代償の順で検討することが規定されていることが判明した。

 日本の従来の制度(閣議決定要綱)は,高度成長期の激甚な産業公害防止に重点が置かれた制度であった。環境基準との比較に重点が置かれており,定量的な環境基準がない生態系についての配慮が不足していたこと,現況把握,影響予測・評価に重点がおかれ,ミティゲーションに関する規定はほとんどなかったことがわかった。1999年に施行される環境影響評価法では,ミティゲーションについて回避及び低減の,また,同法施行規則では代償の概念が始めて示された。

3.ウェットランド代償ミティゲーション事業のケーススタディー

 次に,代償ミティゲーションの実態を明らかにするために,開発によるウェットランド消失に対する代償ミティゲーションの各国事例を比較分析した。

 アメリカの事例は,カリフォルニアのサクラメント河沿いのウォーターフロント開発により消失する河辺生態系を代償するものである。本事例は,環境影響評価の合意形成手続きに従って,事業の代替案の検討,環境影響を回避及び最小化させるミティゲーションの検討を行なった上で,最終的に残る生態系の消失に対するミティゲーションとして提案されたことがわかった。モニタリングや審査の方法についても同様に形成されていた。また,代償ミティゲーションの手続きや方法を示した詳細なガイドライン,豊富な技術的マニュアル,環境復元・創造を専門とする分化した産業,大学における復元生態学などの研究,及び国土全体に残るウェットランドの現在量を維持するという「ノーネットロス」の国家政策が,代償ミティゲーションの適正な形成及び実施を支援していることが明らかになった。

 一方,代償ミティゲーションに対していくつかの問題が指摘されており,ミティゲーション・バンキング制度やHEPのような新しい手法の導入で改善しようとしていることもわかった。ミティゲーション・バンキング制度は,生態学的な問題と事業者に対する負担を同じに解決しようとする経済的手法であり,今後,さらに増加していくことが予想された。HEPは代償ミティゲーションの目標を明確化するための生態系評価手法で,ここでも環境影響評価と同様に合意形成手続きの重要性が示唆された。

 香港の事例は,度々氾濫を繰り返してきた中国との国境を流れる深川河の直線化事業に伴う河辺生態系の消失を代償するものである。この環境影響評価は香港及び中国にとって史上初の国境地域における環境影響評価であるため,専門家による二国間委員会を設置したこと,公募により欧米の熟練した環境コンサルタントをチームに参加させたこと,環境NGOの意見を取り入れたことなどの結果,香港及び中国初の代償ミティゲーションが形成されたことがわかった。本事例では,マングローブ林などの自然生態系だけではなく,エビ採取のために人為的に作り出した二次的生態系である「ゲイワイ」を野生生物のハビタット及び文化的資産として評価し,その消失に対しても代償ミティゲーションで補償していることが判明した。

 日本の事例は,岡山県を通過する中国横断自動車道の建設により消失する湿地に対する代償ミティゲーションである。本事例はアメリカや香港の事例とは異なり,環境影響評価のプロセスにおいて形成されたものではなく,事業者の自由意思による環境配慮の結果であることが明らかになった。従来の環境影響評価制度には代償ミティゲーションを含むミティゲーションが位置付けられていないが,近年のビオトープ再生などの環境創造・復元運動の盛り上がりや事業者自身の生態系の認識の高まりによって形成されたことが示唆された。

4.総合考察と今後の日本の代償ミティゲーションのあり方

 日本における代償ミティゲーションについての疑問点をまとめると,(1)自然生態系の人為的な復元や創造は可能であるか,(2)環境破壊型開発の形成を手助けすることにならないか,(3)土地の狭い日本における代償ミティゲーションの用地確保困難である,の3点に集約できる。これらについて,アメリカ及び香港の事例から,わが国における代償ミティゲーションの可能性について考察した。

 疑問点(1)に関連する問題点として,アメリカでは,a.個別の開発に伴う個別の代償では生態系が分断化されてしまう,b.開発による消失と代償による復元・創造には時間差がある,c.開発事業者が行なう生態系復元・創造は成功率が低い,d.代償ミティゲーションの成功基準設定が難しい,という4つの問題が指摘されている。一方で,e.事業者の経済的負担が大きすぎる,f.開発事業が遅延する,という事業者にとっての問題も指摘されている。これらの問題に対して,アメリカでは,自然生態系の減少や消失の深刻さ及びその解決手法としての代償ミティゲーションの有効性を認めた上で,ミティゲーション・バンキング制度やHEPなどの生態系評価手法という新しい試みの考案や実施により解決しようとして努力していることがわかった。

 次に,疑問点(2)については,アメリカ及び香港の事例でわかるように,環境影響評価からミティゲーションのモニタリング計画及びその審査に至るまでの規定があり,それらの内容に関しては,少なくとも環境監督官庁との合意形成が必要であり,事業者だけの判断によることは起り得ない仕組みであることが明らかになった。

 最後に,疑問点(3)については,山地ばかりで平地がなく狭い香港においては,ゲイワイのような二次的生態系についても,その野生生物のハビタットとしての重要性を認めて代償ミティゲーションの対象としていることがわかった。

 以上のような検討の結果,今後の日本においても,消失する生態系の野生生物のハビタットとしての機能などを補償する目的において,代償ミティゲーションの応用が可能であると考えられる。また,それは環境影響評価制度に明確に位置付けられることによってより有効性を増すことが示唆された。しかし,そのためには,環境影響評価制度において,代償行為を含むミティゲーションについての詳細な規定やガイドラインを整備すること,また,技術的にも難しい生態系の代償ミティゲーションを支援するための技術マニュアルの整備や復元生態学などの関連研究を促進すること,代償ミティゲーションを支援する関連産業を育成すること,香港のように二次的生態系についても野生生物のハビタットとしての機能の重要性を積極的に認め,代償ミティゲーションの対象とすること,ミティゲーション・バンキング制度のような市場経済的手法を取り入れ,事業者の負担を軽減すること,「ノーネットロス」のような生態系に対する基本的な国の方針を示すこと,が必要であると考えられる。

審査要旨

 本研究の目的は、開発による生態系の消失に対する解決策として注目されている代償ミティゲーションの可能性を検討することである。本研究では、まず米国、香港および日本の環境影響評価制度と代償ミティゲーションの実態を明らかにし、これらの比較分析を通して、(1)生態系の人為的復元は可能か?(2)環境破壊型開発を誘導しないか?(3)用地確保は困難ではないか?といった代償ミティゲーションの疑問を検証し、今後の代償ミティゲーションの可能性と課題について考察した。

 米国は代償ミティゲーションが最も盛んであることから、香港は開発圧力が高いアジアで唯一、代償ミティゲーションを制度化していることから,日本は環境影響評価法においてミディケーション概念が初めて示され注目されていることからそれぞれ選定した。いずれの事例もウエットランドを対象としたのは、干潟や湿地などは多様な環境保全機能を有しているにもかかわらず、依然として開発圧力が高い場所だからである。

 本研究では、まず、環境影響評価制度におけるミティゲーションの位置付けを行った。米国の国家環境政策法では、西部開拓以来の自然破壊への反省から、生態系に対する「回避→最小化→代償」というミティゲーションの種類と優先順位の基本概念が規定されているとともに、環境監督官庁との「協議手続き」が義務付けられていることによって、必然的にミティゲーション形成が行なわれている。また、香港の環境影響評価条例では、住宅地開発などの面開発が多いことから、米国同様のミティゲーション基本概念が規定されているとともに、罰則規定がある。一方、日本の環境影響評価の実施についての閣議決定要綱は、高度成長期の公害対策として導入されたことから公害項目、環境基準による評価に重点が置かれ、代償ミティゲーションは形成されなかった。環境影響評価法ではミティゲーションの概念が示され、先取り的な事例も出現している。

 つぎに、ウェットランド代償ミティゲーションのケーススタディーを行った。米国の事例は、開発により消失する河辺生態系を代償するもので、環境影響評価の協議手続きに従って、代替案、「回避」や「最小化」を検討した上で、広域計画との整合を図りつつ提案された。これは、国土のウェットランドの現存量維持という「ノーネットロス」政策や豊富なガイドライン・マニュアルによって支援されていた。香港の事例は、中国国境の氾濫する河川の直線化に伴う河辺生態系の消失を代償するもので、自然生態系だけではなく、二次的生態系である「ゲイワイ」も代償ミティゲーションの対象としている。本事例は後の香港の環境影響評価条例の生態系ミティゲーション制度の基礎となった。日本では、近年、環境影響評価制度に位置付けられていない自主的な代償ミティゲーション的活動が増加している一方で、環境影響評価法に「回避」、「低減」、「代償」という概念が示された。

 最後に、総合考察を行い、今後の代償ミティゲーションのあり方について検討した。冒頭に示した代償ミティゲーションの疑問点(1)については、香港のような二次的生態系の復元は可能であろう。米国では(1)に関連して、1)個別の開発ごとの代償では生態系が分断化される、2)開発による消失と代償による復元には時間差がある、3)開発事業者が行なう生態系復元は成功率が低い、4)代償ミティゲーションの成功基準設定が難しいという4点が指摘されており、これらに対し、代償ミティゲーションを事前にまとめて行う「ミティゲーション・バンキング制度」、生態系の時空間の価値を定性的かつ定量的に評価する「HEP手法」などが考案され実施されている。また、疑問点(2)については、米国および香港の環境影響評価制度にはミティゲーションの基本概念が規定されているとともに、ミティゲーションのモニタリング計画とその審査までを含んでおり、その判断には協議手続きが義務付けられているため、事業者のみの判断によることは起こり得ない。さらに、疑問点(3)については、水田や二次林などの二次的生態系も対象とすることや、開発および代償ミティゲーション・サイトを広域的土地利用計画と連携させることの有効性が示唆された。

 以上の結果、開発による生態系消失の補償としての代償ミティゲーションの可能性はきわめて高いと考えられる。そのためには、環境影響評価制度にミティゲーションを明確に位置付けること、詳細なガイドライン、定量的な生態系評価手法を含む技術マニュアル、生態系の定量的な環境基準・国家目標を整備する一方で、バンクのような事業者負担を軽減する仕組みの導入が必要である。

 以上要するに本研究は、ウエットランド代償ミティゲーションの国際比較を通じて、環境影響評価制度におけるミティゲーション手法の特質を明らかにし、今後のあり方について提言を行ったものとして評価できる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54702