カルパインは、カルシウム依存的に基質を限定分解し、機能修飾あるいはダウンレギュレーションを担うバイオモジュレイターである。近年、無脊椎動物や菌類などにカルパイン類似分子の存在が遺伝子的に明らかにされたことから、カルパインの機能解析に新たな知見を与えうる実験系として注目されている。しかし、無脊椎動物や菌類のカルパインに関しては、生化学的知見が殆ど得られていない。そこで本論文では、哺乳類の組織普遍的カルパインと高い相同性を有するDm-カルパインに着目し、基質に関する情報を含む生化学的諸性質を検討してた。さらに、同定した基質の1つであるゲルゾリンに関して、Dm-カルパインによる切断反応と、生じた断片の機能を解析することにより、その分解の生理的意義を考察したもので、3章より成る。語句説明をした後、「序」は研究の流れ、本研究の意義と目的を述べた全体の導入部である。次に、材料と実験方法をまとめた。 第一章では、まずDm-カルパインの大腸菌での発現を行い、その酵素学的性質を解析している。発現条件を幾つか検討した結果、活性のあるショウジョウバエカルパインを大腸菌可溶性画分に得ることに成功し、このDm-カルパインの酵素学的諸性質を検討したところ、カルシウム依存性、至適温度、阻害剤の影響、自己消化のいずれの点においても哺乳類のm-カルパインと非常に類似していることを明らかにしている。 次に、Dm-カルパインのスプライス・バリアントであるDm-カルパインに関してその活性と性質を検討している。このDm-カルパインはショウジョウバエ各世代においてDm-カルパインの1/2〜1/3程度発現しており、Dm-カルパインを大腸菌において発現してその活性を調べたところ、第4ドメインを含まないにも関わらずカルシウム依存的なプロテアーゼ活性を持つことが示されている。これは触媒ドメインのC末端側に存在する1個のEFハンド構造によりカルシウム依存性が生じたものと考えられる。本章の結果は、カルパインに見られる4つのドメイン構造をすべて持たない分子の酵素学的性状を初めて明らかにしたものである。 第2章では、Dm-カルパインの内在性基質の同定を行っている。ショウジョウバエの卵巣におけるDm-カルパインの基質の検索を試みたところ、卵巣の塩抽出画分をDm-カルパインで消化すると幾つかのバンドがカルシウム依存的に消失した。この消失したバンドに相当するものをマイクロシークエンシングした結果、蛋白質合成関連因子であるEF-1、リボゾーム蛋白質のL6,L7,L8サブユニットであることが明らかとなった。そのうちの1つEF-1をGST融合体として発現させ、これをDm-カルパインによって消化したときの分解様式を検討してたところ、Dm-カルパインはEF-1を数カ所で限定分解することが示された。本章では、無脊椎動物のカルパインの基質を初めて同定し、その切断様式は哺乳類カルパインと同様、限定分解であることを明らかにしている。Dm-カルパインは基質に対する作用という点においても哺乳類の組織普遍的カルパインに非常に近い分子であると結論された。 第3章では、Dm-カルパインのアクチン構造変化に対する作用を検討するために、各種の細胞骨格関連タンパク質が基質となるか否かを検討している。その結果、ゲルゾリンをDm-カルパインはその分子のほぼ中央を一カ所切断し、3個ずつの繰り返しユニットを含む2つの断片を生じさせることを明らかにした。Dm-カルパインによるゲルゾリン切断断片のアクチンに対する機能を調べたところ、2つの断片は共にアクチン結合活性を有するが、カルシウム感受性などの性質が異なる機能ドメインに対応していた。次に、ゲルゾリンの切断点近傍のアミノ酸を置換することによってDm-カルパインによる切断が起こらない変異体ゲルゾリンを作製している。この変異体ゲルゾリンのアクチンに対する作用は、野生型ゲルゾリンのものとほぼ変わらないことから、ここで作成されたゲルゾリン変異体は、ゲルゾリンの本来の機能は保ちながらカルパインによる切断を受けない分子であるといえる。この変異系列を用いて今後、ゲルゾリンがDm-カルパインによって切断を受けること、あるいは切断されなくなることの真の生理的意義が明らかになると考えられる。 最後に、「総合討論」では、全体の結果をまとめ、その意義や今後の発展方向を文献を引用しながら総合的に討論し、末尾に参考文献と謝辞がついている。 以上、本論文はショウジョウバエのカルパインについて初めて物質レベルで様々な解析を行い、カルパインの生理機能やカルパインの構造機能相関について新しい知見を得たもので、学術上きわめて貴重である。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |