海産小型多毛類であるイトゴカイ(Capitella sp.1)は、世界各地の有機汚染域に高密度に出現し、環境条件の回復期には爆発的な増殖を遂げる事が知られている。有機物に汚染された底質は、嫌気的有機物分解が卓越し、多細胞生物にとって呼吸毒である硫化水素をしばしば生成するが、Capitella sp.1はこのような環境に強い耐性を示し、生息することができる。このため、近年こうしたCapitella sp.1の生物学的特徴、すなわち高い有機物消化能力、還元環境での耐性および増殖力を利用して、有機物で汚染された底泥を浄化する試みが進められている(堤ら1993)。Capitella sp.1は埋在性のベントスとして堆積物中にU字状の巣穴を作り、その中で生息し、底質表面の有機物を摂食して底質表面に糞を排泄している。このような底質構造の改変は、主に酸化層の拡大として堆積物中の微生物活動にも大きな影響を与えると予想されるが、その詳細は不明である。そこで本研究はCapitella sp.1の活動に伴なう堆積物中の微生物群集の代謝活性およびバイオマスの変動を明らかにすることを目指し、主に、堆積物マイクロコスム内でCapitella sp.1の飼育実験を行ったものである。その概要は以下の通りである。 1、堆積物の物理化学特性及びバクテリア生菌数の変動 熊本県天草の干潟から採集した泥とCapitella sp.1をアクリル管に詰め、ろ過海水を加え、堆積物マイクロコスムとした。3日間培養した後、層毎に(0.5cm)分割し、堆積物中の好気性及び嫌気性バクテリアの生菌数、酸化還元電位、TOC、TN、AVSなどを測定した。好気性バクテリアの数はCapitella sp.1がいる泥で一桁多く、嫌気性バクテリアのコロニー数も2倍になった。Capitella sp.1が存在している堆積物の酸化還元電位は高く、有機物濃度(TOC,TN)は深さ約1〜2cmの範囲での減少が明瞭であった。堆積物中のAVSレベルも減少傾向が認められた。これらの結果はCapitella sp.1の摂食、移動などの活動により有機物含量が低下し、系の酸化状態が進むと同時に、堆積物中のバクテリアの増殖が促進されたことを示している。 2、テトラゾリウム化合物を用いた微生物活動の解析:(1)ホルマザン沈着部位の特定 Capitella sp.1がつくる微視的構造に付随する微生物活動を把握するため、底泥直上水にテトラゾリウム化合物の一種である2-(p-iodophenyl)-3-(p-nitrophenyl)-5-phenyl tetrazolium chloride(INT)を加え、3日間培養した。INT自身は無色だが呼吸系脱水素酵素が存在すると還元されて水には不溶の赤紫色ホルマザンとなる。バクテリアのうち、呼吸活性のあるものにはホルマザンが細胞外に沈着する。実験の結果、ホルマザンの主な沈着部位はCapitella sp.1が作った巣穴の近傍及び堆積物表層だった。これらの沈着は肉眼でもはっきりと認められた。Capitella sp.1がいない環境では、底質内部でのホルマザン沈着はほとんど認められなかった。核染色後、顕微鏡観察を行ったところ、大部分のホルマザン沈着はバクテリア細胞上に認められた。このことからホルマザンはバクテリアの脱水素酵素作用により生成したと考えられた。これらの観察結果は、堆積物中の好気性バクテリアが活性化されたことを強く示唆している。 3、テトラゾリウム化合物を用いた微生物活動の解析:(2)層別のホルマザン量と微生物バイオマス(ATP)の関係 ホルマザンは水やアルコール類にはほとんど溶けないが、DMSO(dimethyl-sulfoxide)には比較的よく溶ける。上述のマイクロコスム内の堆積物を層毎に(0.5cm)分割し、ホルマザンをDMSOで抽出、吸光光度計で定量を行った。その結果、Capitella sp.1が生息している環境にはホルマザン濃度が対照区より有意に高かった。また、ホルマザン生成に対するバクテリアの寄与を評価するために抗生物質(クロラムフェニコール)を加えたところ、ホルマザン濃度は抗生物質を加えていない場合の半分以下だった。以上の結果により、測定したホルマザン生成にはバクテリアの代謝活動が寄与していることが示された。堆積物中の微生物バイオマスの指標としてATP含量を測定したところ、Capitella sp.1が頻繁に活動している部位(0〜2cm)でATP量が対照区よりも有意に高い値を示した。また、ホルマザン濃度とATP含量の間には極めて良い正の相関が認められた。 4、軟寒天を用いたCapitella sp.1の活動の可視化:テトラゾリウム化合物を加えた系および硫黄化合物を加えた系での観察 堆積物マイクロコスムを用いた実験、観察では、堆積物の種類や組成を変えると実験結果が左右されることがあった。そこで、系の単純化と内部構造の可視化を図るため、寒天ゲルを用いてCapitella sp.1の巣穴形成とそれに伴う微生物活動の促進について解析した。海水に0.7%の寒天を加えて固化させた後、ろ過海水を加えCapitella sp.1を飼育した。Capitella sp.1は寒天中でも堆積物中と同様に巣穴を形成した。また、寒天上の海水にINTを加えた場合は、巣穴に沿ってホルマザンが沈着していた。一方、Capitella sp.1が生息していない系では寒天と海水の接触面にのみホルマザンが観察された。観察した後の寒天についても層毎に分割し、上述のようにホルマザンの定量を行い、Capitella sp.1が存在している場合のホルマザン濃度は対照区より有意に高いことを確かめた。これらの結果はCapitell sp.1が巣穴を形成すると、その内壁でバクテリアの呼吸活性が促進されることを示している。また、Capitella sp.1の巣穴形成に及ぼす硫化物の影響を調べたところ、硫化ナトリウム存在下では無添加の場合に比べて活発に巣穴を作った。この結果は、Capitella sp.1の生物活性が環境中の硫黄化合物に依存することを示している。 以上、本研究により、Capitella sp.1によって作られる巣穴など堆積物中の構造変化がその近傍の好気的な微生物群集の代謝ならびに増殖を促進することが示された。本研究で用いたテトラゾリウム化合物(INT)によるバクテリアの活性染色法は、堆積物中の微視的環境に付随する微生物活動を可視化し、定量化するのに簡便かつ有効であった。また軟寒天の使用によりCapitella sp.1の活動が初めて3次元的に把握され、硫黄化合物に依存性を示すことが明らかになった。これらの手法は、ベントスによる底質微生物過程への影響を解析する方法として新しく、汎用性が高いものである。 |