学位論文要旨



No 114378
著者(漢字) 山田,潔
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,キヨシ
標題(和) 胎生期の大脳におけるグルタミン酸受容体に関する研究
標題(洋)
報告番号 114378
報告番号 甲14378
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1986号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 教授 野口,忠
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 助教授 宮本,有正
 東京大学 助教授 八村,敏志
内容要旨

 中枢神経系である大脳は、非常に多数の神経細胞とその機能を補助するグリア細胞から構成されている。神経細胞間の情報伝達は、シナプスと呼ばれる特定の部位で行われるが、このときに関与する神経伝達物質とその受容体は多様であり、その組み合わせにより神経細胞間で伝達される情報は各種の影響を次の神経細胞に及ぼす。大脳における主要な神経伝達物質であるグルタミン酸は、成熟脳で最も含有量の高いアミノ酸であり、神経伝達や記憶・学習の基礎とされるシナプス可塑性を中心とする生理作用は、このグルタミン酸に対する多種の受容体を通して機能する。成体脳では興奮毒性からの保護やシナプス伝達の終結のために、神経伝達時以外の細胞外グルタミン酸濃度が主としてグリア細胞により低く維持されている。これに対し、脳が発達する胎生期においてはこのようなグリア細胞がほとんどいないため、細胞外環境にも高濃度のグルタミン酸が存在していることが考えられる。

 グルタミン酸受容体を介して誘導される細胞内応答は、神経細胞が分化・成熟し、神経細胞間でシナプスおよび神経ネットワークを形成する脳の発達期においても機能していることが報告されており、このときの応答の多くは細胞内カルシウムの上昇が起点となっている。成熟脳に関する研究に比べると、胎生期の中枢神経系の細胞が実際にグルタミン酸受容体を発現し、グルタミン酸との結合により、細胞内応答を示すという報告は非常に少ない。そこで本研究では、胎生期の大脳においてどのような細胞が、グルタミン酸受容体を機能的に発現し、カルシウム濃度上昇を引き起こすのかについて解析を行った。なおグルタミン酸受容体は、陽イオン透過性を有するイオノトロピックグルタミン酸受容体(NMDA型およびAMPA型)と、G蛋白質結合型の代謝型グルタミン酸受容体に大別される。

1.株化中枢神経幹細胞から分化した神経細胞におけるNMDA受容体チャネル発現

 中枢神経系に存在する細胞と分子の多様性、複雑性は、研究をすすめていく上での障壁となっている。この問題は成熟脳においてだけではなく、神経細胞の分化・移動、脳の形態変化が始まる胎生期後半のマウス胎仔脳においても同様に存在する。成熟個体の中枢神経系を構成している神経細胞とグリア細胞はすべて、胎生期に存在する中枢神経幹細胞から発生する。中枢神経系の発達における神経伝達物質受容体の発現を解析する上で、機能的な受容体を発現する神経細胞に分化できる株化神経幹細胞は、研究上非常に有用な実験材料になると考えられる。ガン抑制遺伝子p53ノックアウトマウスの胎生期大脳より樹立されたMSP-1細胞は、細胞増殖因子の除去により、未分化神経幹細胞としての性質をもつ細胞から、神経細胞とグリア細胞の両細胞への分化を随意に誘導できる。そこで本研究では、MSP-1細胞から分化した神経細胞が、カルシウム透過性をもつNMDA(N-methyl-D-aspartate)受容体チャネルを機能的に発現しているかどうか検討した。NMDA投与による細胞内カルシウムの濃度上昇は、カルシウム感受性蛍光色素fura-2を用いたカルシウムイメージング法により行った。分化誘導後6日目までは、MSP-1細胞からMAP2(神経細胞マーカー蛋白質)陽性細胞が出現するが、NMDA依存的な細胞内カルシウム上昇は認められなかった。分化後9-12日目になると、NMDA依存的な応答を示す細胞が観察された。またNMDA受容体チャネルに特異的なアンタゴニストであるMK-801を10M共存させることで、これらのカルシウム濃度上昇は完全に抑制された。さらに抗MAP2抗体を用いた免疫組織染色の結果、NMDAに応答して細胞内カルシウムの濃度上昇を示す細胞が、MAP2陽性の神経細胞であることが示された。また、グリア細胞でのNMDA応答は全く観察されていない。したがって、MSP-1細胞から分化した神経細胞に特異的にカルシウム透過性を有する機能的なNMDA受容体チャネルが発現していることが明らかとなった。以上の結果から、NMDA受容体チャネルは脳の発達期においても神経幹細胞から分化した神経細胞に特異的に発現し、その細胞応答を調節することが推定された。

2.胎生期大脳におけるNMDA受容体チャネルを介した細胞内カルシウム濃度の変化

 NMDA受容体チャネルは中枢神経系の発生・発達においても重要な役割を果たしていることが明らかになりつつある。しかし、胎生期および発達中の脳における発現について、十分に解明されつくされているとはいえない。MSP-1細胞を用いた解析により、神経幹細胞から分化した神経細胞でNMDA受容体チャネルを介したカルシウム濃度の変化が生じることが明らかとなった。分化誘導直後ではNMDA応答は認められなかったが、形態的に未成熟と思われるMAP2陽性細胞において、NMDA依存的なカルシウム上昇が観察された。このことから大脳の発生過程において、神経幹細胞から神経細胞へ分化後早期にNMDA受容体を介した細胞内応答が誘導されている可能性が考えられる。そこで、大脳の層構造が大きく変化する胎生期14-18日目(E14-E18)の胎仔マウスから調製した脳スライスを用いて、NMDA受容体チャネルの機能的発現を、カルシウム透過性を指標に解析した。いずれの胎生期においても、分化した神経細胞層でNMDAに依存的な応答が観察された。この応答は、神経細胞が移動していくとされる中間層、またE14においては未分化増殖細胞層においても認められた。ここで観察される応答が、NMDA受容体刺激による一次的な応答であることが、神経興奮伝導の阻害剤テトロドトキシンを用いた解析から示された。さらに、胎仔大脳で機能的に発現しているNMDA受容体チャネルを構成する主要なサブユニットが2サブユニットであることを、2サブユニットに選択的なアンタゴニストであるイフェンプロジルを用いた解析により確認した。このことから胎生期大脳で機能的に発現し、カルシウム透過性を示すNMDA受容体チャネルの多くが、2サブユニットを構成要素に含むことが示された。MSP-1細胞での結果を考慮すると、これらの結果から、分化後の神経細胞が神経細胞層へ移動していく過程で2サブユニットを含むNMDA受容体が機能的に発現されることが示唆された。

3.神経幹細胞における代謝型グルタミン酸受容体を介した細胞内カルシウム濃度の変化

 これまでに、神経幹細胞においてもAMPA(-amino-3-hydroxy-5-methyl-4-isoxazole propionic acid)型グルタミン酸受容体を介したカルシウム濃度上昇が報告されている。このことは、神経幹細胞の細胞応答が神経刺激に依存しうることを暗示する。そこでMSP-1細胞を用いて各種グルタミン酸アナログによるカルシウム濃度上昇を検討した。その結果、このMSP-1細胞においては、AMPA型受容体を介しては全くカルシウム応答が得られなかったが、代謝型グルタミン酸受容体に対する選択的アゴニストであるtACPD(trans-(±)-1-amino-(1S,3R)-cyclopentanedicarboxylic acid)に応答する細胞がかなりの頻度で存在することをが示された。さらにE14胎仔大脳から調製した神経幹細胞の初代培養細胞でも、tACPDに対する応答が認められた。この未分化増殖細胞での代謝型グルタミン酸受容体の発現については、現在までに報告がない。そこで、胎仔大脳スライスにおいてtACPDに依存的なカルシウム上昇がおこるか解析した結果、神経細胞層だけでなく未分化な細胞が増殖をしている細胞層にも、代謝型グルタミン酸受容体を発現している細胞が存在することが示された。

 以上のように、本研究では、胎生期の未分化細胞あるいは未成熟な神経細胞が、細胞内カルシウムの濃度上昇という細胞内への情報伝達を誘導するグルタミン酸受容体を発現していることを示した。これらの細胞にグルタミン酸を供給しているものは、すでに神経繊維を成熟させた神経細胞からの放出や、細胞外液中に遊離しているグルタミン酸が考えられる。今後、胎生期におけるグルタミン酸の供給と神経細胞にもたらされる細胞機能の変化を明らかにすることにより、中枢神経系の発生に独特な神経伝達物質受容体の役割が解明されることが期待される。

審査要旨

 大脳における主要な神経伝達物質であるグルタミン酸は、多種のグルタミン酸受容体を介して神経伝達や記憶・学習等の脳高次機能を果たしている。グルタミン酸受容体を介して誘導される細胞内応答は、神経細胞が分化・成熟し、神経細胞間でシナプスおよび神経ネットワークを形成する脳の発達期においても機能していることが報告されており、このときの応答の多くは細胞内カルシウムの上昇が起点となっている。しかしながら、胎生期の中枢神経系のどの細胞群がグルタミン酸受容体を発現し、グルタミン酸との結合により、どのような細胞内応答を示すかについてはほとんど明らかになっていない。本研究では、胎生期の大脳においてどのような細胞が、グルタミン酸受容体を機能的に発現し、カルシウム濃度上昇を引き起こすのかについて解析を行った。

 第一章は緒言で研究の背景を述べた。第二章では胎生期の中枢神経系の発達を明瞭に解析するために、株化神経幹細胞を樹立した。株化神経幹細胞MSP-1細胞は、p53ガン抑制遺伝子を欠失したマウス胎仔大脳由来の神経幹細胞に、c-Myc-エストロゲン融合遺伝子を導入することで樹立された。神経幹細胞であるMSP-1細胞は、細胞増殖因子の除去により、神経細胞とグリア細胞の両細胞へ再現性よく分化することを明らかにした。

 次にこのMSP-1細胞を用いてカルシウム透過性をもつNMDA(N-methyl-D-aspartate)受容体チャネルが、発達中の中枢神経系のどの細胞群(神経幹細胞、神経細胞、およびグリア細胞)において発現するかを検討した。NMDA依存的な細胞内カルシウムの濃度上昇は、カルシウム感受性蛍光色素fura-2を用いたカルシウムイメージング法により行った。分化前の神経幹細胞MSP-1ではNMDA応答は全く観察されなかった。分化後8日目になると、NMDA依存的な応答を示す細胞が観察された。NMDA受容体チャネルに特異的な阻害剤MK-801を10M共存させることで、これらのカルシウム濃度上昇は完全に抑制された。

 さらに神経細胞特異的蛋白質MAP2に対する抗体を用いて免疫組織染色した結果、NMDAに応答して細胞内カルシウムの濃度上昇を示す細胞が、MAP2陽性の神経細胞であることが示された。また、グリア細胞でのNMDA応答は全く観察されなかった。したがって、MSP-1細胞から分化した神経細胞に特異的にカルシウム透過性を有する機能的なNMDA受容体チャネルが発現していることが明らかとなった。NMDA受容体チャネルは脳の発達期において重要な役割を担っているが、本研究により、この受容体が神経幹細胞から神経細胞への分化が完了した後に特異的に発現することが初めて明確になった。

 次に第三章において大脳の層構造が大きく変化する胎生期14-18日目(E14-E18)の胎仔マウスから調製した脳切片を用いて、NMDA受容体チャネルの機能的発現を、カルシウム透過性を指標に解析した。いずれの胎生期においても、皮質層内の神経細胞だけでなく、神経幹細胞から分化した神経細胞が移動していくとされる中間層においても認められた。以上、中間層内に多く存在する未成熟な神経細胞でNMDA受容体チャネルが機能的に発現することを初めて明らかにした。

 さらに薬理学的な解析により、未成熟な神経細胞で観察される応答が、NMDA受容体刺激による一次的な応答であること、胎仔大脳で機能的に発現しているNMDA受容体チャネルを構成する主要なサブユニットが2サブユニットであることを示した。

 さらに第四章では、神経幹細胞においていかなるグルタミン酸受容体が発現し、それを通じでどのような細胞応答が誘起されるかについて検討を行った。その結果、代謝型グルタミン酸受容体に対する選択的アゴニストであるtACPDに応答性を示す神経幹細胞が存在することを、MSP-1細胞を用いて明確に示した。この代謝型グルタミン酸受容体を介したカルシウム応答は、E14胎仔大脳から調製した神経幹細胞の初代培養細胞系においても確認された。さらに、胎仔大脳切片においてもtACPDに依存的にカルシウム上昇を示す細胞が、神経幹細胞が存在する脳室層においても観察された。以上、この代謝型グルタミン酸受容体を介して、神経幹細胞の移動や分化が制御されているものと推定した。

 以上本論文は、胎生期の発達中の大脳においてグルタミン酸受容体を発現している細胞を明らかにしたものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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