学位論文要旨



No 114438
著者(漢字) 山内,貴義
著者(英字)
著者(カナ) ヤマウチ,キヨシ
標題(和) ニホンジカの繁殖特性に関する研究 : 糞中ステロイドおよびDNA解析法の開発
標題(洋)
報告番号 114438
報告番号 甲14438
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2046号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 助教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨

 ニホンジカは日本人にとって古くより馴染み深い野生動物である。しかし近年その個体数が急激に増加したことによって各地で農林業被害などを引き起こしており,人間社会との共存という観点から少なからぬ問題が生じている。野生動物の適正な保護管理を考えていく上で,各生息地における個体数,繁殖率,食性や栄養状態などの生物学的・生態学的指標の動向について十分に把握しておくことが重要である。現在ニホンジカについて主に用いられている方法としては,直接観察により個体数をカウントし生息数を推定する調査法や,捕獲個体の分析から繁殖や栄養の状態を調べる方法などが挙げられるが,わが国に特有の急峻な地形のためもあってその適用範囲は限られており,必要な情報が十分に得られないケースも少なくない。こうした現状に鑑みて,本研究ではニホンジカの個体群動態,ことにその繁殖動態を追跡するための新たな研究手法の開発をめざした。すなわち比較的採材が容易な糞に注目し,糞から繁殖特性に関する情報を得て雌雄判別や妊娠診断に応用するための基礎的検討を行った。糞は従来より個体群密度や季節的な移動の推定,あるいは食性分析の試料として広く利用されてきたが,糞からさらに性比や繁殖率に関する情報が得られれば,個体群の繁殖動態を推定する上で有用な手法となりうることが期待される。そこで本研究では,実用的なニホンジカの糞中ステロイドホルモン測定法ならびに雌雄判別のためのDNA解析法の開発を目指して,以下のように一連の検討を行った。

 第1章では,わが国におけるヒトとニホンジカとの関わり合い,およびこれまでに世界各国で様々な動物種を対象に行われてきた糞を用いた研究を概観し,本研究で糞中ステロイドホルモン測定およびDNA解析法の開発を目指すに至った背景について解説した。

 第2章では,糞中ステロイドホルモン測定法に関する基礎的検討を行った。まず測定法の確立を目的に,動物園に飼育されている雌雄のニホンジカから採取した糞を供試して実験を行った。排便を確認後直ちに糞サンプルを採取して冷凍保存した。乾燥処理した糞0.25gをエーテルで抽出しラジオイムノアッセイ(RIA)を用いて糞中プロジェステロン(P)およびテストステロン(T)濃度を測定した。標準曲線と糞サンプルの段階希釈曲線の間で平行性が確認され,また3段階に希釈した合成PとTを乾燥糞に添加したところ,添加ホルモン濃度と測定濃度の間にはPとTのいずれについても高い相関が認められ平均回収率はPで76%,Tで93%であった。次に放射性同位元素を使用せずより応用性の高い測定法を開発するために,エンザイムイムノアッセイ(EIA)法について検討した。RIAとEIAの両測定系によるPおよびT濃度の相関係数はそれぞれR=0.94とR=0.99といずれも十分に高く,EIAを用いることで簡便かつ短時間に糞中ステロイドホルモン濃度を測定することが可能となった。次に排便後の糞中ステロイドホルモン濃度の経時的変化を調べ,適切な採材条件に関する基礎的検討を行った。飼育個体から採材した糞を20℃または4℃で放置し,測定値の経時的変化を調べた結果,20℃で糞を放置するとホルモン濃度が著しく上昇し,その程度はサンプル毎に異なることが明らかとなった。この上昇はエタノール,抗生物質あるいはシリカゲルの添加によって抑制されたことから,腸内細菌による抱合型ステロイドの分解に起因するものと推察された。このため排便時間が特定できない野生個体を対象とする場合には,温度および湿度がいずれも低く糞中ステロイドホルモン濃度の変動が少ない冬期に採材すべきであることが示唆された。

 ニホンジカの性周期中や妊娠中における性腺ホルモンの分泌パターンなどについてのデータは,これまで主に採血の難しさから非常に少なく不明な点が多く残されていた。こうした生殖内分泌機能に関する基礎的データを整備することは,野生動物の適正な保護管理を考えていく上で有用なだけでなく,本法の野外応用は糞中ステロイドホルモン濃度の年間を通じての推移を把握しておくことではじめて可能となることからも重要である。そこで第3章では動物園内で飼育されている成熟した雌雄のニホンジカを供試して,糞中ステロイドホルモン濃度を測定し,内分泌動態と行動観察の両面から繁殖機能の年周変化を推察した。糞サンプルは排便を確認後直ちに採取して冷凍保存し,2章の方法により糞中PとT濃度を測定した。その結果,非妊娠雌では繁殖期を通じて糞中P濃度に一定の範囲で周期的変動が認められ,また発情行動の発現はP濃度の低下する時期とよく一致しており,これらの雌では性周期が12〜13日であることが明らかとなった。非妊娠雌の糞中P濃度は繁殖期中に変動が見られたものの年間を通じて低いレベルで推移した。これに対して妊娠個体の糞中P濃度には交尾行動の直後から著明な上昇が起こり,非妊娠個体と明らかな相違が認められた。一方,雄の糞中T濃度は繁殖期の開始に先行して一過的に著しい上昇を示し,その他の時期は低値で推移するという明瞭な年周変動を示した。また袋角から枝角への変化や冬毛への換毛など外貌上の変化が糞中T濃度の年周変化と連関して起こることが示唆された。これらの結果から,これまで余り知られていなかったニホンジカにおける性腺ステロイドホルモンの年周期変化と生殖活動との関連について新たな知見が得られた。さらに糞中ステロイドホルモン濃度は,血中のそれと同様に動物の生殖内分泌機能を推測するための信頼度の高い指標となりうることが示され,この手法の野生個体への応用を考える上での基礎的情報が得られた。

 しかし糞中P濃度の高低を指標として成熟雌の個体群における妊娠率を推測しようとする場合,性ホルモンの分泌が低下する非繁殖期(妊娠中期〜末期に相当)には雄と非妊娠雌の区別が必要となる。そこで次にホルモン濃度以外の指標を用いて雌雄判定を行う方法について検討した。すなわち第4章では糞中に混在している腸管上皮剥離細胞由来のDNAを抽出し,polymerase chain reaction(PCR)法を用いた雌雄判別法の開発をめざし,捕獲ニホンジカから採取された血液および直腸糞を試料に用いて以下の実験を行った。PCR用プライマーを設計するため,白血球から抽出したDNAをもとにまず雌雄の性染色体上に異なる配列で存在することの知られているアメロゲニン遺伝子に着目し,Y染色体上の欠失部位周辺の塩基配列をダイデオキシ法により決定した。そしてこの塩基配列をもとにニホンジカの雌雄判別用のプライマーを設計した。電気泳動の結果,雌では219bpのバンドが1本,雄では219bpと165bpのバンドの2本が検出された。雄では非特異的なバンドも検出されたものの,雌雄を明瞭に判別することができた。糞中DNAの抽出法については様々な検討を重ねた結果,綿棒で糞表面をぬぐって腸管剥離細胞を回収した後,フェノール処理およびエタノール沈殿を行う方法を採用した。しかし糞中に多量に混在する夾雑物の影響でPCR産物が得られないこともあり,このようなサンプルについてはDNA抽出キットを用いてさらなる精製を行った。全糞サンプル(n=37)のうちPCR反応は約92%で見られ,これらのサンプルについては雌雄判別の正解率は100%であった。以上の結果より,本法を用いることでニホンジカの糞から雌雄を推定しうる手段を確立することができた。

 上記のように糞中に含まれるステロイドホルモンおよびDNAの分析によって妊娠状態や性比などの繁殖特性に関する情報を入手する方法が開発され,飼育下および捕獲したニホンジカを供試してその有用性が確認された。そこで第5章では今後こうした手法の野外応用をめざすにあたり,まず実際の野外のサンプルを用いて本法を試行し,問題点等を明らかにする目的で以下の調査を行った。積雪期にあたる1997年2月17日〜18日と1998年2月9日〜10日の2回,山梨県小淵沢町から長坂町に位置する県営牧場周辺に生息する野生ニホンジカを対象に調査と採材を行った。夜間にライトセンサス法による直接観察でシカの群の個体数,性比および年齢構成などを確認の後,翌朝その場所において新鮮糞を採取した。糞は研究室に持ち帰るまで冷蔵保存し,糞中ステロイドホルモン濃度の測定およびDNA解析を行った。糞中P濃度の測定結果より,両年とも高P濃度群と低P濃度群の2群に分類された。なお前章の方法によるDNA抽出法ではPCR産物が十分に得られなかったためさらにキットを用いて精製後もう一度酵素処理およびフェノール抽出による除タンパク処理を行った結果,全てのサンプルでPCR産物が得られた。雄と判定されたサンプルは’97年が28サンプル中4サンプル,’98年が45サンプル中13サンプルあり,すべて糞中P濃度は低濃度であった。また雌のうち高濃度群つまり妊娠個体と推定された割合は’97年が75%,’98年が56%であった。これらの結果により冬期に野外で採取した糞から,雌雄判別および妊娠状態の推定が可能となった。今後はさらにマイクロサテライトDNAの解析による個体識別法を開発し,生態学的調査等に組み入れていくことが望ましいと思われた。

 以上本研究では,ニホンジカの繁殖特性に関する情報を得るために,飼育下および捕獲したニホンジカを供試して糞中ステロイドホルモン測定法およびDNA解析法を開発し,また野生ニホンジカを対象とした試験的調査では本手法の野外応用への可能性を示す結果を得ることができた。

審査要旨

 野生動物の適正な保護管理を考えていく上で,各生息地における個体数,繁殖率,食性や栄養状態などの生物学的・生態学的指標の動向について十分に把握しておくことが重要である。本研究はニホンジカの個体群動態,ことにその繁殖動態を追跡するための新たな研究手法の開発をめざしたものである。すなわち比較的採材が容易な糞に注目し,糞から繁殖特性に関する情報を得て雌雄判別や妊娠診断に応用するため,実用的なニホンジカの糞中ステロイドホルモン測定法ならびに雌雄判別のためのDNA解析法の開発に向けて一連の検討が行なわれた。

 本論文は6章より構成され,まず第1章では,これまでに世界各国で様々な動物種を対象に行われてきた糞を用いた研究が概観され,本論文で糞中ステロイドホルモン測定およびDNA解析法の開発を目指すに至った背景について解説されている。

 第2章には,糞中ステロイドホルモン測定法に関する基礎的検討の結果が記されている。すなわち雌雄のニホンジカから採取した糞中のプロジェステロン(P)およびテストステロン(T)濃度が測定されたが,エンザイムイムノアッセイ(EIA)法を採択することで簡便かつ短時間に糞中ステロイドホルモン濃度を測定することが可能となった。次に排便後の糞中ステロイドホルモン濃度の経時的変化が調べられ,適切な採材条件に関する検討が行われた結果,野生個体を対象とする場合には,温度および湿度がいずれも低く糞中ステロイドホルモン濃度の変動が少ない冬期に採材すべきであることが示唆されている。

 第3章では,動物園で飼育されている雌雄の成熟ニホンジカを供試して,糞中ステロイドホルモン濃度を測定し,内分泌動態と行動観察の両面から繁殖機能の年周変化が検討された。その結果,非妊娠雌では繁殖期を通じて糞中P濃度に一定の範囲で周期的変動が認められ,これらの雌では性周期が12〜13日であることが明らかにされた。非妊娠雌の糞中P濃度は繁殖期中に変動が見られたものの年間を通じて低いレベルで推移したのに対し,妊娠個体の糞中P濃度には交尾行動の直後から著明な上昇が起こり,非妊娠個体と明らかな相違が認められた。一方,雄の糞中T濃度は繁殖期の開始に先行して一過的に著しい上昇を示し,その他の時期は低値で推移するという明瞭な年周変動が観察され,また袋角から枝角への変化や冬毛への換毛など外貌上の変化が糞中T濃度の年周変化と連関して起こることが示唆された。これらの結果から,これまで余り知られていなかったニホンジカにおける性腺ステロイドホルモンの年周期変化と生殖活動との関連について新たな知見が得られている。

 第4章では,糞中に混在している腸管上皮剥離細胞由来のDNAを抽出し,polymerase chain reaction(PCR)法を用いて雌雄判別を行う方法が検討された。PCR用プライマーを設計するため,まず雌雄の性染色体上に異なる配列で存在することの知られているアメロゲニン遺伝子に着目し,Y染色体上の欠失部位周辺の塩基配列を決定し,そしてこの塩基配列をもとにニホンジカの雌雄判別用のプライマーが設計された。電気泳動の結果,雌では219bpのバンドが1本,雄では219bpと165bpのバンドの2本が検出され,雌雄を明瞭に判別することができた。全糞サンプル(n=37)のうちPCR反応は約92%で見られ,これらのサンプルについては雌雄判別の正解率は100%であった。以上の結果より,本法を用いることでニホンジカの糞から雌雄を推定しうる手段が確立された。

 第5章では,実際の野外のサンプルを用いて本法を試行するため,野外調査が行われた。積雪期に夜間ライトセンサス法による直接観察でシカの群の個体数,性比および年齢構成などを確認の上,翌朝に新鮮糞を採取し,糞中ステロイドホルモン濃度の測定およびDNA解析が行なわれた。雄と判定されたサンプルはすべて糞中P濃度は低濃度であり,また雌のうち高プロジェステロン濃度群つまり妊娠個体と推定された割合は1997年が75%,1998年が56%であった。これらの結果により冬期に野外で採取した糞から,野生ニホンジカにおいて雌雄判別および妊娠状態の推定が可能となった。こうした結果をふまえ第6章では本法の生態学的研究への応用に関して総合考察が展開されている。

 以上要するに,本研究はニホンジカの繁殖特性に関する情報を得るために,糞中ステロイドホルモン測定法およびDNA解析法を開発し,また野生ニホンジカを対象とした試験的調査では本手法の野外応用への可能性を確認したもので,これらの業績は学術上,応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対して博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判定した。

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