大脳における主要な神経伝達物質であるグルタミン酸は、多種のグルタミン酸受容体を介して神経伝達や記憶・学習等の脳高次機能を果たしている。グルタミン酸受容体を介して誘導される細胞内応答は、神経細胞が分化・成熟し、神経細胞間でシナプスおよび神経ネットワークを形成する脳の発達期においても機能していることが報告されており、このときの応答の多くは細胞内カルシウムの上昇が起点となっている。しかしながら、胎生期の中枢神経系のどの細胞群がグルタミン酸受容体を発現し、グルタミン酸との結合により、どのような細胞内応答を示すかについてはほとんど明らかになっていない。本研究では、胎生期の大脳においてどのような細胞が、グルタミン酸受容体を機能的に発現し、カルシウム濃度上昇を引き起こすのかについて解析を行った。 第一章は緒言で研究の背景を述べた。第二章では胎生期の中枢神経系の発達を明瞭に解析するために、株化神経幹細胞を樹立した。株化神経幹細胞MSP-1細胞は、p53ガン抑制遺伝子を欠失したマウス胎仔大脳由来の神経幹細胞に、c-Myc-エストロゲン融合遺伝子を導入することで樹立された。神経幹細胞であるMSP-1細胞は、細胞増殖因子の除去により、神経細胞とグリア細胞の両細胞へ再現性よく分化することを明らかにした。 次にこのMSP-1細胞を用いてカルシウム透過性をもつNMDA(N-methyl-D-aspartate)受容体チャネルが、発達中の中枢神経系のどの細胞群(神経幹細胞、神経細胞、およびグリア細胞)において発現するかを検討した。NMDA依存的な細胞内カルシウムの濃度上昇は、カルシウム感受性蛍光色素fura-2を用いたカルシウムイメージング法により行った。分化前の神経幹細胞MSP-1ではNMDA応答は全く観察されなかった。分化後8日目になると、NMDA依存的な応答を示す細胞が観察された。NMDA受容体チャネルに特異的な阻害剤MK-801を10M共存させることで、これらのカルシウム濃度上昇は完全に抑制された。 さらに神経細胞特異的蛋白質MAP2に対する抗体を用いて免疫組織染色した結果、NMDAに応答して細胞内カルシウムの濃度上昇を示す細胞が、MAP2陽性の神経細胞であることが示された。また、グリア細胞でのNMDA応答は全く観察されなかった。したがって、MSP-1細胞から分化した神経細胞に特異的にカルシウム透過性を有する機能的なNMDA受容体チャネルが発現していることが明らかとなった。NMDA受容体チャネルは脳の発達期において重要な役割を担っているが、本研究により、この受容体が神経幹細胞から神経細胞への分化が完了した後に特異的に発現することが初めて明確になった。 次に第三章において大脳の層構造が大きく変化する胎生期14-18日目(E14-E18)の胎仔マウスから調製した脳切片を用いて、NMDA受容体チャネルの機能的発現を、カルシウム透過性を指標に解析した。いずれの胎生期においても、皮質層内の神経細胞だけでなく、神経幹細胞から分化した神経細胞が移動していくとされる中間層においても認められた。以上、中間層内に多く存在する未成熟な神経細胞でNMDA受容体チャネルが機能的に発現することを初めて明らかにした。 さらに薬理学的な解析により、未成熟な神経細胞で観察される応答が、NMDA受容体刺激による一次的な応答であること、胎仔大脳で機能的に発現しているNMDA受容体チャネルを構成する主要なサブユニットが2サブユニットであることを示した。 さらに第四章では、神経幹細胞においていかなるグルタミン酸受容体が発現し、それを通じでどのような細胞応答が誘起されるかについて検討を行った。その結果、代謝型グルタミン酸受容体に対する選択的アゴニストであるtACPDに応答性を示す神経幹細胞が存在することを、MSP-1細胞を用いて明確に示した。この代謝型グルタミン酸受容体を介したカルシウム応答は、E14胎仔大脳から調製した神経幹細胞の初代培養細胞系においても確認された。さらに、胎仔大脳切片においてもtACPDに依存的にカルシウム上昇を示す細胞が、神経幹細胞が存在する脳室層においても観察された。以上、この代謝型グルタミン酸受容体を介して、神経幹細胞の移動や分化が制御されているものと推定した。 以上本論文は、胎生期の発達中の大脳においてグルタミン酸受容体を発現している細胞を明らかにしたものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |