学位論文要旨



No 114441
著者(漢字) 市瀬,広武
著者(英字)
著者(カナ) イチセ,ヒロタケ
標題(和) がん遺伝子H-,N-,K-ras多重欠損マウスを用いたRasの生体機能の解析
標題(洋)
報告番号 114441
報告番号 甲14441
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2049号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝木,元也
 東京大学 教授 高橋,迪雄
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
内容要旨

 ras遺伝子は、レトロウイルスのがん遺伝子v-rasの原がん遺伝子として、またヒトのがんの多くで変異が見つかる遺伝子として同定された。遺伝子産物Rasは、21kDaの低分子量GTP結合タンパク質である。様々な種類の受容体からのシグナルを受けるとGDP結合型からGTP結合型に変化して活性化し、MAPキナーゼ経路をはじめとするシグナル伝達経路にシグナルを伝えることで、細胞の増殖や分化を制御していると考えられている。

 Rasは哺乳類のみならず、線虫や酵母、ショウジョウバエにもホモログが存在する。そしてこれらの動物種の変異体解析により明らかにされたRasを介するシグナル伝達系自体も、種を超えて保存されていることから、Rasは多くの生物種に共通するシグナル伝達の調節因子であると考えられている。

 しかし、哺乳類のRasにはH-、N-、K-Rasの3種類が存在する。これらのRas間ではアミノ酸配列が極めてよく保存されており、変異の生じたがん遺伝子産物としての細胞の形質転換能や生化学的性質、シグナル伝達への寄与のメカニズムは共通している一方、それぞれのRasに特徴的な配列も存在し、脂質修飾の種類や結合するタンパク質の種類が異なることが知られている。また、3つの遺伝子はいずれも全身性に発現しているが、発現量やパターンがそれぞれに特徴的であることも知られる。これらのことから、哺乳類の生体内において、3つのRasに共通する機能とそれぞれのRasで異なる機能の両方が存在することが考えられる。

 それぞれのras遺伝子欠損マウスは、所属研究室において既に作成、解析されており、H-ras遺伝子ホモ型欠損マウス(H(-/-)マウス)やN-ras遺伝子ホモ型欠損マウス(N(-/-)マウス)が正常であるのに対して、K-ras遺伝子欠損マウス(K(-/-)マウス)が胎生致死であることがわかっている。このことから、K-ras遺伝子がH-rasおよびN-ras遺伝子と機能的に異なることが考えられた。そこで各ras遺伝子欠損マウスを用いて多重欠損マウスを作成し、その生存性と表現型の観察、解析を行うことで、3つのRasの機能重複の有無を検討した。

 まず、多重欠損マウスの生存性について検討した。N-ras遺伝子欠損とK-ras遺伝子欠損の組み合わせでは、N(-/-)マウスやK(+/-)マウスがそれぞれ正常であるにもかかわらず、N(-/-)K(+/-)マウスの多くが胎生致死であった。一部は見かけ上正常に出生したが、哺乳後、腹腔への白色液体(乳糜腹水)の貯留および小腸粘膜下層の浮腫が認められ、出生当日あるいはその翌日に死亡した。また、H-ras遺伝子欠損とK-ras遺伝子欠損の組み合わせでは、K(-/-)の胎仔よりもH(-/-)K(-/-)の胎仔がより早い時期に死亡することがわかった。一方、H-ras遺伝子欠損とN-ras遺伝子欠損の組み合わせについては、H(-/-)N(-/-)マウスが出生し、繁殖能力の正常な成熟個体に成長することを観察した。3遺伝子欠損の組み合わせであるH(-/-)N(+/-)K(+/-)マウスは、出生した個体のほとんどすべてにN(-/-)K(+/-)マウス同様の乳糜腹水の貯留と小腸粘膜下層の浮腫が認められ、その多くが生後数日で死亡した。しかし、生き残った個体は繁殖能力の正常な成熟個体に成長した。

 K(-/-)マウスが胎生致死であるのに対して、K-Rasのみが発現しているH(-/-)N(-/-)マウスが正常に発生することから、発生にはK-Rasが必須であることが明らかになった。このことから、K-ras遺伝子に他のras遺伝子と異なる機能が存在することが考えられた。しかし一方で、N(-/-)K(+/-)マウスやH(-/-)K(-/-)マウスの胎生致死の結果からH-RasやN-Rasも発生に寄与していることがわかり、Ras間に機能重複がある可能性も考えられた。

 次に、N(-/-)K(+/-)とH(-/-)N(+/-)K(+/-)という2つの遺伝子型の新生仔で観察された表現型、乳糜腹水と小腸粘膜下層の浮腫と、ras遺伝子欠損との関係について検討した。

 この乳糜腹水の貯留は、2遺伝子型の新生仔のみならず、出生後の死亡が顕著でない他の遺伝子型の新生仔においても同様に観察されることがわかった(表)。乳糜腹水の発症率は遺伝子型によって異なるが、いずれのras遺伝子欠損も発症に影響し、ras遺伝子欠損が進むほど乳糜腹水の発症率が高くなる傾向にあった。

表 ras遺伝子多重欠損マウスの新生仔における乳糜腹水の発症率

 様々な遺伝子型のras遺伝子欠損マウスを自然交配によって生産し、観察した結果を表にまとめた。表の左側および上側に、各ras遺伝子の遺伝子型を示す。分母は観察した各遺伝子型のマウスの数で、分子は乳糜腹水の貯留が観察されたマウスの数である。カッコ内は発症した割合を%で示したものである。

 各遺伝子型の発症率を比較すると、2種類以上のRasの減少によって相乗的に発症率が高くなる傾向にあったが、K-Ras、N-Ras、H-Rasの順にその減少が発症率の上昇に大きく影響していた。一方、H-ras遺伝子導入マウス(TgH-ras)とras遺伝子欠損マウスを交配することで得たH-ras遺伝子導入ras遺伝子多重欠損マウスでの乳糜腹水の発症の有無について検討したところ、H(-/-)N(-/-)TgH-rasやH(-/-)N(+/-)K(+/-)TgH-rasで発症が認められなかった。また、N(-/-)K(+/-)TgH-rasでも発症が認められず、N-RasやK-Rasの減少による発症がH-Rasの過剰発現によって抑えられることがわかった。

 Ras間での発症への影響の差はRas間の機能や発現の何らかの差を反映していると考えられた。しかし、いずれのRasの減少によっても同一表現型の発症率の上昇が見られること、導入遺伝子によるH-Rasの過剰発現によってN-RasやK-Rasの減少による発症が抑えられることから、3つのRasの機能が重複していることが明らかになった。

 発症したいずれの遺伝子型の新生仔においても、乳糜腹水の貯留と小腸粘膜下層の浮腫が併発する点、全身の組織学的解析で小腸粘膜下層の浮腫病変以外の変化が認められない点で同じであった。発症後死亡する個体や耐過して成長する個体の肉眼および組織学的観察結果も同様であった。ras遺伝子欠損マウス同様に、乳糜腹水の貯留や小腸粘膜下層の浮腫が見られる変異マウスやヒトの疾患との比較から、リンパ管の低形成が表現型の原因として最も可能性が高いと考えられた。しかし、腸間膜のリンパ管の観察や、新生仔小腸におけるリンパ管内皮細胞に特異的な遺伝子発現の検討では、低形成の証拠は見出せなかった。リンパ管の詳細な組織学的検討に加え、リンパ管以外の他の可能性についても検討の余地があり、なお解析を進めているところであるが、遺伝子型にかかわらず同じ表現型であることから、発症の原因となる変化の生じた細胞も同じであることが強く示唆された。

 したがって、生体内において、少なくともこの表現型の原因となる変化の生じた細胞において、3つのRasがいずれも発現し、かつそれらの機能が重複している可能性が強く考えられた。

 本研究では、ras遺伝子多重欠損マウスの生存性の解析により、発生におけるK-Rasの必須性が明らかになった。また、新生仔における乳糜腹水の貯留と小腸粘膜下層の浮腫という表現型の解析により、生体内におけるRas間の機能重複の存在が明らかになった。

審査要旨

 ras遺伝子は、ヒトやマウスの原がん遺伝子として発見されて以来、その遺伝子産物Rasが細胞内シグナル伝達の制御分子として細胞の増殖、分化などを制御すると考えられるに至っている。しかし、これまでのRasは、がんで見つかる変異遺伝子産物の機能を中心に研究されてきた。その方法は培養細胞を用いたトランスフェクションあるいはマイクロインジェクションによる発現が主体であり、生体における正常なRasの機能解析には、それだけでは不十分である。

 RasにはH-、N-、K-Rasの3種類が存在する。これらのRas間ではアミノ酸配列が極めてよく保存されており、変異の生じたがん遺伝子産物としての細胞の形質転換能や生化学的性質、シグナル伝達への寄与のメカニズムは共通しているが、それぞれのRasに特徴的なアミノ酸配列も存在し、脂質修飾の種類や結合するタンパク質の種類が異なることが知られている。これらはいずれも全身性に発現しているが、発現量やパターンがそれぞれに特徴的であることも知られる。これらのことから、哺乳類の生体内において、3つのRasに共通する機能とそれぞれのRasで異なる機能の両方の存在が考えられる。

 申請者は、所属研究室において既に作成、解析されている、それぞれのras遺伝子欠損マウス、H-ras遺伝子ホモ型欠損マウス(H(-/-)マウス)やN-ras遺伝子ホモ型欠損マウス(N(-/-)マウス)が正常であるのに対し、K-ras遺伝子欠損マウス(K(-/-)マウス)は胎生致死であることから、K-ras遺伝子がH-rasおよびN-ras遺伝子と機能的に異なると推定した。そこで、ras遺伝子の2重、3重同時欠損マウスの生存性や表現型を解析することで、それぞれのRasの生体機能や機能重複について検討した。

 まず、多重欠損マウスの生存性について検討した。N(-/-)マウスやK(+/-)マウスはそれぞれ正常であるにもかかわらずN(-/-)K(+/-)マウスの多くが胎生致死であることを明らかにした。また、一部は見かけ上正常に出生したが、哺乳後、腹腔への白色液体(乳糜腹水)の貯留および小腸の浮腫が認められ、出生当日あるいはその翌日までに死亡することを見出した。次に、K(-/-)の胎仔よりもH(-/-)K(-/-)の胎仔がより早い時期に死亡することを明らかにした。一方、H(-/-)N(-/-)マウスやH(-/-)N(+/-)K(+/-)マウスが出生し、繁殖能力の正常な成熟個体に成長することを観察した。以上のことから、発生にK-Rasが必須であることを明らかにし、K-ras遺伝子に他のras遺伝子と異なる機能の存在が考えられる一方、H-RasやN-Rasが生体内で発生に寄与していることから、Ras間の機能重複が考えられることについて考察した。

 次いで、新生仔期のN(-/-)K(+/-)マウスやH(-/-)N(+/-)K(+/-)マウスに見られた乳糜腹水と小腸の浮腫の表現型が、出生後の死亡が顕著でない他の遺伝子型の新生仔にも共通してみられることを発見し、その発症率や表現型の詳細について検討した。その結果、どのRasの減少によっても同一表現型の発症率の上昇が見られること、乳糜腹水と小腸粘膜下層の浮腫はどの遺伝子型においても常に併発することを見出した。また、各遺伝子型の発症率の違いから3つのRasの発症への影響力の違いを見出した。さらに、H-ras遺伝子導入マウスとras遺伝子欠損マウスを交配することで得たH-ras遺伝子導入ras遺伝子多重欠損マウスについても検討し、H-Ras導入で内在性H-Rasの欠損が補われるだけでなくN-RasやK-Rasの欠損による発症も抑えられることを明らかにした。この表現型の原因は同定できておらず、同様の表現型が観察されるヒトの疾患例や変異マウスの例との類似点を挙げ、原因について考察するに留まったが、3つのRasの減少あるいは欠損が、表現型の原因となる同じ細胞で起こっている可能性が極めて高いことを示した。同時に、少なくともこの表現型の原因となる細胞において、3つのRasが確かに生体内で共通する機能を有していることを初めて明らかにした。

 以上のように、本論文は、生体内における3種類のRasタンパク質には重複する機能が存在することをras遺伝子多重欠損マウスを作ることによって世界で初めて明らかにしたものであり、学術的に貢献するところ大である。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54709