No | 114401 | |
著者(漢字) | 渡部,諭史 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ワタナベ,サトシ | |
標題(和) | ヨウジウオSyngnathus schlegeliの繁殖における雄の育児嚢の役割 | |
標題(洋) | The role of male brood pouch in the reproduction of the seaweed pipefish,Syngnathus schlegeli | |
報告番号 | 114401 | |
報告番号 | 甲14401 | |
学位授与日 | 1999.03.29 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(農学) | |
学位記番号 | 博農第2009号 | |
研究科 | 農学生命科学研究科 | |
専攻 | 水圏生物科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | ヨウジウオ科魚類は藻場やサンゴ礁域などに生息する沿岸性の魚類で、世界で215種、日本では49種が報告されている。本科魚類は雄が育児を行うという特異な繁殖生態を持ち、原始的な種では卵を腹部体表に付着させるが、より進化した種では尾部腹面に育児嚢を発達させる。育児嚢は物理的な卵保護のみならずガス交換、浸透圧調節、栄養補給など生理的な胚胎の維持を行うと考えられている。 本科魚類に関する研究は、生態、行動、生理、形態など多岐にわたる分野で行われているが、日本産種についての報告はほとんどなく、本科魚類の繁殖の生理生態を解明する上で鍵となる器官である育児嚢に関しては、世界的にも具体的な知見は乏しい。本研究ではヨウジウオ(Syngnathus schlegeli)を対象に野外採集と室内飼育を行い、天然個体群の繁殖生態と育児嚢の生理的機能を明らかにした。 岩手県大槌湾および船越湾のアマモ場にヨウジウオが出現し始める時期は5月であった。アマモ場への出現と同時にヨウジウオは繁殖を開始し、5月では76.9%の雄が育児嚢を発達させ、そのうちの33.3%が育児中であった。育児嚢を発達させる標準体長は133〜215mmと個体差が大きかった。7〜10月ではほぼ全ての雄が育児中であり、繁殖期間は6ヶ月以上の長期に及ぶことがわかった。育児嚢内での育児期間は飼育水温と負の相関を示し、17.2〜23.3℃では14〜28日間であった。水温データからヨウジウオの大槌湾での育児期間は30日以上に及ぶと推定された。アマモ場での性比は繁殖期全体では雄に偏っていた。これは、同属他種で報告があるように育児中の雄が安全な藻場に留まるためであると考えられた。育児中の雄の育児嚢は卵で満たされており、育児嚢内に卵で満たされていない部分が見られた雄は全体の6.2%にとどまった。育児嚢内には発生段階の異なる2つ以上の卵群が認められる場合があり、ヨウジウオの婚姻形態が複婚であることが示唆された。 配偶行動を水槽内で観察したところ、ヨウジウオの求愛行動にはParallel swimmingとTwitchingの2つのパターンが確認された。配偶者獲得競争であると考えれられるParallel swimmingを雌のみが行ったことから、雌が雄よりも活発に求愛行動を行う「性役割の逆転」が確認された。求愛行動の後、雌は生殖孔を雄の生殖孔が位置する育児嚢前端に押しつけ、育児嚢内に直接産卵した。この産卵様式は交尾に相当すると思われた。雄は卵を受け取ると体をくねらせ育児嚢内の卵を整列させた。受精はこの時点、或いは産卵時に起こると思われた。 育児嚢は尾部腹例の左右から伸びた皮褶によって形成される。卵を受け取ると育児嚢内腔に胎盤様組織(placenta-like tissue)が発達して左右の皮褶を接着し、育児嚢は粘液質の液で満たされた。胎盤様組織上皮はPASおよびアルシアン青染色に反応せず、粘液分泌能が確認されなかったことから、育児嚢内の粘液質の液は母体由来の卵巣腔液であると推測された。 精子は細長い核(約3m)を持ち、深く陥入する基部には二つの中心子が位置する。遠位中心子からは長い鞭毛(約80m)が伸長し、核の基部には鞭毛を螺旋状に取り巻くミトコンドリアが位置する。これらの形態的な特徴は、introspermと呼ばれる体内受精型精子と一致し、粘性の高い卵巣腔液由来の育児嚢内液中を遊泳する、体内受精に類似した受精様式に適応していると考えられた。精巣内の精子は極端に低密度であったが、精子拡散の少ない育児嚢内では低い精子密度でも十分な受精率を得られると考えられた。 産仔数は雄の体長と正の相関を示し、690〜1482であった。育児嚢の容積は体長の増加に伴い指数関数的に増加するために、体長の増加に伴って育児嚢の単位容積あたりの胚胎数(胚密度)は減少した。産出仔魚の乾重量は胚密度と負の相関を示したことから、大きな雄ほど低密度で育児を行いより重い仔魚を産み出すことがわかった。この現象は従来、低密度での育児が胚胎1個体当たりの父親からの栄養補給量を増加させるためと解釈されている。しかし、雌の体長の増加に伴って卵の乾重量が増加すること、体長の近い雌雄が配偶ペアを形成したことから、大型の雄は大型の雌から大きい卵を受け取るために産出仔魚重量が増加する可能性が考えられた。産出仔魚の乾重量(0.12±0.01mg,±SD)は、卵の乾重量(0.17±0.03mg)の71%にまで減少しており、胚胎への栄養補給が存在するとしても微量であると考えられた。 産出仔魚の全長は親サイズに関わらず12.9±0.5mm(±SD)であり、95.2±5.6%(mean±SD)が卵黄吸収を終えて間もない後期仔魚であった。後期仔魚は鰭条が発達した背鰭と尾鰭を有し、眼、鼻、遊離感丘などの感覚器は機能していると考えられた。育児嚢内の死卵と未受精卵の合計は全体の1.36±0.03%(mean±SD)であり、ヨウジウオは育児嚢での保護によって胚胎の死亡率を低下させ、運動能力や感覚器を発達させた仔魚を産出することで繁殖を成功させると考えられた。 育児嚢内の胚胎は毛細血管に富む胎盤様組織に包まれている。胎盤様組織は繊維質の組織と単層の上皮からなり、上皮には被蓋細胞(pavement cell)とMRC(mitochondria rich cell)の2種の細胞が見られた。雄の腹腔にHRP(horseradish peroxidase、MW44000)をトレーサーとして投与した結果、胎盤様組織上皮までHRP分子が移動することが確認された。HRPは特にMRCの開口部付近で密に観察されたが、胚胎内への移動は確認されなかった。 ビオチン化したティラピア血清(様々な分子量の蛋白質を含む)と蛍光標識されたビオチン(MW831)をトレーサーとして用い、電気泳動法と分光測光法を用いて親腹腔から胚胎への物質の移動を調べた。いずれも胚胎への移動は確認されず、父親から胚胎への分子量831〜104000までの高分子物質の移動はないと判断された。 成熟卵は楕円形(1.2×1.0mm)で、卵門(直径9.5m)付近は緩やかに隆起する。卵膜は10層程度からなり、厚みは約1.5-3.0mで比較的薄い。卵膜表面には規則正しく管孔が並ぶが卵膜を貫通しない。卵膜の構造が栄養補給など父親との生理的な物質交換に適応しているとは考え難かった。 絶食させた親からの産出仔魚は、摂餌させた親の産出仔魚よりも核酸比(RNA/DNA)が有意に低く(Nested ANOVA,p<0.05)、親の栄養状態が胚胎の栄養状態に反映されると考えられ、栄養補給の存在が示唆された。しかし絶食群の核酸比は他魚種で報告されている栄養状態の悪化した仔魚の値ほど低くなかったことから、栄養補給があっても、少量であると考えられた。育児嚢に栄養補給能があることは定説となっているがこれまで確定的な証拠は報告されておらず、本種に関しては胚胎の発生や成長を左右する程の栄養補給が存在するとは考え難い。 被蓋細胞とMRCにより構成される毛細血管に富む育児嚢胎盤様組織上皮は、魚類の呼吸上皮と同様の構造であった。育児嚢内の胚胎は外部環境から完全に遮断されており、胚胎は胎盤様組織との間でガス交換を行っていると考えられた。育児嚢内液のNa+濃度は178.8±14.1mM(±SE)、体液と海水ではそれぞれ180.8±4.7mM、422mMであり、育児嚢内の浸透圧は親の体液と同じ値に保たれていた。 鰓においてイオンの能動輸送に関わるNa+,K+-ATPaseに対する抗体を用いて育児嚢胎盤様組織に免疫染色を行ったところ、上皮全体に分布するMRCに強い反応が認められた。毛細血管に隣接する育児嚢MRCはフラスコ状を呈し、細長く伸長する部位の上端が育児嚢内腔に開口すること、細胞全体に管状構造が発達すること、ミトコンドリアを多数持つことが電子顕微鏡下で確認された。成魚の鰓や仔魚の体表に見られるMRCが深く窪んだ開口部を持ち、複数のMRCの複合体を形成する典型的な海水型であるのに対し、育児嚢MRCでは開口部径が1/10程度のサイズであること、複合体を形成しないことから、イオンを吸収すると考えられている淡水型MRCと形態的に類似していた。雄親はMRCによってイオンを吸収して育児嚢内の浸透圧を体液に近い値に保つことで胚胎を保護することが明らかとなった。 以上のように、ヨウジウオでは雄親魚が外部環境から独立した育児嚢内で、ガス交換および浸透圧調節について胚胎を生理的に保護することが確認された。育児嚢から産出される仔魚は、摂餌及び捕食者から逃避する能力を備えた発生段階に達しており、育児嚢は、生活史のなかで最も死亡率が高い卵仔魚における減耗を著しく小さくすることによって、再生産を成功させる上で重要な機能を持つと結論される。 | |
審査要旨 | ヨウジウオ(Syngnathus schlegeli)は尾部腹面に発達する育児嚢で雄が育児を行うという特異な繁殖生態を持つ。育児嚢は物理的な卵保護のみならず生理的な胚胎の維持を行うと考えられる。ヨウジウオ科魚類に関する研究は、生態、行動、生理、形態など多岐にわたるが、繁殖の生理生態を解明する上で鍵となる育児嚢に関しては具体的な知見が乏しい。本研究はヨウジウオの天然個体群の繁殖生態と育児嚢の生理的機能を明らかにしたもので、7章で構成されている。 第1章の緒言では、ヨウジウオ科魚類の繁殖の生理生態に関する研究のレビューを行った。これに続いて第2章では,岩手県大槌湾および船越湾のアマモ場における野外調査の結果をまとめた。ヨウジウオは5月にアマモ場へ出現すると同時に繁殖を開始し、繁殖期は6ヶ月以上の長期に及ぶことがわかった。育児嚢内での育児期間は飼育水温と負の相関を示し、17.2〜23.3℃では14〜28日間であった。水温データから大槌湾でのヨウジウオの育児期間は30日以上に及ぶと推定された。アマモ場での性比は繁殖期全体では雄に偏っていた。育児嚢内には発生段階の異なる2つ以上の卵群が認められる場合があり、ヨウジウオの婚姻形態が複婚であることが示唆された。 第3章では配偶行動、受精環境および配偶子について調べた。水槽内観察で雌のみが配偶者獲得競争を行ったことから、雌が求愛行動を行う「性役割の逆転」が確認された。雌は生殖孔を雄の生殖孔が位置する育児嚢前端に押しつけて育児嚢内に産卵した。卵を受け取ると、尾部腹側の左右から伸びた皮褶によって形成される育児嚢の内腔に胎盤様組織が発達した。精子は約3mの細長い核、約80mの長い鞭毛など、introspermと呼ばれる体内受精型精子の形態的特徴を持つ。精巣内の精子は極端に低密度であったが、精子拡散の少ない育児嚢内では低い精子密度でも十分な受精率を得られると考えられた。 第4章では、育児嚢内での育児と産出仔魚について調べた。産仔数は690〜1482個体で雄の体長と正の相関を示した。産出仔魚の乾重量は、卵の乾重量の71%に減少した。産出仔魚の全長は親サイズに関わらず12.9±0.5mmであり、95%が後期仔魚であった。育児嚢内の死卵と末受精卵の合計は全体の1.4%で、ヨウジウオは育児嚢での保護によって卵・前期仔魚期の死亡率を著しく低下させ、運動能力や感覚器を発達させた仔魚を産出することで繁殖を成功させると考えられた。 第5章では、育児嚢内の胚への栄養補給について調べた。胎盤様組織は繊維質の組織と単層の上皮からなり、上皮には被蓋細胞とミトコンドリアに富む細胞MRCの2種の細胞が見られた。雄の腹腔に投与したペルオキシダーゼ(HRP,分子量4.4kDa)は、胎盤様組織上皮まで移動することが確認されたが、胚胎への移動は確認されなかった。電気泳動法と分光測光法を用いて、様々な分子量の蛋白質を含むビオチン化したティラピア血清と蛍光標識されたビオチン(831Da)の親魚から胚胎への移動を調べた。いずれも胚胎への移動は確認されず、分子量831〜104000までの高分子物質が父親から胚胎へ移動することはないと判断された。絶食させた親からの産出仔魚は、摂餌させた親の産出仔魚よりも核酸比(RNA/DNA)すなわち栄養状態が低かったが、その程度は大きくなく、栄養補給があっても僅かであると考えられた。育児嚢に栄養補給能があることは定説となっているが、本種に関しては胚胎の発生や成長を左右する栄養補給が存在しないことが分った。 第6章では、育児嚢の浸透圧調節能を調べた。育児嚢内液のNa+濃度は178.8±14.1mM(±SE)、体液と海水ではそれぞれ180.8±4.7mM、422mMであり、育児嚢内の浸透圧は親の体液と同じ値に保たれていた。育児嚢上皮全体に分布するMRCには、Na+、K+-ATPase抗体に対する強い反応が認められた。毛細血管に隣接する育児嚢MRCはフラスコ状を呈し、細長く伸長する部位の上端が育児嚢内腔に開口すること、細胞全体に管状構造が発達することなど、イオンを吸収すると考えられている淡水型MRCと形態的に類似していた。雄親はMRCによってイオンを吸収して育児嚢内の浸透圧を体液に近い値に保つことで胚胎を保護することが明らかとなった。 以上のように、本論文は、ヨウジウオの産卵期、配偶行動、産仔数などの生態学的知見、受精や育児嚢の機能に関する生理学的知見によって、これまで詳細が知られていなかったヨウジウオの繁殖生態の理解を大きく進めた。その結果、ヨウジウオは雄による胎生ともいうべき特異的な繁殖様式を持つと結論したもので、沿岸性魚類の個体群生態学への貢献が顕著である。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと判断した。 | |
UTokyo Repositoryリンク | http://hdl.handle.net/2261/54073 |