脳神経系は外界の刺激を受けてその情報を処理し、目的に沿った出力に変換する役割を果たす。ヒトの脳にはおよそ1011個のニューロンが存在し、それらが1014ものシナプス結合を形成して神経回路網を構築している。神経回路網は個々のニューロンから伸長する軸索が正確にその標的を認識し、シナプスを形成することで完成される。このような軸索の伸長を制御する因子としては神経成長因子に代表されるニューロトロフィン類が知られている。申請者はNGF依存の突起伸長を顕著に亢進する活性物質として見出されていたカビ由来の蛋白質p15を精製し、その構造決定および作用機序の解析を行い、本論文にまとめている。論文は序章、第1章、第2章、第3章および総合考察から成る。 第1章ではp15の精製およびその一次構造解析の結果について述べている。まずPC12細胞からのNGF依存の突起伸長の亢進活性を指標として、生産菌Helicosporiumの菌体アセトン抽出物より活性物質の精製を行った。酢酸エチル、ジエチルエーテル処理により脂質成分を除去したのち、硫酸アンモニウム沈澱、DEAE-Toyopearlカラムにかけ、15kDaの蛋白質(p15)をSDS-PAGEにおいてほぼ単一バンドにまで精製した。本カラムにおいて活性とp15の挙動が一致すること、プロテアーゼ処理によりバンドの消失と共に活性も失われたことから、p15が活性の本体であると結論した。収量は菌体培養液1Lより約3mgであった。 次に精製したp15を酵素的、化学的に切断し、得られた断片をエドマン分析することによりp15の全アミノ酸配列を解析した。その結果、p15は118残基のアミノ酸で構成される分子量13,304の蛋白質であることが明らかとなった。また分子内には4個のシステインがあるが、隣接した2個のシステイン間で2組のジスルフィド結合を作っていた。p15を還元カルボキシメチル化することで活性が失われることより、これらのジスルフィド結合がp15の生物活性に必須であることが示された。 得られたアミノ酸配列をもとに生産菌のゲノムおよびcDNAをテンプレートにしてPCRを行い、p15をコードする遺伝子を取得した。塩基配列から予想されるアミノ酸配列は、エドマン分解により得られていたアミノ酸配列と完全に一致した。ゲノムとcDNAの比較から、1つのイントロンを含むことが示された。アミノ酸配列のデータベース検索を行ったところ、Streptomyces clavuligerusのRhsAと呼ばれる推定ORFのC末端付近と高い相同性を示すことが分かった。しかしRhsAの機能は明らかではなく、p15が新規な作用機序により生物活性を発揮するものと予想された。 第2章ではp15の作用メカニズムについて、PC12細胞を用いた解析結果を述べている。培養基質をコラーゲンに変更することにより、p15が単独でも突起伸長誘導能を有すること、その作用はNGFと共働的なものであることが明らかとなった。p15が誘導する突起伸長はK252aでは阻害されないことより、p15はNGF受容体チロシンキナーゼの活性化とは別経路で作用すると予想された。一方p15の作用はL型カルシウムチャネルの阻害剤ニカルジピンで抑制された。また培地からカルシウムを除去することによりp15の突起伸長誘導作用は失われた。以上より、p15はL型カルシウムチャネルを活性化し細胞内へのカルシウム流入を引き起こすことにより突起伸長を誘導するものと予想された。しかし、fura-2を用いた測定からはp15による細胞内カルシウム濃度の上昇は明瞭には観察されなかった。 第3章では第2章での結果を受け、p15が活性化するシグナル伝達系を解析し、それを既知のカルシウム情報伝達系と比較している。PC12細胞においてカルシウムの細胞内流入は非受容体型チロシンキナーゼSrcを経由する経路により突起伸長を誘導することが知られている。そこでp15処理に伴うSrcの活性の変化を調べたところ、処理後10分で活性化していることがわかった。またキナーゼ不活性なSrcを高発現するPC12細胞に対するp15の作用を調べたところ、突起伸長が誘導されず、p15の作用がSrcを介したものであることが明らかとなった。またSrcの下流に位置し、突起伸長に関与することが知られるRas、MEKをそれぞれ優性不活性型Rasあるいは阻害剤PD98059を用いて阻害すると、p15による突起伸長が部分的に抑制された。さらにMAPKの活性化を調べると、NGF処理と比較すると弱かったが、p15処理後5分で一過的に観察され、それは脱分極刺激によるものと同レベルであった。以上の結果より、p15が活性化するシグナル伝達系路はカルシウムの細胞内流入によって活性化するそれと同様であると考えられた。第2章、第3章の結果を併せ、申請者はp15が細胞内へのカルシウム流入を促進することにより種々の生理活性を発揮しているものと結論した。 以上本論文は、カビ由来の新規蛋白質p15の一次構造をアミノ酸配列、遺伝子の塩基配列の両面から明らかにし、それをプローブに用いてPC12細胞からの神経突起伸長誘導機構を解析したもので、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるのもと認めた。 |