今日までに知られている天然抗生物質のうち実に6割以上が放線菌により生産されることが知られており、放線菌は抗生物質をはじめとした多種多様な生理活性物質の生産菌として工業的に非常に重要である。一方、放線菌は複雑な形態分化能もった細菌であり、基礎生物学上、極めて興味深い研究対象である。ストレプトマイシン(Sm)の生産菌であるStreptomyces griseusにおいては、Smをはじめとした二次代謝産物の生産と形態分化が自身の生産する"微生物ホルモン"A-ファクターとA-ファクターレセプター蛋白(ArpA)によって調節されていることが明らかになっている。 本研究は、S.griseusの二次代謝と形態分化の調節において、このA-ファクター制御カスケードの周辺およびこれとは別の制御機構の解明を目指して行ったものである。 1.Adenylate cyclase遺伝子のクローニング及びその解析 S.griseus HO2はA-factor非依存的に気中菌糸・胞子形成とSm生産を行うArpA変異株である。多コピーベクターで導入することによりHO2株の形態分化と二次代謝を抑制する遺伝子として、真核生物型のcAMP合成酵素であるadenylate cyclase遺伝子(cyaA)を野生株の染色体DNAライブラリーより取得した。cyaA遺伝子を多コピーベクターで導入したHO2株においては、cAMPがベクターのみを導入したものに比べて5倍以上生産されること、また対数増殖期の中期(いわゆるdecision phase)まで増加し続け、その後、急激に減少することが明らかになった。また、cAMPをしみこませたペーパーディスクをおいたプレート上に生育させたHO2株の観察より、高濃度のcAMPは形態分化と二次代謝を抑制すること、さらに低濃度のcAMPは形態分化と二次代謝を促進することも観察された。cyaAにより生産される高濃度のcAMPは、Sm生産に必須である緊縮調節因子ppGppの生産を抑制することも明らかになった。さらに、cyaA遺伝子の導入はHO2株のphosphotyrosine蛋白の培養時期特異的なリン酸化様式にも影響を及ぼすことが明らかになった。cyaA遺伝子を破壊しても、胞子形成とSm生産には変化が認められなかったが、蛋白のチロシンリン酸化様式には影響が出ることが示された。 以上のようなcAMPの効果はHO2株以外の他のArpA変異株でも同様に観察されたが野生株ではほんの僅かしか観察されなかった。野生林ではA-ファクター制御機構がメインに働くためcAMPの効果が我々の目に見えてこないのに対し、ArpA変異株を用いることにより第2の制御カスケードとして存在していたcAMPによる制御機構が観察できたものと考えられる。 以上の結果は放線菌においてもcAMPを介した制御ネットワークが存在し、それが形態分化と二次代謝にpleiotropicに機能していることを示唆している。グラム陽性菌でのcAMPの機能はこれまでほとんど知られていなかったため本発見は非常に重要である。A-ファクターレセプター欠損株を用いることにより、今後cAMPの役割を分子レベルで解析することが可能となるものと考えられる。 2.二成分制御系による気中菌糸形成と二次代謝の制御 ホスホチロシンホスファターゼ阻害剤であるバナデート(Na3VO4)が複数の放線菌の二次代謝と形態分化を抑制することを明らかにした。次にS.griseusにおいてバナデート存在下で気中菌糸形成及びSm生産能を回復する変異株を取得することを試み、このような変異株を5株取得した。その中でVHK2株における変異遺伝子あるいはその周辺の遺伝子の取得を目指し、野生株を宿主として、VHK2株の染色体DNAを用いてショットガンクローニングを行った。その結果、野生株に多コピーで導入することによって、バナデート存在下での気中菌糸形成及びSm生産能を賦与するDNA断片を取得した。このDNA断片には、二成分制御系ヒスチジンキナーゼと非常に高い相同性を有するORF(VarKと命名)が見い出されたが、N末端側が欠失した不完全なものであった。しかしながら、このORFはベクターpIJ702のクローニングサイトに存在するチロシナーゼ遺伝子melC1の中にin-frameで挿入されていたため、MelC1のN末端側53アミノ酸との融合蛋白として発現していると考えられた。そこで全長遺伝子を取得したが、驚いたことにこれには活性がなかった。大腸菌の二成分制御系であるEnvZ/OmpR系での研究成果を参考にすると、N末端側が欠失したVarKは常に活性化され、その応答因子をいかなる状況においてもリン酸化し、活性化していると考えられた。それゆえバナデート存在下においても、N末端側が欠失したVarKは気中菌糸形成やストレプトマイシン生産を引き起こすようになったという可能性が考えられた。 以上、本論文は、放線菌の二次代謝と形態分化の制御に真核生物型のチロシン蛋白のリン酸化と原核生物型の二成分制御系の両方が深く関与することを証明したもので、工業微生物たる放線菌の抗生物質増産という応用的にも意義のある研究である。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |