ネコ免疫不全ウイルス(FIV)は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)と同様、レトロウイルス科レンチウイルス属に分類され、感染ネコにヒトの免疫不全症候群(AIDS)に類似する症状を発症させることが知られている。FIV感染症は世界中のネコに蔓延しているが、その中でも日本はとくに濃厚感染地域である。また、ネコのみならず様々なネコ科野生動物において、FIV近縁ウイルスの感染が認められているが、これらウイルスはネコのFIVとは明らかに遺伝的に異なり、またそれぞれの種に固有のウイルスが存在することが明らかとなっている。FIVは、レトロウイルスの基本構造(LTR,gag,pol,env)以外にアクセサリー遺伝子を持つが、とくにenv遺伝子においては高度可変領域とよばれる非常に変異の著しい部位が存在し、遺伝的多様性が顕著に認められる。現在のところ、FIVはenv遺伝子の塩基配列からA,B,C,D,Eの5つのサブタイプに分類されている。Env糖蛋白はウイルスと感染細胞との相互作用に関連するレトロウイルスに共通した基本的な構造蛋白であり、この蛋白に中和抗体およびCTLの認識部位が存在する。また、FIVは、Tリンパ球、マクロファージ、アストロサイトおよび線維芽細胞といったさまざまな細胞に感染し、FIV株によって細胞親和性が異なることが知られているが、この細胞親和性の違いはenv遺伝子の多様性が関与するものと考えられている。このようにFIVは、その形態学的特徴、分子生物学的特徴、病原性などがHIVのそれらと非常に類似していることから、FIV感染症は、ヒトにおけるAIDSの優れた動物モデルであると考えられている。これまで、FIV感染症およびHIV感染症の克服のために様々な研究が行われてきたが、最も大きな問題の一つはHIV遺伝子の多様性であり、それによってさまざまな病態が引き起こされるとともに、ワクチン開発および薬剤による治療を非常に困難なものにしている。そこで本論文では、FIVの遺伝的多様性に焦点を当て、第1章ではFIV脳症を呈した感染ネコ由来ウイルスの個体内変異について、第2章では有効なワクチン開発を目標とし、FIVの日本におけるウイルスサブタイプの分布について、第3章ではFIVの日本固有希少野生動物への種間伝播とその病原性について解析を行った。 HIVをはじめとするレンチウイルスの感染個体内での遺伝的多様性は、病気の進行、宿主の免疫や薬剤治療に対する耐性株の出現、および特異的な組織に対する高親和性株の増殖などにより形成される。ヒトでは、AIDS脳症という中枢神経障害がAIDS患者の10%以上に見られ、脳に存在するHIVの神経細胞親和性とその神経病原性の関連が推定されている。また、FIV脳症は、実験感染および自然感染ネコに認められ、臨床的に大きな問題の一つと考えられている。そこで第1章では強直性痙攣をはじめとする神経症状を呈した2歳齢のFIV自然感染ネコについて、FIVの神経病原性に関与する遺伝的変異の解析をおこなった。病理組織学的検査では、大脳の側頭葉近傍の帯状核に脂肪を貪食したマクロファージおよびミクログリアを中心とした炎症性細胞の浸潤および囲管性細胞浸潤が認められた。また、顕著なアストロサイトの増生が認められ、大脳皮質および帯状核の病変部周辺の切片についてin situ hybridizationをおこなったところ、アストロサイトにFIV RNAの存在を確認した。大脳を含む各組織からFIVenv遺伝子のV3-V6領域をクローニングし、得られた塩基配列がコードするアミノ酸配列を比較したところ、各組織から均一なアミノ酸配列を有するウイルスが検出され、クローン間の相同性は98%以上で、この症例においては単一のpopulationのウイルスが各臓器に感染、増殖していることが示唆された。次にこの脳炎由来JN-BR1株と他のウイルス株との遺伝的近縁性を検討するため、FIVenv領域(V3-V6)の無根系統樹を作成した。その結果、JN-BR1株はPetaluma株およびUK8株を含むウイルスSubtypeA群に属することが明らかになった。SubtypeAに属するウイルス株の中には、in vitroにおけるアストロサイトへの感染、アストロサイトのグルタミン酸取り込みの減少、実験感染による脳症発症が確認されている株が存在する。本章において得られたJN-BR1株は、これら神経病原性株と同様、神経系細胞への親和性および神経病原性に関与する遺伝子構造を有する可能性が示唆されたため、FIV脳症におけるウイルス変異および病原性の解析にきわめて有用であると考えられた。 これまでFIVワクチンの開発は多くのグループで研究されているが、同種のEnv糖蛋白を持つFIVの攻撃接種に対しては感染防御能が獲得されているが、異なるEnv糖蛋白を持つFIVの攻撃接種に対しては感染防御が認められないことが報告されている。そのため、有効なワクチン開発のためには、FIVの多様性と、その分布を理解することが不可欠である。そこで、第2章においては、ウイルスと細胞との相互作用およびワクチン作成において非常に重要であるFIVenv遺伝子の多様性に着目し、日本国内各地方の感染ネコ由来FIVの塩基配列の比較解析および分子遺伝学的解析を行った。FIV陽性ネコの末梢血単核球(PBMC)よりFIVenv遺伝子のV3-V6領域をクローニングし、得られた塩基配列をもとに分子遺伝学的解析を行ったところ、札幌においてはSubtypeA(3株)、岩手ではSubtypeB(2株)、東京ではSubtypeA(1株)、愛知ではSubtypeB(1株)、C(1株)、岡山ではSubtypeD(1株)、熊本ではSubtypeD(2株)が認めらた。第1章では、宮崎においてはSubtypeA(1株)、D(2株)、および東京においてSubtypeB(1株)を分離しており、これらの結果をまとめると、日本においてはこれまで分離されていなかったSubtype Cの株を含む、Subtype A,B,C,Dすべての株が存在し、その分布については、北海道にはSubtype A、東日本にはSubtype B、西日本にはSubtype Dとある程度の地域性が認められることが明らかになった。またSubtypeAに含まれるウイルスに感染した症例に重症例が多く、SubtypeBに感染した症例に関しては比較的病状が軽度であったため、Subtypeと病原性との関連が示唆された。本章の結果により、FIVの疫学的な分布および病態とウイルス多様性との関連が明らかとなり、今後のワクチン開発における基礎データを得ることができた。 FIV近縁ウイルスは、さまざまなネコ科野生動物に存在することが知られているが、動物園の一頭のピューマがネコ由来FIVに感染していたことにより、FIVの野生動物への伝播の可能性が想定されている。対馬のみに生息するツシマヤマネコ(Felis bengalensis euptilura)は、種の保存法によって指定された国内希少野生動物種であるが、人工繁殖研究を目的として捕獲した1頭のツシマヤマネコがFIV抗体を保有していることが明らかとなり、その蔓延が個体数の少ない本種の保存にとって大きな問題となることが危惧された。そこで第3章では、ツシマヤマネコにおけるFIV感染に関する調査のため、ツシマヤマネコに感染しているウイルスおよび対馬のイエネコにおけるFIVの遺伝子クローンを解析することにより、これらウイルスの遺伝系統学的解析を行った。またツシマヤマネコ由来ウイルスを分離し、その生物学的性状および細胞障害性をin vitroで検討した。FIV抗体陽性ツシマヤマネコが捕獲された場所の周囲の集落において、51頭の飼いネコおよび野良ネコから血液を採取し、FIV抗体検査を行ったところ、その陽性率は、21.6%(11/51)であった。これら抗体陽性ネコおよび捕獲された抗体陽性のツシマヤマネコのPBMCからV3-V6領域のenv遺伝子の塩基配列を決定し、遺伝系統学的解析を行ったところ、これらウイルス株のすべてがsubtypeDに含まれており、ツシマヤマネコ由来ウイルスはネコに存在するsubtypeDのFIVに含まれること、および対馬のこの地域ネコにおいてはsubtypeDのFIVが高頻度に伝播していることが明らかとなった。またツシマヤマネコPBMCより分離したFIV/Feu-P株、FIV/Feu-K株およびイエネコ由来Subtype DのFIV/Fukuoka株をツシマヤマネコ由来リンパ系細胞(PIPP-I)およびイエネコ由来リンパ系細胞(Kumi-1)に接種した後、培養上清中の逆転写酵素活性および生細胞数の算定を行ったところ、両ウイルスともにPIPP-I細胞とKumi-1細胞の両細胞においてその逆転写酵素活性の上昇が認められ、これら細胞の細胞生存率は3週間後には20%以下となった。これらの結果より、本ウイルスがFIVに感染している飼い猫または野良ネコからツシマヤマネコへ伝播されたものであることが強く示唆されるとともに、ツシマヤマネコ由来FIV株は、ツシマヤマネコおよびネコの両種の細胞に感染し、ツシマヤマネコ細胞に対してもネコ細胞と同等の細胞障害性を示すことが明らかとなった。FIVのツシマヤマネコに対するin vivoにおける病原性は明らかではないが、Subtype D FIVは、in vitroの系においてツシマヤマネコ細胞でよく増殖し、細胞障害性を示すことが確認されたことから、FIVはツシマヤマネコにおいてネコと同様の病原性を示す可能性が示唆された。本章の結果は、ツシマヤマネコの種の保存のためにはネコからツシマヤマネコへのFIV伝播のコントロールの重要性を明確にしたものと考えられる。 本論文では、FIVの遺伝的多様性に関する一連の研究を行った。第1章では、病態に特異的な遺伝的多様性に関して新しい知見を見出し、第2章ではワクチン開発にむけたFIVの疫学および病態とウイルス多様性との関連について基礎的データを提供し、第3章ではFIVの国内希少野生動物種への種間伝播とそのコントロールの重要性を提唱した。FIV感染の制圧が困難である理由はFIVゲノムの遺伝的多様性によるところが多い。本論文における一連の研究は、このようにネコ科動物において大きな問題となっている病原体であるFIV感染の制御に大きく貢献するものと考える。 |