近年の医療技術の進歩と公衆衛生および生活水準の向上は、日本を含む先進諸国に高齢化社会をもたらした。その結果、従来の急性感染症や小児疾患が減少し、代わりに生活習慣病や老人病が国民病として重要性を増している。21世紀の超高齢化社会を迎えるに当たり、糖尿病とその合併症は特に深刻な問題の1つであり、本疾病の克服は緊急の課題となっている。 加齢、遺伝、環境等複雑な因子が関与するこれらの疾患の病態とその機構を明らかにし、有効な予防・治療法を確立するには、適切なモデル動物の開発が不可欠である。糖尿病合併症のうち、細血管症(腎症、網膜症)については、既に複数のモデル動物が開発され、様々な研究がなされてきている。他方、大血管症(粥状動脈硬化症)は、ヒトにおけるII型糖尿病(インシュリン非依存性、加齢性糖尿病)の死因の第一位であるにも拘わらず、今日まで適切なモデル動物は開発されていない。 APA(albino-panda-albino)系シリアンハムスター(以下、APAハムスター)は、田嶋嘉雄らにより東京大学医科学研究所で開発され、近交系化された実験動物である。APAハムスターは、ストレプトゾトシン(SZ)の単回投与で持続性の糖尿病と高脂血症が誘発され、糖尿病状態下で脂質沈着を伴う巣状・分節状糸球体硬化症(focal and segmental gromelurosclerosis:FSG)を早期に発症することが知られている。ヒトおよび動物モデルでFSGは、その病変の発現・進展機構に関し、粥状動脈硬化症との類似性がしばしば指摘されている。また、シリアンハムスターは血中コレステロールの主要な運搬体が低密度リポ蛋白(low-density lipoprotein:LDL)である点で、ヒトと一致しているため、高脂肪餌添加による粥状動脈硬化症モデルとして汎用されている。 本論文では、APAハムスターのSZ投与誘発糖尿病で、ヒトに近い糖尿病性粥状動脈硬化症が惹起できるか否か、できるとすればその発症機構および病態はどのようなものであるかを明らかにしようとした。第1章では、主として組織形態学的アプローチで病態の特徴を検索し、また、第2章では、糖尿病性粥状動脈硬化病変の病理発生機構に関わる因子について形態学的検索の他に生化学的、分子生物学的アプローチにより検索した。 第1章第1節ではAPAハムスターの動脈に関する基礎データを得る目的で、3ヶ月齢から12ヶ月齢までの無処置APAハムスターについて、胸大動脈と腹大動脈の変化を形態計測学的および微細形態学的に解析した。その結果、胸大動脈では、加齢に伴う単位面積当たりの平滑筋細胞数の減少、コラーゲン密度の増加が腹大動脈よりも顕著であった。また、無処置APAハムスターでは、12ヶ月齢まで動脈硬化病変は全く認められなかった。 第2節では、SZ投与によりAPAハムスターに糖尿病を惹起し、大動脈の経時的病変の推移を組織学的に検索した。SZの単回投与により、APAハムスターは高血糖を投予後26週目まで持続していた。糖尿病APAハムスターでは、SZ投与後6週目より多数の泡沫細胞の集蔟から成る脂肪斑の形成が大動脈弓に限局して認められ、投与後14週目では脂肪斑に平滑筋細胞の顕著な浸潤が起こり、さらに投与後26週目になると、多数の平滑筋細胞から成る線維斑、あるいは石灰沈着や脂肪線条を含む進行した粥状動脈硬化病変がみられた。また、投与後26週目の個体では、変性した泡沫細胞と少数の生細胞から成る粥状動脈硬化病変も存在し、剥離・栓塞の原因となる病態と考えられた。このような病変の進行過程は、ヒトで認められる粥状動脈硬化病変とよく類似しており、糖尿病APAハムスターが、ヒトの糖尿病性粥状動脈硬化症の有用なモデル動物であることが示された。 第3節では、ビタミンD(VD)を用いて大動脈壁に石灰沈着を惹起することにより、第2節で明らかにした粥状動脈硬化病変がより早期かつ重度に進展するかどうかを検索した。VD投与により、糖尿病APAハムスターの粥状動脈硬化病変は、大動脈弓でより高度に進展するということはなかったが、逆に小さな脂肪斑が大動脈全体に散在するようになった。VDの投与による大動脈壁への石灰沈着は、大動脈弓を含む全ての部分にランダムに生じた。また、一度生じた石灰沈着は、時間が経過しても修復される傾向はみられなかった。石灰沈着部位と脂肪斑は完全には一致しなかったが、石灰沈着部の一部に脂肪斑が見られたり、近傍に脂肪斑が存在することがあった。このことから、石灰沈着が直接的ではないが、間接的に脂肪斑の形成し易さに影響したと考えられ、修飾された粥状動脈硬化症モデルの開発の可能性が示唆された。 第2章第1節では、まず、糖尿病状態下での血漿中の脂質とリポ蛋白の変化について検索した。糖尿病APAハムスターは、著明な高脂血症・高リポ蛋白血症を呈していた。リポ蛋白の粥状動脈硬化症の進展に伴う変化を検索した結果、1)LDLが増加するのに対し、HDLは減少すること、2)LDL粒子内の脂質の主体がコレステロールからトリグリセリドに組成を変えること、3)アガロースゲル電気泳動により、リポ蛋白の増加はキロミクロン、LDLおよび非定型的LDLの増加によること、4)VLDL分画は無処置群に比べて不明瞭であること、5)血中LDLは酸化修飾を受け易くなっていることが明らかになった。また糖化修飾された血中LDLの顕著な上昇が認められ、かつ、大動脈壁の脂肪斑において泡沫細胞内に過酸化脂質および最終糖化産物(advanced glycation end-product: AGE)が認められた。これらの結果から、糖化LDLあるいは酸化され易いLDLがマクロファージの泡沫化過程、すなわち、粥状動脈硬化病変形成の初期段階において非常に重要であることが示唆された。 第2節では、大動脈弓におけるリポ蛋白受容体群のmRNAの発現の変化を検索した。それらの経時的変動は6種類に分類された。1)単純陽性反応型。スカベンジャー受容体(SR)-AIおよびAII mRNAは、SZ投与により高脂血症が誘発されると、速やかに発現が上昇し、病態の進展と関係なく、高脂血症が持続する間、高発現が持続する。このことは、両受容体が脂質の調節に重要な役割を担っていること、血中脂質量の恒常性に働いている事を示唆している。2)複合陽性反応型。CD68およびAGE受容体(RAGE)mRNAは、初期に著しい発現の増加が見られるが、病態が進行するにつれ、発現量は相対的に減少し、26週目では無処置群と同等レベルの発現になる。これら受容体は病変の初期形成に重要であると考えられる。3)病態関連陽性型。CD36 mRNAは初期に上昇し、その後病態が進行するのに伴い発現が増加する。以上の受容体はいずれも、高脂血症に伴い発現が増加する受容体群である。4)単純陰性反応型。SR-BI mRNAは高脂血症が誘導されるとその発現が減少する。この受容体の特異的リガンドであるHDLは、高脂血症状態で減少しているので、それを反映している可能性がある。5)病態関連陰性型。LDL受容体(LDLR)mRNAは高脂血症が起こると発現が減少し、病態が進行するにつれてその発現量は有意に減少する。これは血中のLDLが過剰なため、ネガティブフィードバックが働いた結果と思われる。6)非関連型。VLDL受容体(VLDLR)mRNAの発現は無処置群と同等であった。アガロースゲル電気泳動でも、高脂血症APAハムスターでVLDLの増加が認められなかったことから、受容体発現量に影響しなかったと考えられる。 粥状動脈硬化病変の形成・進展の面からこれら受容体群の発現を考えると、無処置群に比べ、病変発生の初期段階(SZ投与後6週目)では、SR-AI、CD36、CD68およびAGE受容体(RAGE)のmRNAが顕著な上昇を示し、病変の進行した段階(投与後26週目)では、SR-AIおよびCD36のmRNAが顕著な上昇を示した。また、in situ hybridizationにより、SR-AI mRNAの顕著な発現が脂肪斑の泡沫細胞で認められた。これらの結果から、これら受容体群の発現が粥状動脈硬化病変の発生・進展過程に重要であることが示唆された。 以上のように、本論文では、APAハムスターを用いて確立した糖尿病性粥状動脈硬化症モデルの特徴と本疾患の発症・進展過程に重要な因子(リポ蛋白とその受容体群)の変化について詳細に明らかにした。本モデル動物および本論文の結果は、糖尿病性粥状動脈硬化症の発症・進展機構を解明する上で、多大なる貢献をするものと思われる。 |