内容要旨 | | 石灰質土壌における鉄欠乏症は世界の農業の栄養障害の中でも最も深刻な問題の一つである.このような石灰質土壌は世界の耕地の30%にも及んでいる.長年にわたる研究の結果,植物界(plant kingdom)は鉄獲得機構という面から二つに分けられた.すなわち,Strategy-IとStrategy-IIと呼ばれる機構である.Strategy-Iには双子葉植物およびイネ科以外の単子葉植物が含まれる.この機構では土壌中の不溶態の三価鉄は,二価鉄に還元されたのちに吸収される.一方,Strategy-IIを持つイネ科植物は,根から三価鉄キレーターであるムギネ酸類を根圏に放出する.ムギネ酸は土壌中の不溶態の三価鉄を可溶化し,「ムギネ酸・鉄」複合体の形で根から吸収される.これはイネ科植物が進化的に獲得した非常に巧妙な機構である.これまでに天然にはムギネ酸類として,2’-デオキシムギネ酸(DMA),ムギネ酸(MA),アベニン酸(AVA),3-ハイドロキシムギネ酸(HMA),3-エピハイドロキシムギネ酸(epiHMA),ディスティコン酸(DA)の6つが存在することが知られている.また,ムギネ酸類は植物体内ではメチオニンを出発材料として生合成されることがこれまでの当研究室の研究で明らかにされている. 植物による根からの鉄獲得という面においてはかなり詳しいことがわかってきたが,その後の植物細胞への鉄の取り込みや移行性についてはほとんど知られていなかった.たとえば,10分という短い時間での植物による鉄の取り込みや,どのように鉄がクロロプラストへ入るのかということなどである.また,ムギネ酸の生合成に関して,出発材料であるメチオニンはどこから供給されるのか,地上部からなのかあるいは地下部からなのか.これらの疑問を解明すべく,研究を行った. 1.オオムギ植物体を用いた短時間での根による鉄吸収実験(導管輸送) ムギネ酸が発見されるまでは,短時間での鉄の取り込み実験を視覚化することは不可能であった.エピハイドロキシムギネ酸(epiHMA)を59FeCl3と混ぜ,epiHMA-59FeCl3(III)としてオオムギでの経根吸収実験を行った.実験後,直ちにオートラジオグラフで鉄の移行について解析を行った.根から吸収された鉄は10分で葉へ移行し,さらに4時間で植物体全体へ移行した.この際,葉や根の比較的若い部位や分裂組織である主茎や分けつの最新葉,根の先端部にはかなり多くの鉄の移行が観察された.すなわち,これらの部位は鉄の要求性が非常に高い部位(シンク)となっていることがわかった.1本の根からepiHMA-59FeCl3(III)を与えると他の根や葉への移行が見られたが,特に,吸収を行わせた根と直接つながっていると思われる葉脈が強く標識された.興味深いことに,このとき葉梢の基部と根の付け根の部分が非常に強く標識されていた.ここは根や葉の原基,篩管,導管の非常に密なネットワークが存在する部位である.32Pや[11C]メチオニンを用いた実験からも根で吸収した養分や葉での代謝産物が植物体内を転流するときにその分配を制御し,移行先を決定するという重要な役割を担っていることが示された.したがってここを"discrimination center"と名付けた. 2.葉から根への鉄輸送(篩管輸送) 主茎の葉の先端をカットし,切り口から59Fe-epiHMAを供与した.59Feは篩管を通ってdiscrimination centerへ行き,そこから根や分けつなどの他の部位へ転流された.しかしながら,この移行の大部分はアポプラストを通ったもので,一部分のみが葉脈を経由したものではないかと考えられた.移行の速度は上で述べた導管を通じた移行よりも遅いものであった.すなわち,吸収部位から葉の中程までの移行に4時間,discrimination centerへの移行に8時間を要した.鉄はdiscrimination centerからまず,分けつへ分配され,その後主茎の最新葉へ分配された.鉄欠乏オオムギを用いた場合には,鉄を与えて育てたコントロール植物よりも多くの鉄が,鉄欠乏処理によって生じた多数の分岐根先端の分裂域に集積していた.この結果は32Pを用いて行った場合と同じパターンであった. 3.クロロプラストへの鉄輸送に対する光の効果[1],[2] オオムギにおいて葉の一部あるいはすべての葉をアルミ箔で遮光して,59Fe-epiHMAを根からを供与する実験を行った.葉の遮光処理はこの遮光部位への鉄の移行を減少させた(図1).光のない条件での鉄の取り込み実験をオオムギの葉から単離したクロロプラストを用いて行った.クロロプラストへの鉄の取り込みは,明条件では促進され,暗条件では減少した.さらに詳しく調べると,この光による鉄の吸収促進は,DCMU(3-[3,4-dichlorophenyl]-1,1-dimethylurea)で阻害されたことから,光エネルギー依存的であることがわかった.単離クロロプラストを用いて,明暗処理を交互に行うと,明条件下では光依存的な鉄の取り込みが起こり,暗条件下では鉄の流出が起こった.このクロロプラストへの光依存的な鉄の吸収に影響を及ぼす要因について調べた.クロロプラスト膜を通した鉄の取り込みの至適pHは8.0であった.また,この取り込みは1×10-5Mや1×10-4MのZn,Cu,Ni,Mn,Co,Cdでは影響を受けなかった.さらに,外から与えたATPも大きな影響を及ぼさなかった. 図12つの矢印で挟まれた葉の一部分をアルミ箔で遮光し,根から吸収させた59Feの移行をみた.上が12時間後,下が24時間後の結果.4.イネの二価鉄トランスポーター遺伝子の単離 クロロプラストへの光依存的な鉄の取り込み機構については未だ明らかでないことも多い.しかし,二価鉄のキレーターであるBPDS(bathophenanthroline-disulfonic acid)でクロロプラストへの鉄の吸収が抑えられたことから,クロロプラスト外の三価鉄はまず,二価鉄に還元されたのち,クロロプラスト膜上にある二価鉄のトランスポーターを通して吸収されるものと考えられた.オオムギのクロロプラスト膜上の二価鉄トランスポーターの存在を示すため,間接的ではあるが,イネのゲノムに存在する二価鉄トランスポーター遺伝子の単離を試みた.オオムギとイネは同じイネ科であることから,クロロプラストでの鉄吸収にはイネでも同様の機構が働いているものと考えられたためである.また,近年シロイヌナズナより二価鉄トランスポーター遺伝子が単離された.データベース検索により,イネでこれとホモロジーを持つものが登録されていることがわかったが,完全長ではなかった(260bp).そこで,イネの配列をPCRによって増幅し,これをもとにさらなるスクリーニングを行った.登録されているイネの配列を増幅するようなプライマー対を合成し,イネの葉から抽出したpoly(A)+RNAより逆転写したcDNAを鋳型にPCRを行った.シーケンスの結果,イネの葉では非常に相同性の高い2種の二価鉄トランスポーターと思われる遺伝子が発現していることがわかった.このうちの一つを用いて市販のイネのゲノミックライブラリーをスクリーニングしたところ,多数のポジティブクローンを得,イネゲノム中に多コピーで存在していることが示唆された.このうちの一つについてさらなるサブクローニングを行い,全長を含む4.4kbpについて塩基配列の決定を行った. 5.ムギネ酸合成前駆体メチオニンはどこからくるのか?[3]-オオムギでの[11C]メチオニン輸送のリアルタイム動態解析- [11C]メチオニンを鉄欠乏オオムギおよびコントロールオオムギの根または葉から供与し,11Cの移行をリアルタイムでPETIS(Positron Emitting Tracer Imaging System)法で観察した.1枚の葉の先端を切断し,ここから[11C]メチオニンを吸収させた場合,鉄欠乏オオムギでは,20分でdiscrimination centerへ移行し,60分では葉へも移行した.特に,最新葉へ最も多く移行が見られた.この際,鉄欠乏クロロシスの激しい葉ほど多くの[11C]メチオニンが移行していた.根への移行はほとんど観察されなかった.これに対して,コントロール植物では,discrimination centerへの移行は10分と迅速であったが,そこからは最新葉にのみわずかに移行が見られただけであった.この場合にも根への移行は観察されなかった. 一方,根からの吸収実験では,コントロール植物では[11C]メチオニンは最新葉に最も多かったが,ほぼ植物体全体へ移行した.これに対し,鉄欠乏オオムギでは,与えた[11C]メチオニンは,ほとんどが根にとどまり,わずかずつがdiscrimination center,そして地上部へと移行していた.実験前数日間,水耕液にコールドのメチオニンを与えて培養した鉄欠乏オオムギで同様な根からの吸収実験を行った.根にとどまった[11C]メチオニンの量は減少し,地上部への移行が観察された.以上の実験結果は,鉄欠乏オオムギの根で行われているムギネ酸合成に必要なメチオニンは地上部からではなく,地下部で供給されていることを示している. [1]Bughio N,Takahashi M,Yoshimura E,Nishizawa NK,Mori S 1997 Light-dependent iron transport into isolated barley chloroplasts.Plant & Cell Physiology 38:101-105.[2]Bughio N,Takahashi M,Yoshimura E,Nishizawa NK,Mori S 1997 Characteristics of light-regulated iron transport system in barley chloroplasts.Soil Science and Plant Nutrition 43:959-963.[3]Nakanishi H,Bughio N,Matsuhashi S,Ishioka NS,Uchida H,Tsuji A,Osa A,Sekine T,Kume T,Mori S Visualising real time[11C]methionine translocation in Fe-sufficient and Fe-deficient barley using a positron emitting tracer imaging system(PETIS).(投稿中). |
審査要旨 | | 高等植物における鉄欠乏時における体内代謝研究は,高等値物の鉄欠乏研究の過程において高域成一氏によって見いだされた,ムギネ酸類(MAs)の合成経路の解明,分泌のメカニズム,Fe(III)-ムギネ酸の再吸収のメカニズム(Strategy-II)について相当程度明らかになった.しかし,ムギネ酸の発見によって解明されるべき肝心の鉄そのものの迅速な経根吸収,移行,転流についての研究がまだ十分に行われていなかった.本研究は,オオムギの鉄の動態について生理学的分子生物学的研究を行ったものである. 1.将来の鉄の葉面散布剤として,低廉で効果的なムギネ酸類を生産するために,4種の新規化合物を合成し,59Fe(III)との錯体を作成し,鉄欠乏のオオムギでの経根吸収活性を測定した.その結果,今後の分子設計について,アゼチジン環のN位のボンドの配向性について有用な示唆を得ることが出来た. 2.59Fe(III)-エピハイドロキシムギネ酸は短時間(10分以内)で経根吸収され,59Feは主として分けつと主茎の新葉に移行した.切断葉からも10分以内に成長点細胞である根端と,分けつと主茎の新葉先端に移行した. 葉をアルミ箔で遮光すると,経根吸収の59Feは遮光部分の葉脈には移行するが葉肉細胞に移行しないという現象を見いだした. 3.この原因を追究するために,単離クロロプラストを用いて59Fe(III)-エピハイドロキシムギネ酸吸収に対する明暗処理の影響を調べた.59Feは「明」で吸収され,一旦吸収された59Feは「暗」で放出された.単離チラコイドへの59Fe吸収も明暗処理の影響を受けたが,クロロプラストへの総吸収量を説明するものではなかった. 4.クロロプラストへの鉄吸収が光によって迅速に制御されているので、遺伝子レベルでの制御ではなく,リン酸化のような制御が想定された.すなわち,クロロプラスト膜での,現在ではまったく不明の「鉄の吸収機構」の一部分が直接的に光制御を受けていると考えられた.吸収機構が不明であるが,クロロプラストがStrategy-Iの鉄吸収機構を有していると仮定した.現在唯一Arabidopsisから単離されているFe(II)-トランスポーターの遺伝子配列をプローブにして,オオムギからFe(II)-トランスポーターの遣伝子のクローニングを行ったがうまく行かなかった.そこで,イネのESTをプローブに用いてイネのゲノム遺伝子をクローニングした.その配列の中にArabidopsisの配列のホモロジーが現れたので,ノーザン解析を行ったところ,この遺伝子はイネの根特異的であり,地上部では発現していなかった. 5.また,このクローニングの過程で,長年の困難であったファージDNAの精製法を確立した.これにより高収率(従来の10倍)でファージDNAを精製出来るようになったので,飛躍的にライゲーションの効率が上がった. 6.ムギネ酸の前駆体であるメチオニンがどこから供給されるのかを,ポジトロン核種である11Cを加速器で生成させ,これから合成した11C-メチオニンを用いて,経根または経葉投与して調べた.実験は高崎原研で行った.経葉投与したメチオニンは対照区,鉄欠乏区ともに根に移行しなかった.一方,経根投与したメチオニンは鉄欠乏区では根にとどまり地上部には移行しなかった.これに対して対照区では,地上部に移行した.したがって,メチオニンは根で光合成転流産物である蔗糖やATPから「メチオニンサイクル」を通して供給されるものと考えられた. 本研究は,オオムギの鉄欠乏症の栄養生埋を明らかにしたものであり,学術上,応用上,寄与するところが大である.よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |