学位論文要旨



No 114430
著者(漢字) 姜,大京
著者(英字)
著者(カナ) カン,ディーキョン
標題(和) Streptomyces griseusにおける信号伝達機構を介した二次代謝と形態分化の調節に関する研究
標題(洋) Studies on the regulation of secondary metabolism and morphogenesis via signal transduction in Streptomyces griseus
報告番号 114430
報告番号 甲14430
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2038号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 教授 高木,正道
 東京大学 教授 五十嵐,泰夫
 東京大学 助教授 正木,春彦
 東京大学 助教授 吉田,稔
内容要旨 1.はじめに

 今日までに知られている天然抗生物質のうち実に6割以上が放線菌により生産されることが知られており、放線菌は抗生物質をはじめとした多種多様な生理活性物質の生産菌として工業的に非常に重要である。一方、放線菌は複雑な形態分化能をもった細菌であり、基礎生物学上、極めて興味深い研究対象である。胞子から発芽した放線菌は固体培地上ではまず基底菌糸を形成し、ある時期を境にして空中に向かって気中菌糸を伸ばし、その先端に単核の連鎖状の胞子を着生する。このような形態分化は真核生物であるカビに類似しており、放線菌は最も進化した原核生物であると考えられる。ストレプトマイシン(Sm)の生産菌であるStreptomyces griseusにおいては、Smをはじめとした二次代謝産物の生産と形態分化が自身の生産する"微生物ホルモン"A-ファクターによって調節されていることが明らかになっている。A-ファクターレセプター蛋白(ArpA)は、リプレッサータイプのDNA結合蛋白であり、A-ファクター非存在下において、二次代謝・形態分化の開始に重要な遺伝子のプロモーターに結合し、その転写を抑制している。ArpAはA-ファクターと結合することによりDNA結合能を失うことが示されており、A-ファクターが二次代謝・形態分化のスイッチを入れる仕組みが明らかになっている。本研究は、S.griseusの二次代謝と形態分化の調節において、このA-ファクター制御カスケードの周辺およびこれとは別の制御機構の解明を目指して行ったものである。

2.Adenylate cyclase遺伝子およびcAMPの二次代謝、形態分化に及ぼす影響(1)S.griseus HO2株の分離と解析

 A-ファクター欠損株であるS.griseus HH1からUV処理により取得されたS.griseus HO2株は、A-ファクターが存在しないにもかかわらず、Sm生産と気中菌糸・胞子形成を行うことができる変異株である。A-ファクター結合アッセイ及び抗ArpA抗体を用いたウエスタン解析によって、HO2株におけるArpAの発現量が非常に少ないことを明らかにした。しかしながら、HO2株にarpA遺伝子をハイコピーで導入しても、野生株とは異なり気中菌糸・胞子形成およびSm生産は抑制されなかった。この結果よりHO2株はArpAだけでなく、A-ファクター制御カスケードの下流あるいは他の制御系に変異が起こっていると予想された。

(2)Adenylate cyclase遺伝子のクローニングとcAMPが放線菌の二次代謝・形態分化に及ぼす影響

 HO2株の変異遺伝子あるいはA-ファクター制御カスケードの下流や他の制御系の遺伝子の取得を目指し、HO2株を宿主としたショットガンクローニングを行った。その結果、多コピーベクターによりHO2株に導入することによりHO2株の気中菌糸形成及びSm生産を抑制する遺伝子として、野生株の染色体DNAより約3kbのDNA断片を取得した。サブクローニングの結果、そのC末端側が真核生物型のadenylate cyclase(cAMP合成酵素)と非常に高い相同性を有するORFがこの形質に関与していることを見い出した。cyaAと命名されたこの遺伝子をHO2株に多コピーベクターで導入すると、細胞外のcAMPの濃度は対数増殖期の中程まで増加し続け、ピーク時はベクターのみを導入したものの5倍以上になった。また、種々の濃度のcAMPをしみこませたペーパーディスクをおいたプレート上に生育させたHO2株の観察より、高濃度のcAMPは形態分化およびSm生産を抑制することが明らかになった。以上の結果よりHO2株では、導入されたcyaA遺伝子によって大量に生産されたcAMPが気中菌糸形成及びSm生産を抑制しているものと考えられた。一方、HO2株において低濃度のcAMPは逆に形態分化およびSm生産を促進することも観察された。興味深いことに、これらのcAMPが二次代謝・形態分化に及ぼす影響はHO2株以外のArpA変異株でも同様に観察されたが、野生株ではほんの僅かしか観察されなかった。このことは野生株においては我々の目に見えてこなかった現象がArpA変異株を用いることにより解析できることを示している。これまでグラム陽性菌においてcAMPが信号伝達物質として報告された事例は皆無であり、今回得られた結果は重要であると考えている。

(3)cAMPによる緊縮応答因子ppGpp生合成の抑制

 細菌の二次代謝や形態分化は栄養源の枯渇に応答して起こることがよく知られている。栄養源が枯渇した状況におかれた細菌においてはRNA合成の停止をはじめとした多面的制御機構(緊縮調節)が働く。ppGppはこの緊縮調節に関連する物質の1つであり、細胞内での蓄積がS.griseusのSm生合成を誘導すること、またppGppの増加に伴うGTP poolの減少が気中菌糸形成を誘導することが示されている。ATPから変換されるcAMPも細胞内のnuclotide poolに影響する可能性があると予想されたため、cyaA遺伝子を導入したHO2株の細胞内のppGpp量の経時的な変化を調べた。HO2株にベクターのみを導入すると気中菌糸形成に伴って細胞内ppGpp量が急激に増加するのに対して、cyaA導入株においてはppGpp量の増加は観察されなかった。この結果から高濃度のcAMPがHO2株の二次代謝・形態分化に及ぼす影響は、高濃度のcAMPがppGppの生産を抑制することによって緊縮調節が起こらないために引き起こされるという可能性が示唆された。

(4)cAMPによる蛋白のチロシンリン酸化への影響

 真核細胞において、様々なチロシンキナーゼが信号伝達、細胞増殖、代謝などを制御することがよく知られているが、セリン/スレオニンキナーゼと違い、cyclic-nucleotideに依存的な制御についての報告はこれまでになかった。しかしながら、最近、AcinetobacterのチロシンキナーゼがcAMPによって活性化されることが報告された。放線菌においてもチロシンキナーゼが存在し、それが二次代謝と形態分化の制御に関与している可能性が示唆されているため、HO2株において観察されたcAMPの二次代謝と形態分化に及ぼす効果は、チロシンリン酸化蛋白を介して引き起こされている可能性があると考え、チロシンリン酸化蛋白のリン酸化パターンの経時的な変化を抗リン酸化チロシン抗体を用いたウェスタン解析により調べた。

 野生株では培養初期から既に9つ以上の蛋白がチロシンリン酸化され、mid-log phase(decision phase:細胞が二次代謝と形態分化に入るかを決定する時期)以後これらの蛋白のリン酸化は急激に減少した。これに対して、HO2株の場合は培養初期にはこれらの蛋白のチロシンリン酸化は抑制され、decision phaseから急激にリン酸化されるという、野生株と全く逆の結果が得られた。このパターンは他のArpA変異株でも同じであったことから、ArpA変異とチロシンリン酸化との間に密接な関係があることが示された。一方、cyaA遺伝子をHO2株に導入すると、定常期に入るまでチロシン残基のリン酸化が抑えられることが明らかになった。この結果より、1つあるいは複数の蛋白のチロシンリン酸化が二次代謝と形態分化に非常に重要であること、またこの蛋白のチロシン残基のリン酸化がcAMPによって抑えられることが予想される。

 以上の結果は、グラム陽性菌である放線菌においてcAMPが二次代謝、形態分化に必須ではないものの重要な制御を行うことを示しており、グラム陽性菌ではこれまで知られていない発見である。A-ファクターレセプター欠損株を用いることにより、今後cAMPの役割の分子レベルでの解析が可能となった。

3.二成分制御系による気中菌糸形成と二次代謝の制御(1)放線菌の二次代謝と形態分化におけるホスホチロシンホスファターゼ阻害剤の影響及び変異株の取得

 蛋白のリン酸化が放線菌の二次代謝と形態分化に重要な役割をすることが、関連キナーゼ遺伝子のクローニング及びキナーゼ阻害剤を用いた実験を通して明らかになっている。しかし、真核細胞の増殖、分化、癌化などに非常に重要であることが知られているチロシンホスファターゼに関しては放線菌ではほとんど研究されていない。そこで、様々なホスホチロシンホスファターゼ阻害剤が放線菌の二次代謝と形態分化に及ぼす影響を調べた。その結果、バナデート(Na3VO4)が複数の放線菌の二次代謝と形態分化を抑制することが明らかになった。そこでバナデート存在下で気中菌糸形成及びSm生産能を回復する変異株の取得を試み、野生株のUV処理によりS.griseus VHK2株を取得することに成功した。

(2)二成分制御系ヒスチジンキナーゼのクローニングと解析

 VHK2株における変異遺伝子の取得を目指し、野生株を宿主としたショットガンクローニングを行った。その結果、多コピーベクターにより野生株に導入することによりバナデート存在下での気中菌糸形成及びSm生産能を回復させる遺伝子として、VHK2株の染色体DNAより約1.8kbのDNA断片を取得した。塩基配列を決定した結果、二成分制御系ヒスチジンキナーゼと非常に高い相同性を有するORFが見い出された。さらに、このヒスチジンキナーゼによってリン酸化されると予想される応答制御因子がこのキナーゼの上流に存在することが明らかになった。現在、このような二成分制御系がどのようにしてバナデート存在下での気中菌糸形成及びSm生産能を回復させるかに関しての解析を進行中である。酵母の浸透圧を感知するMAPキナーゼカスケードを構成するセリン/スレオニンキナーゼの上流に二成分制御系ヒスチジンキナーゼと応答制御因子が存在することが報告されていることから、放線菌においても二成分制御系が真核生物型のキナーゼカスケードの上流にある可能性があり興味深い。

4.まとめ

 S.griseusの二次代謝と形態分化の調節において、A-ファクター制御カスケードの周辺および本カスケードとは独立な制御機構の解明を目的とした本研究において、adenylate cyclase及びヒスチジンキナーゼがクローニングされた。Adenylate cyclaseによって合成されるcAMPは、ArpA変異株においてのみ二次代謝と形態分化を抑制し緊縮応答因子であるppGppの生産を抑制すること、およびチロシンリン酸化を抑制することが示された。これらの結果より、A-ファクター制御カスケードと関連したcAMPを介した調節機構がS.griseusに存在することが示唆された。一方、A-ファクターとともに放線菌の二次代謝と形態分化の調節に重要な役割を担っている蛋白のリン酸化を介した信号伝達機構において、真核生物型であるチロシン脱リン酸化阻害剤の効果を抑制する遺伝子として、原核生物型である二成分制御系ヒスチジンキナーゼがクローニングされた。この結果により、放線菌におけるリン酸化を介した信号伝達機構の新しい側面が明らかにされる可能性が示された。

審査要旨

 今日までに知られている天然抗生物質のうち実に6割以上が放線菌により生産されることが知られており、放線菌は抗生物質をはじめとした多種多様な生理活性物質の生産菌として工業的に非常に重要である。一方、放線菌は複雑な形態分化能もった細菌であり、基礎生物学上、極めて興味深い研究対象である。ストレプトマイシン(Sm)の生産菌であるStreptomyces griseusにおいては、Smをはじめとした二次代謝産物の生産と形態分化が自身の生産する"微生物ホルモン"A-ファクターとA-ファクターレセプター蛋白(ArpA)によって調節されていることが明らかになっている。

 本研究は、S.griseusの二次代謝と形態分化の調節において、このA-ファクター制御カスケードの周辺およびこれとは別の制御機構の解明を目指して行ったものである。

1.Adenylate cyclase遺伝子のクローニング及びその解析

 S.griseus HO2はA-factor非依存的に気中菌糸・胞子形成とSm生産を行うArpA変異株である。多コピーベクターで導入することによりHO2株の形態分化と二次代謝を抑制する遺伝子として、真核生物型のcAMP合成酵素であるadenylate cyclase遺伝子(cyaA)を野生株の染色体DNAライブラリーより取得した。cyaA遺伝子を多コピーベクターで導入したHO2株においては、cAMPがベクターのみを導入したものに比べて5倍以上生産されること、また対数増殖期の中期(いわゆるdecision phase)まで増加し続け、その後、急激に減少することが明らかになった。また、cAMPをしみこませたペーパーディスクをおいたプレート上に生育させたHO2株の観察より、高濃度のcAMPは形態分化と二次代謝を抑制すること、さらに低濃度のcAMPは形態分化と二次代謝を促進することも観察された。cyaAにより生産される高濃度のcAMPは、Sm生産に必須である緊縮調節因子ppGppの生産を抑制することも明らかになった。さらに、cyaA遺伝子の導入はHO2株のphosphotyrosine蛋白の培養時期特異的なリン酸化様式にも影響を及ぼすことが明らかになった。cyaA遺伝子を破壊しても、胞子形成とSm生産には変化が認められなかったが、蛋白のチロシンリン酸化様式には影響が出ることが示された。

 以上のようなcAMPの効果はHO2株以外の他のArpA変異株でも同様に観察されたが野生株ではほんの僅かしか観察されなかった。野生林ではA-ファクター制御機構がメインに働くためcAMPの効果が我々の目に見えてこないのに対し、ArpA変異株を用いることにより第2の制御カスケードとして存在していたcAMPによる制御機構が観察できたものと考えられる。

 以上の結果は放線菌においてもcAMPを介した制御ネットワークが存在し、それが形態分化と二次代謝にpleiotropicに機能していることを示唆している。グラム陽性菌でのcAMPの機能はこれまでほとんど知られていなかったため本発見は非常に重要である。A-ファクターレセプター欠損株を用いることにより、今後cAMPの役割を分子レベルで解析することが可能となるものと考えられる。

2.二成分制御系による気中菌糸形成と二次代謝の制御

 ホスホチロシンホスファターゼ阻害剤であるバナデート(Na3VO4)が複数の放線菌の二次代謝と形態分化を抑制することを明らかにした。次にS.griseusにおいてバナデート存在下で気中菌糸形成及びSm生産能を回復する変異株を取得することを試み、このような変異株を5株取得した。その中でVHK2株における変異遺伝子あるいはその周辺の遺伝子の取得を目指し、野生株を宿主として、VHK2株の染色体DNAを用いてショットガンクローニングを行った。その結果、野生株に多コピーで導入することによって、バナデート存在下での気中菌糸形成及びSm生産能を賦与するDNA断片を取得した。このDNA断片には、二成分制御系ヒスチジンキナーゼと非常に高い相同性を有するORF(VarKと命名)が見い出されたが、N末端側が欠失した不完全なものであった。しかしながら、このORFはベクターpIJ702のクローニングサイトに存在するチロシナーゼ遺伝子melC1の中にin-frameで挿入されていたため、MelC1のN末端側53アミノ酸との融合蛋白として発現していると考えられた。そこで全長遺伝子を取得したが、驚いたことにこれには活性がなかった。大腸菌の二成分制御系であるEnvZ/OmpR系での研究成果を参考にすると、N末端側が欠失したVarKは常に活性化され、その応答因子をいかなる状況においてもリン酸化し、活性化していると考えられた。それゆえバナデート存在下においても、N末端側が欠失したVarKは気中菌糸形成やストレプトマイシン生産を引き起こすようになったという可能性が考えられた。

 以上、本論文は、放線菌の二次代謝と形態分化の制御に真核生物型のチロシン蛋白のリン酸化と原核生物型の二成分制御系の両方が深く関与することを証明したもので、工業微生物たる放線菌の抗生物質増産という応用的にも意義のある研究である。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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