内容要旨 | | 海洋の中・深層域と呼ばれる,水深およそ200〜2,000mの水面からも水底からも離れた水層には,形態的,生態的,および生理的な特徴を特化させた多くの魚類が生息する.ハダカイワシ科魚類は世界の海で卓越し,2亜科7族32属に属するおよそ240種の存在が知られる代表的な中・深層性魚類である.本科魚類に見られる発光器の配置パタンや仔魚の形態学的多様性には驚くべきものがあるが,そのような多様性はどのような過程を経て進化してきたのだろうか? 生物の進化を研究するには信頼性の高い系統樹が不可欠であり,系統類縁関係を調べるには従来用いられてきた形態形質による解析より,分子データを用いた解析(分子系統解析)の方が望ましい.しかし,ハダカイワシ科魚類の系統類縁関係を分子データによって解析した研究はこれまでのところ全くない.そこで本研究は,ミトコンドリア・ゲノムの塩基配列データを用い,ハダカイワシ科魚類の系統類縁関係を分子系統学的に推定することを第一の目的とした.また,推定された系統樹に基づき,本科魚類の形態進化と種分化に関する新しい知見を得ることを第二の目的とした. I.ハダカイワシ目魚類のミトコンドリア・ゲノム 近年,脊椎動物も含めた多くの動物のミトコンドリア・ゲノムで全塩基配列の解読が進んだ結果,ゲノム上の遺伝子の配置が多くの系統で独自に変化していることが明らかとなり,遺伝子配置を形質として系統を推定する試みがなされている.そこで,ハダカイワシ科魚類2亜科のうちトンガリハダカ亜科よりDiaphus splendidus,ススキハダカ亜科よりMyctophum affine,ハダカイワシ科魚類の姉妹群と考えられているソトオリイワシ科のNeoscopelus microchirの計3種についてミトコンドリア・ゲノムの塩基配列を決定し,系統推定に有用な遺伝子の配置が共有されているか否かを調べた. 決定した領域から脊椎動物のミトコンドリアにコードされているすべての遺伝子,すなわち2つのリボゾームRNA遺伝子,22のtRNA遺伝子,および13のタンパク質をコードした遺伝子が同定され,ゲノム上の遺伝子配置の全容を把握することが可能となった.ゲノム上の遺伝子配置を調べた結果,ソトオリイワシ科魚類の配置は他の魚類で報告されている配置と同じであった.一方,2種のハダカイワシ科魚類では共通してWANCY領域(各々のアルファベットは遺伝子産物であるtRNAが運搬するアミノ酸の一文字略号)のtRNA遺伝子の配置がWANYCへと変化しており,この遺伝子配置がハダカイワシ科魚類の単系統性を支持する共有派生形質として扱える可能性が示唆された.2種のハダカイワシ科魚類のミトコンドリア・ゲノムでは他にも遺伝子の配置が変化しているが,これらは各種に固有な配置変動であった.これまで動物のミトコンドリア・ゲノムより報告されてきた遺伝子の配置変動は分岐年代の比較的古いグループ間で観察されたものであり,本研究で示されたような近縁種間で複数回配置変動の起こった例は他にない.ハダカイワシ科魚類のミトコンドリア・ゲノムでは他の脊椎動物と比較して頻繁に遺伝子再配置が起こってきたことが推察される. II.ハダカイワシ科魚類の分子系統 ミトコンドリア・ゲノムの遺伝子配置よりハダカイワシ科魚類の単系統性は強く支持されたが,亜科・族レベルでの単系統性については不明のままである.また,属間の系統類縁関係についても未だ推察の域を脱していない.そこで,ハダカイワシ科全32属のうちサンプルの入手できた29属の系統類縁関係を,ミトコンドリア16SリボゾームRNA遺伝子の塩基配列データを用いて推定した. その結果,2亜科のうちススキハダカ亜科魚類の単系統性が強く支持され,ススキハダカ亜科の中ではダルマハダカ族魚類の単系統性が示唆された.ススキハダカ亜科魚類の単系統性は,本亜科魚類のみが共有する挿入塩基配列からも支持された.一方,トンガリハダカ族とハダカイワシ族魚類の単系統性は各々示唆されたものの,これらが含まれるトンガリハダカ亜科魚類の単系統性については明らかに出来なかった. 以上の結果は,ススキハダカ亜科の系統では属レベルでの分化が始まる以前にある程度の時間を有したが,トンガリハダカ亜科の系統では属レベルでの分化が比較的速やかに進行したことを示唆する. III.ドングリハダカ属魚類(genus Hygophum)の分子系統と仔魚形態の進化 ハダカイワシ科魚類のうち,ススキハダカ亜科に分類されている種の仔魚は形態的に著しく特化しており,ほとんど全てが楕円型の眼を持つことで知られている.このススキハダカ亜科に属するドングリハダカ属にはこれまでに9種が記載されており,仔魚には形態的に顕著に分化した3タイプが認められている. ここでは,7種のドングリハダカ属魚類と3種の外群から得たミトコンドリア16SリボゾームRNA遺伝子の塩基配列を用いた系統解析により本属魚類の系統類縁関係を推定し,本属魚類の3タイプの仔魚がどのようなパタンによって進化してきたのかを検討した. 分子系統解析の結果得られた系統樹から,3タイプある仔魚のうち2つのタイプは,残りの1タイプを祖先型として多系統的に出現したことを示した.このことは同時に、ドングリハダカ属魚類仔魚の眼の形状が円形から楕円,あるいは楕円からより円形へと,両方向へ進化したことを示す.主に中・深層性魚類の仔魚に観察される楕円形の眼は,円形の眼より漸進的に進化したものと考えられてきたが,ドングリハダカ属魚類仔魚の眼の進化パタンは,こういった眼の形状が両方向へ進化しうることを示唆する. IV.ハダカイワシ属魚類(genus Diaphus)の分子系統と種分化 ハダカイワシ科のうちハダカイワシ属にはおよそ60種が含まれるが,これはハダカイワシ科のおよそ1/4が本属魚類によって占められていることを意味する.外洋の中・深層域という生殖隔離を導く明瞭な地理的障壁の存在を想定し難い環境で,他のハダカイワシ科魚類と共存しつつなぜハダカイワシ属魚類はこれほどまでに分化できたのだろうか? ここでは,27種のハダカイワシ属魚類と4種の外群から得たミトコンドリア16Sおよび12SリボゾームRNA遺伝子の塩基配列を用いた系統解析より,本属魚類の種分化過程を検討した. 分子系統解析の結果,(1)ハダカイワシ属魚類の単系統性;(2)ハダカイワシ属魚類の中ではDiaphus dumeriliが他の種に先駆けて早い時期に分化したこと;(3)D.dumeriliを除くハダカイワシ属魚類は大きく二つのグループによって構成されること;および(4)D.dumerili以外の本属魚類は比較的短期間の内に種分化したことが明らかになった. ここで得られた分子系統樹より,ハダカイワシ属魚類の系統では系統発生が進むにつれて頭部発光器が複雑化する傾向が認められた.頭部発光器の形態的特徴が発達・多様化していることはハダカイワシ属魚類の際だった特徴であり,本グループの種分化には頭部発光器の複雑化が大きな役割を果たしたことが示唆された. V.ゴコウハダカ属魚類(genus Ceratoscopelus)の分子系統地理 一般に,海洋の外洋域に生息する生物では個体の分散が大きく,海域間での遺伝的分化は顕著なものではないと考えられてきた.ところが近年,中・深層性魚類も含むこういった海洋生物においても海域間で遺伝的分化のあることが示されてきた. ここで対象としたゴコウハダカ属魚類は,世界の海の熱帯・亜熱帯域で卓越して分布する種を含む計3種からなるが,海域毎に本属魚類の分類形質として重要な発光鱗の配置パタンが異なる多くのタイプが出現するため,分類が混乱している. ここでは,北大西洋,北太平洋および南太平洋から得たゴコウハダカ属魚類のミトコンドリア16SリボゾームRNA遺伝子の塩基配列を用いて系統解析を行い,本属魚類が遺伝的にどのような実態をもって分布するのかを推定した. その結果,ゴコウハダカ属には遺伝的に見て大きく分化した三つのグループが存在することが明らかとなった.第一のグループは,中部熱帯太平洋から出現した,従来の分類に準拠すればC.townsendiあるいはC.warmingii(C.townsendi sp.complex)に同定されるが,遺伝的にはこれらと大きく異なるグループであり,第二のグループは従来C.maderensisと分類されてきた北大西洋に固有な種である. 第三のグループは,第一のグループを除く,これまでC.townsendi sp.complexとして分類されてきたもので,このグループについては,(1)太平洋・大西洋間では遺伝的分化が進み,(2)北大西洋の東部と西部では遺伝的差異がまったく認められないものの,(3)太平洋には比較的遺伝的分化の進んだ少なくとも3つのグループの存在することが分かった.しかし,各グループ間での遺伝的分化の程度は小さく,このグループで見られる多様な発光鱗の配置パタンは,種レベルでの生物学的実態を反映しているというよりは,同種内の多型であると考えた方が妥当であると判断された.また以上の結果は,本属魚類の発光鱗の配置パタンは,進化的に見て比較的短期間のうちに変化することを示唆する. 以上,ミトコンドリア・ゲノムの遺伝子配置および塩基配列の解析により,これまでの研究にない,ハダカイワシ科魚類の系統類縁関係と進化に関する新たな知見が数多く得られた.今後の課題として,以上の結果から明らかにされた系統発生や進化がどの程度の進化的時間を伴って進行したのかを明らかにすることがあげられる. |
審査要旨 | | ハダカイワシ科魚類は2亜科7族32属およそ240種の存在が知られる代表的な中・深層性魚類である。本科魚類に見られる発光器の配置や仔魚の形態は多様であり,その進化過程は興味深い。生物進化を研究するには信頼性の高い系統樹が不可欠であり,系統類縁関係を調べるには近年急速に行われるようになった分子系統解析による検討が必要である。本研究は5章から構成され,ミトコンドリア・ゲノムの塩基配列データを用い,ハダカイワシ科魚類の系統類縁関係を分子系統学的に推定し,本科魚類の形態進化と種分化に関する知見を得ることを目的とした。 第1章ではハダカイワシ科魚類2亜科のうちトンガリハダカ亜科,ススキハダカ亜科およびハダカイワシ科魚類の姉妹群と考えられているソトオリイワシ科の魚類各1種について,ミトコンドリア・ゲノムの塩基配列を決定した。脊椎動物のミトコンドリアにコードされているすべての遺伝子が,決定した領域から同定された。ソトオリイワシ科魚類の配置は他の魚類で報告されている配置と同じであったのに対して,2種のハダカイワシ科魚類では共通してWANCY領域のtRNA遺伝子の配置がWANYCへと変化しており,これがハダカイワシ科魚類の単系統性を支持する共有派生形質として扱える可能性が示唆された。 第2章ではハダカイワシ科全32属のうちサンプルの入手できた29属の系統類縁関係を,ミトコンドリア16S rRNA遺伝子の塩基配列データを用いて推定した。2亜科のうちススキハダカ亜科魚類の単系統性が強く支持され、ススキハダカ亜科の中ではダルマハダカ族魚類の単系統性が強く支持された。一方,トンガリハダカ族とハダカイワシ族魚類の単系統性については各々示唆されたものの,これらが含まれるトンガリハダカ亜科魚類の単系統性については明らかに出来なかった。以上の結果は,ススキハダカ亜科の系統では属レベルの分化が始まる以前にある程度の時間を有したが,トンガリハダカ亜科の系統では属レベルでの分化が比較的速やかに進行したことを示唆する。 第3章では7種のドングリハダカ属魚類と3種の外群から得たミトコンドリア16S rRNA遺伝子の塩基配列を用いた系統解析により,本属魚類の系統類縁関係を推定し,眼の形状に関する3タイプの仔魚がどのようなパタンによって進化してきたのかを検討した。分子系統解析の結果得られた系統樹から,3タイプある仔魚のうち2つのタイプは,残りの1タイプを祖先型として多系統的に出現したこと,したがって,仔魚の眼の形状が円形から楕円,あるいは楕円からより円形へと,両方向へ進化したことを示す。主に中・深層性魚類の仔魚に観察される楕円形の眼は,円形の眼から漸進的に進化したと考えられてきたが,ドングリハダカ属魚類の目の進化パタンは眼の形状が両方向へ進化しうることを示唆した。 第4章ではハダカイワシ科のうち最も種数が多いハダカイワシ属27種と4種の外群から得たミトコンドリア16Sおよび12S rRNA遺伝子の塩基配列を用いた系統解析により,本属魚類の種分化過程を検討した。その結果,(1)ハダカイワシ属魚類は単系統であること,(2)ハダカイワシ属魚類の中ではDiaphus dumeriliが他の種に先駆けて早い時期に分化したこと,(3)D.dumeriliを除くハダカイワシ属魚類は大きく二つのグループに分けられること,(4)D.dumerili以外の本属魚類は比較的短期間で種分化したことが明らかになった。ここで得られた分子系統樹からハダカイワシ属魚類では系統発生が進むにつれて頭部発光器が複雑化する傾向が認められ,それには頭部発光器の複雑化が大きな役割を果たしたことが示唆された。 第5章では,北大西洋,北太平洋および南太平洋から得たゴコウハダカ属魚類のミトコンドリア16S rRNA遺伝子の塩基配列を用い,本属魚類が遺伝的にどのような実態をもつのかを推定した。その結果,ゴコウハダカ属には遺伝的に見て3グルーブが存在することが明らかとなった。しかし,各グループ間での遺伝的分化の程度は小さく,このグループで見られる多様な発光鱗の配置パタンは種レベルの分化というよりは,同種内の多型であると考えられた。また,以上の結果は,本属魚類の発光鱗の配置パタンが,進化的に見て比較的短期間の内に変化することを示唆した。 以上のように,本研究はミトコンドリア・ゲノムの遺伝子配置および塩基配列の解析により,形態形質によるこれまでの系統分類を分子データによって再検討して,ハダカイワシ科魚類の系統類縁関係と進化に関する新たな知見を数多く付け加えた点で,魚類の系統進化研究への貢献が顕著である。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと判断した。 |