学位論文要旨



No 114420
著者(漢字) 清水,青史
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,セイシ
標題(和) 移相自由エネルギーの分子サイズ・形状依存性の統計熱力学理論
標題(洋) Molecular Size and Shape Dependence of Transfer Free Energies : A Statistical Thermodynamic Theory
報告番号 114420
報告番号 甲14420
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2028号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 助教授 宮脇,長人
 東京大学 助教授 正木,春彦
 岡崎国立共同研究機構生理学研究所 教授 永山,國昭
内容要旨

 タンパク質の折り畳みや、生体高分子の会合等の生化学過程において、溶媒を介した相互作用は重要な役割を果たしている。水中においては疎水性・親水性等の性質が重要な役割を果たしていることは広く認識されている。これら生化学過程の定量的解明、および薬剤等の分子設計のためには、生体高分子の与えられた配座における溶媒和の自由エネルギーを正しく記述し、予測することが不可欠となる。しかるに、これらの溶媒効果は、多数の溶媒分子の介在する非常に複雑な統計熱力学的効果であるため、その分子的機構は未だ十分に理解されていない。また、第一原理的な分子シミュレーションから溶媒効果を理解するには、膨大な計算コストが必要である。分子シミュレーションにおける計算量の低減、および溶媒和の物理的描像の理解のためには、溶媒和の簡明な理論が必要である。本研究においては、移相自由エネルギーの理論的記述における基本的なパラメータを、統計力学理論を通じて確定した。具体的には、剛体球を参照系とし、溶媒和核を表現しうる新たな摂動理論によって引力を取り込むことで溶媒和を表現し、溶媒和の分子サイズ・形状依存性を解明した。

1移相自由エネルギーの定義および排除体積効果の寄与[1]

 溶媒和自由エネルギーの定義、生体高分子への適用、さらにそのパラメータ化に関し、10年にも亙る論争が行なわれてきた。Ooiら(1987)は、溶媒和自由エネルギーは溶媒接触表面積(ASA)に比例するという経験則を用いて、生体高分子の溶媒和について次のような経験式を提案した:

 

 ここで、原子団iについてのパラメータiは低分子の溶媒和自由エネルギーの実験値から求められる。この表式は分子シミュレーションにおいて、溶媒効果を導入する最も簡便な方法として広く用いられてきたが、式(1)は純粋に経験式であり、理論的に厳密な導出がなされているわけではない。

 一方で高分子溶液を格子でモデル化したFlory-Huggins理論は、溶媒和自由エネルギー中に、溶質・溶媒間のサイズ差に由来する「混合エントロピー」に基づく、溶質体積依存項の存在を予言する。この理論によれば、溶質、溶媒分子のモル体積をそれぞれa,sとすると、混合の自由エネルギーはモル体積比で記述される。Sharpら(1991)は、理想気体を用いて全く同一の混合エントロピーを導出する熱力学過程を基に、「溶媒-溶質相互作用の自由エネルギーは混合の自由エネルギーを引き去った項である」と仮定し、

 

 なる溶媒和自由エネルギーの算出法を提唱した。例えば、疎水性効果の指標(炭化水素ガスの溶媒和自由エネルギーをASAで割ったもの)は式(1)によれば25cal/Å2であるが、式(2)によれば約50cal/Å2と、2倍になってしまう。この溶媒和の改変は、タンパク質の折り畳みや結合の熱力学的描像・予測を大きく変更するため、大きな混乱をもたらした。

 この混乱を解決するのみならず、生化学過程における溶媒効果の定量的指標を確立するための理論を構築することが、本研究の目標である。その際に解決すべき理論的な根本問題は、次のとおりである。溶媒和自由エネルギーの分子的パラメータは何か?溶媒和・疎水効果の適切な指標は何か?この問題に関して、多くの論文が発表されたが、用いられたモデルが、格子や低次のvirial近似等、粗い近似に留まっていたため、解決を得ることができなかった。

 そこで本研究において、排除体積の正確なモデルである剛体球鎖モデルと、申請者の開発した新たな摂動理論を基に、上の2つの問題を解決した。その第1段階として、本章においては、式(1)と(2)の溶媒和自由エネルギーの定義の食い違いを熱力学サイクルを用いて明らかにし、定義(1)が適正な溶媒-溶質相互作用の指標を与えることを明らかにした。さらに、上の熱力学サイクルによりFlory-Huggins理論を連続空間へ一般化し、溶媒和自由エネルギーにおける排除体積効果の寄与を定式化した。この理論は、炭化水素ガスのヘキサデカン中への溶媒和自由エネルギーを、Flory-Huggins理論に比べ非常に正確に表現することに成功した。

2球状溶質における移相自由エネルギーの分子サイズ・形状依存性[2-4]

 さらに、本研究では、球状溶質の溶媒和自由エネルギーが溶質分子の表面積と曲率によって表現され、分子の体積には依存しないことを証明した。このことによって式(2)の成立におけるもう一つの仮定「体積項の存在」が否定された。

 この証明は、剛体球モデルにおいて未解決のいわゆる剛体球圧力問題(化学ポテンシャルを剛体球成分(斥力)と引力成分から計算する際に、剛体球成分に登場する、剛体球圧力による溶質挿入のPV仕事の、引力項との打ち消し合いの取り扱いが、従来未解決の問題である)を我々が新たに構築した摂動理論を用いて解決することにより実現された。この摂動理論は、溶媒和自由エネルギーを溶質近傍における溶媒構造の変化と、バルク溶媒からの寄与に分解することを可能とする。化学ポテンシャルの引力成分は、溶媒-溶質相互作用と、溶質の挿入に際する溶媒-溶媒相互作用の変化の和として記述される。前者は明らかに溶質表面積に比例するが、後者の振舞いは自明ではない。後者は次のように表現される。

 

 ただし、は溶媒-溶質相関関数、Bは溶媒分子の結合エネルギーであり、*と0はそれぞれ溶質挿入前後の物理量を表す。上の式を溶質から無限遠方における結合エネルギーを用いて書き換えると、

 

 となり、上の第2項は、圧力の引力成分Psoftと、剛体球参照系における溶媒和の剰余体積Vの積で表せることが、相関関数の漸近解析から証明された。

 この解析を通じて、剛体球成分と引力成分の打ち消し合いからの残留部分を解析的に計算することが可能になり、溶解自由エネルギーは表面積および曲率に比例することが示された。従来発表された様々な理論は申請者の理論の低次の近似、あるいは引力項の取り扱いが不適切であることも示された。

 以上により、球状溶質の溶媒和自由エネルギーは

 

 とパラメータ化できる。ただし、Rは曲率半径であり、a,b,cは実験値の回帰分析から決定される係数となる。

3任意の溶質形状への一般化[6]

 上に導かれた溶媒和自由エネルギーの基本式(5)は、球状溶質にのみ当てはまるものであった。しかし、一般に分子は球状とは異なる複雑な形状をしており、移相自由エネルギーにおける溶質形状の影響を知ることは、生体高分子の溶媒和効果の計算にとって不可欠な意味を持つ。しかるに、従来の形状効果の研究は、格子高分子系に限られており、連続空間における形状効果を取り扱った研究は存在しない。

 本章においては、任意の凸体溶質の任意の凸体溶媒への溶媒和自由エネルギーの、形状効果を採り入れたパラメータを探求する。申請者は、式(4)が中心力相互作用をもつ系に限らず、一般的な分子間相互作用に対して拡張されることを証明した:

 

 ここでは分子の位置および回転座標である。この式は、非球状分子の溶質・溶媒に対しても、反発力と引力の「打ち消し合い」の議論を拡張した。従来提案されている剛体球の統計力学理論と併せると、溶媒和自由エネルギーは

 

 と表現される。この系においても、溶媒和自由エネルギーは分子の体積に依存しないことが示された。また、新しく導入された項(4R2-S)は、平均曲率半径から計算された表面積と、真の分子表面積との差である。この項は球状溶質に対しては0であるが、溶質が球状から離れるほど大きくなる項であり、体積項の代わりに導入される真の形状パラメータである。

4移相自由エネルギーとタンパク質のアルコール変性[5]

 更に本研究は、以上に述べた1成分系溶媒における移相自由エネルギーの議論を、2成分系に拡張するとともに、タンパク質のアルコール変性問題に適用し、そのメカニズムの解明を試みる。

 アルコール変性の分子的メカニズムを定量的に理解することは、タンパク質の安定性、および構造構築に及ぼす溶媒環境の影響を理解するための重要な意味を持つ。近年の実験的研究によれば、アルコール変性(ヘリックス誘導)の分子的メカニズムは、溶媒に露出したペプチド基が、アルコールの導入により不安定化され、コイル状態を不安定化することであることが示されてきている。しかし、これらの知見は、アルコールの導入量と変性自由エネルギーの関係を説明できるようなものではない。アルコール変性を溶媒構成依存の形で定量的に記述するための第一歩として、我々は、水相からアルコール水混合系相ペプチド基の移相自由エネルギーを記述する理論を構築した。この理論は、molarityに基づく移相自由エネルギーの定義に基づき構築され、移相自由エネルギーを(1)溶媒-溶質間の水素結合の無い場合の移相自由エネルギー、および(2)水素結合が生じた場合の自由エネルギー変化の和として記述する。(1)は水相とアルコール水混合系相の、空孔形成自由エネルギーの差として記述されることが証明された。(2)は、化学反応の熱力学の理論を用いて計算する。この理論は、水相からメタノール-水混合系、エタノール-水混合系へのペプチドの移相自由エネルギーの実験値を再現することに成功した。アルコールの低濃度領域では、移相自由エネルギーへの主要な寄与は排除体積効果であることが示された。さらに、側鎖の存在によるペプチド基のconditional solvationを考慮することにより、特に強いヘリックス誘導力を持つトリフルオロエタノールによる変性の濃度依存性が説明されることを示した。

5まとめ

 以上、本研究においては、生化学過程における移相自由エネルギーのサイズ・形状依存性を新しい摂動理論の構築を通じて明らかにした。従来、格子理論や低次のvirial理論に基づき提唱されていた体積依存項の存在は、より一般的な申請者の理論により否定された。溶媒和自由エネルギーは、球状溶質の場合、溶質の表面積と曲率半径に比例し、非球状溶質においては、それに加え、曲率半径から計算された表面積が、形状効果を表現する項となることが示された。また、体積項が存在しないことを証明したことにより、疎水性効果[7]の指標に関する混乱が解決された。さらに、水からアルコール水溶液への移相自由エネルギーを理論的に計算することに成功し、アルコール変性の基本的なメカニズムを明らかにした。以上の理論的成果を生化学過程に適用するのが今後の課題である。

参考文献[1]Seishi Shimizu,Mitsunori Ikeguchi,and Kentaro Shimizu Chem.Phys.Lett.,1997,268,93-100.[2]Seishi Shimizu,Mitsunori Ikeguchi,and Kentaro Shimizu Chem.Phys.Lett.,1998,282,79-90.[3]Seishi Shimizu,Mitsunori Ikeguchi,Shugo Nakamura,and Kentaro Shimizu Chem.Phys.Lett.,1998,284,235-246.[4]Seishi Shimizu,Mitsunori Ikeguchi,Shugo Nakamura,and Kentaro Shimizu J.Chem.Phys.,1999,in printing.[5]Seishi Shimizu and Kentaro Shimizu J.Am.Chem.Soc.,submitted.[6]Seishi Shimizu and Kentaro Shimizu J.Chem.Phys.,to be submitted.[7]Mitsunori Ikeguchi,Seishi Shimizu,Shugo Nakamura,and Kentaro Shimizu J.Phys.Chem.B,1998,102,5891-5898.
審査要旨

 タンパク質の折り畳みや、生体高分子の会合等の生化学過程において、溶媒を介した相互作用は重要な役割を果たしている。水中においては疎水性・親水性等の性質が重要な役割を果たしていることは広く認識されている。これら生化学過程の定量的解明のためには、生体高分子の与えられた配座における溶媒和の自由エネルギーを正しく記述し、予測することが不可欠となる。

 本研究は、移相自由エネルギーの理論的記述における基本的なパラメータを、統計力学理論を通じて確定している。これは、剛体球を参照系とし、溶媒和核を表現しうる新たな摂動理論の開発によって実現されている。この方法を基に、本研究は溶媒和の分子サイズ・形状依存性を解明している。

 第1章では、溶媒和の統計熱力学理論的な考察を中心に、溶媒和自由エネルギーの定義、生体高分子への適用、さらにそのパラメータ化に関する十年に亙る論争がまとめられている。特に、溶媒和自由エネルギーは溶媒接触表面積(ASA)に比例するという経験則(溶媒接触表面積法)と高分子理論から帰結される体積依存項の存在との矛盾がまとめられ、問題提起となっている。

 第2章では、高分子溶液理論の行なう溶媒和の定義とユニタリー過程との関係が熱力学サイクルを用いて明らかにされている。高分子溶液理論は、溶媒和自由エネルギー中に、溶質・溶媒間のサイズ差に由来する混合エントロピーに基づく、溶質体積依存項の存在を予言し、溶媒-溶質相互作用の自由エネルギーは混合の自由エネルギーを引き去った項と仮定した。この溶媒和の定義の補正に従うと、疎水性効果の指標は従来考えられていたより倍増してしまうことになる。申請者は、ユニタリー過程を混合エントロピー項と接触自由エネルギーに分解し、高分不溶液理論における溶媒和の定義とユニタリー過程との関係を定式化することで、溶媒和自由エネルギーにおける排除体積効果の寄与を定式化している。本理論は、炭化水素ガスのヘキサデカン中への溶媒和自由エネルギーを、Flory-Huggins理論に比べ非常に正確に表現することに成功している。

 第3章では、球状溶質の溶媒和自由エネルギーが溶質分子の表面積と曲率によって表現され、分子の体積には依存しないことを証明している。この証明は、剛体球モデルにおいて未解決のいわゆる剛体球圧力問題(化学ポテンシャルを剛体球成分(斥力)と引力成分から計算する際に、剛体球成分に現れる、剛体球圧力による溶質挿入のPV仕事の、引力項との打ち消し合いの取り扱いが、従来未解決の問題である)を解決することにより実現されている。

 第4章においては、任意の凸体溶質の任意の凸体溶媒への溶媒和自由エネルギーの、形状効果を採り入れたパラメータが探求されている。第3章における取り扱いが、中心力相互作用をもつ系に限らず、一般的な分子間相互作用に対して拡張されることが示されている。この場合に斥力項と引力項の打ち消し合いの形式が、球状溶質の場合と全く同一であることが証明され、平均曲率半径から計算された表面積と、真の分子表面積との差が、新たに形状依存パラメータとして出現することが導かれている。

 第5章においては、第4章までの、1成分系溶媒における移相自由エネルギーの議論を、2成分系に拡張するとともに、タンパク質のアルコール変性問題に適用し、そのメカニズムの解明を試みている。アルコール変性を溶媒構成依存の形で定量的に記述するための第一歩として、本研究では、水相からアルコール水混合系相へのペプチド基の移相自由エネルギーを記述する理論を構築し、移相自由エネルギーを、水相とアルコール水混合系相の空孔形成自由エネルギーの差、および、ペプチド主鎖と溶煤の水素結合の交換を用いて計算している。この理論は、水相からメタノール-水混合系、エタノール-水混合系へのペプチド主鎖の移相自由エネルギーの実験値を再現することに成功している。さらに、側鎖の存在によるペプチド主鎖溶解を考慮することにより、特に強いヘリックス誘導力を持つトリフルオロエタノールによる変性の濃度依存性が説明されることが示されている。

 第6章においては、移相自由エネルギーの実験による決定法が要約され、計測されるべき物質と溶媒、および、物理量の抽出法が提案されている。

 以上本論文は、溶媒和の分子サイズ・形状パラメータを確定し、その生化学過程への応用を論じたものとして、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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