学位論文要旨



No 114457
著者(漢字) 池田,靖弘
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,ヤスヒロ
標題(和) ネコリンパ球好性ウイルスに関する研究
標題(洋) Studies on Feline Lymphotropic Viruses
報告番号 114457
報告番号 甲14457
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2065号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 大塚,治城
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 甲斐,知恵子
内容要旨

 医学領域では、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)、麻疹ウイルス、EBウイルスをはじめとする多くの感染症の原因ウイルスが、宿主リンパ系細胞をその増殖のターゲットとすることが知られている。また、これらのウイルスの病原性は、リンパ系細胞に対するウイルス感染と深い関連性を持つことが示唆されている。しかしながら、HIVによる後天性免疫不全症候群(AIDS)発症のメカニズムの解明が現在大きな課題となっているように、リンパ球好性ウイルスのリンパ系細胞における動態と病原性発現機序については未知の点が多い。

 獣医領域における代表的なリンパ球好性ウイルスであるネコパルボウイルス(FPV)は、リンパ系組織を破壊することによりネコに急性で致死率の高い汎白血球減少症を引き起こす。一方、HIVと同じレトロウイルス科に分類されるネコ免疫不全ウイルス(FIV)は、同じくリンパ系細胞をそのターゲットとするが、長期にわたる潜伏持続感染ののちネコにAIDS様症状を引き起こすことが知られている。これとは対照的に、FIVと同様にレトロウイルス科に分類されるリンパ球好性ウイルスのネコスプーマウイルス(FeFV)は、一般に生涯ネコに不顕性に持続感染するとみなされており、現在、最も有望なレトロウイルスベクターとして注目を浴びている。筆者は、これら3種のそれぞれ異なった性状を持つリンパ球好性ウイルスの、リンパ系細胞における感染・増殖性状の解析を行った。本研究は、リンパ球好性ウイルスのリンパ系細胞における動態を理解する上で大いに貢献するものと考えられる。本論文は、以下の7章より構成されている。

第1章:FeFVはリンパ系細胞に感染し、感染細胞にプログラム細胞死(アポトーシス)を誘導する

 一般的にFeFVは病原性を持たないとみなされているが、健常ネコ群よりも疾病ネコ群においてFeFV抗体保有率が有意に高いとの報告も知られている。そこで、免疫の中心的役割を担うリンパ系細胞におけるFeFVの感染性を検討した。まず、FeFV感染ネコの末梢血リンパ球(PBMC)から100%の確率でFeFVが分離できることを示し、in vivoにおいてFeFVがリンパ球に持続感染していることを確認した。次に、FeFVが、リンパ系株化細胞において感染増殖可能なこと、また、感染細胞中に観察される多核巨細胞にアポトーシスが誘導されることを示した。

第2章:ネコパルボウイルス(FPV)感染とアポトーシスの誘導

 ネコのPBMCに対するFPVの感染性を検討した結果、FPVがネコのPBMC中で活発に増殖し顕著な細胞変性効果(CPE)を示すことが明らかとなった。さらに、このCPE発現のメカニズムを検討したところ、感染細胞中に見られる急速な細胞死がアポトーシスによるものであること、また、FPV感染PBMCでは細胞表面IL-2レセプター発現レベルが低下することなどが確認された。これらの結果は、リンパ球のIL-2シグナル伝達系の障害が急速なアポトーシス誘導の引き金になる可能性を示唆するものと考えられる。

第3章:ネコのリンパ系細胞を用いた、新しい FPVの定量系と、抗FPV抗体定量系の確立

 これまで、FPVの力価測定や中和試験には主にネコ腎由来株化細胞(CRFK細胞)が使用されていたが、CRFK細胞はFPV感染後もCPEを示さないないことが多く、赤血球凝集試験、蛍光抗体法、ギムザ染色などを併用することによりウイルス感染を検出しなければならなかった。第2章でFPVがネコのリンパ系細胞に感染して急速にアポトーシスを誘導することを見出したことから、FPVに対し最も高い感受性を示したネコリンパ系株化細胞(FL74細胞)を用いた、新たなFPVの力価測定、中和抗体価測定の系を確立した。この系を用いることにより、FPVの感染をCPEのみで判定できるようになり、実験にかかる日数と手間が大幅に削減できることが示された。

第4章:FIVはヒトのリンパ系株化細胞(MOLT-4細胞)に感染できるが感染細胞は潜伏持続感染状態を維持する

 日本分離株であるFIV TM2株とアメリカ分離株であるPetaluma株では、感染できる細胞の種類に違いがあることが既に報告されていた。そこで、TM2とPetaluma株、両ウイルスのgag,pol,vif,ORF-A領域を相互に組み換えたキメラウイルスを用いて、キメラウイルスと親ウイルスの増殖性を、ネコとヒトのリンパ系株化細胞において比較した。その結果、Petaluma株のenvを持つウイルスだけがFL74細胞とMOLT-4細胞に感染してプロウイルスを形成することが示された。また、FL74細胞に感染したPetaluma株は通常の増殖形態を示したのに対し、Petaluma株感染MOLT-4細胞からは感染性ウイルス粒子は放出されなかった。さらに、Petaluma株感染MOLT-4細胞ではFIVのmRNAが検出限界以下であること、CキナーゼのinducerであるTPA処理によりFIV mRNAの転写が開始され感染性粒子が放出されることが明らかになり、FIVのMOLT-4細胞における潜伏感染にはウイルスの転写が重要な役割を担う可能性が示唆された。

第5章:細胞ゲノム中に組み込まれたFIVプロモーターの機能解析

 第4章で、FIVの潜伏感染における転写の重要性が示唆されたことから、細胞ゲノム中に組み込まれたFIVプロモーターの機能解析を行った。ゲノム中にFIVのプロモーターとリポーター遺伝子が安定に組み込まれた株化細胞を作製し、ゲノムに組み込まれたFIVプロモーターの活性化を検討した。その結果、CキナーゼとAキナーゼの活性化処理、脱メチル化処理、ネコヘルペスウイルス1型(FHV-1)感染処理により、組み込まれたプロモーター活性の上昇が確認された。

第6章:FIVプロモーター中のエンハンサー領域に対する転写因子結合に薬剤処理とウイルス感染が与える影響の検討

 FIVのLTRがCキナーゼの活性化、Aキナーゼの活性化、FHV-1感染処理により活性化される際に、FIVのAP-1とATF様配列に結合する核蛋白の変化をゲルシフトアッセイにて検討した。この結果、CキナーゼとAキナーゼの活性化処理では両配列に結合する転写因子の量がやや増加するのに対し、FHV-1感染処理ではそれぞれの部位に新たに誘導された大量の蛋白が結合することが示された。また、核蛋白の結合パターンはAP-1とATF配列で類似することが示された。

第7章:FIVのプロモーター中に存在するAP-1,ATF様配列に対する転写因子結合パターンの検討

 第6章で、FIVのAP-1とATF様配列に結合する核蛋白の類似性が示唆されたことから、両配列に対する転写因子の結合性を検討した。その結果、比率に違いはあるものの、どちらの配列にもAP-1とATF関連蛋白の両方が結合していることが示された。また、FIVのLTRよりAP-1、ATF配列のいずれかを欠損させると、プロモーター活性が正常なLTRの約半分に低下するのに対し、両方の配列を欠損させたプロモーターでは正常の約3%まで活性が低下した。これらのことから、FIV LTRのAP-1とATF様配列は互いに相補的な役割を演じている可能性が示唆された。

 以上のことから、まず、FeFVは高率にPBMCより分離されるにも関わらずリンパ系細胞における増殖が極めて遅いこと、また、FPVはリンパ系細胞中で急速に増殖し細胞死を誘導することが明らかとなった。これらの結果は、両ウイルスのネコにおける病原性をよく反映しているように思われる。さらに、リンパ系細胞におけるアポトーシス誘導はHIVやFIV、麻疹ウイルス感染においても重要な現象として注目されているが、異なった病原性を持つFeFVとFPVにおいてもアポトーシス誘導が見られたことから、ウイルス感染リンパ球におけるアポトーシス誘導はウイルス感染の拡大を阻止するための宿主側の戦略である可能性も示唆される。また、FPV感染リンパ球で観察された細胞表面IL-2レセプター発現レベルの低下は、HIVとFIV感染リンパ球でも報告されており、これら3種のウイルスによるアポトーシスの誘導がIL-2シグナル伝達系の障害という共通した機序によるものである可能性を示す結果として興味深い。さらに、FIVのリンパ系細胞に対する感染性において、吸着・侵入段階とウイルス転写段階という2つの過程が決定的な役割を担うことが示唆されたが、この結果はFIVの宿主域とレセプター研究に新たな知見を与えたばかりでなく、FIVの潜伏持続感染からの再活性化に転写が重要な役割を担う可能性を示すものであった。また、FIVのプロモーターを詳細に解析した結果、FIVの転写がさまざまな機序により調節されていること、FIVプロモーター内の転写因子結合部位であるAP-1とATF様配列は相補的に働きうることなど、これまでに知られていなかったいくつかの新しい知見が明らかとなった。これらのデータは、FIVを含むレトロウイルスの転写の解析ならびに潜伏感染からの再活性化機序の研究に役立つものと考えられる。

 本研究により、FeFV,FPV,FIVというネコの代表的なリンパ球好性ウイルスのリンパ系細胞における分子生物学的研究の基礎は確立されたものと考えられ、今後、それぞれのウイルス研究の更なる発展が期待される。

審査要旨

 獣医領域における代表的なリンパ球好性ウイルスであるネコパルボウイルス(FPV)は、リンパ系組織を破壊することにより急性で致死率の高い汎白血球減少症を引き起こす。一方、ネコ免疫不全ウイルス(FIV)は、同じくリンパ系細胞をそのターゲットとするが、長期にわたる潜伏持続感染ののちにAIDS様症状を引き起こすことが知られている。これとは対照的に、FIVと同様にレトロウイルス科に分類されるネコスプーマウイルス(FeFV)は、一般にネコに生涯、不顕性に持続感染するとみなされている。本研究は、これら3種のそれぞれ異なった性状を持つリンパ球好性ウイルスの、リンパ系細胞における感染・増殖性状の解析を行ったもので、論文は以下の7章より構成されている。

 第1章では、リンパ系細胞におけるFeFVの感染性を検討し、FeFVが、in vivoにおいてリンパ球に持続感染していること、in vitroにおいてリンパ系株化細胞に増殖可能なこと、また、感染細胞中に観察される多核巨細胞にアポトーシスを誘導することを示した。

 第2章では、ネコのリンパ系細胞に対するFPVの感染性を検討し、FPVがネコのリンパ球中で活発に増殖しアポトーシスを誘導すること、また、FPV感染リンパ球では細胞表面IL-2レセプター発現レベルが低下することなどを示した。第3章ではFPVのリンパ系細胞に対するアポトーシス誘導能を利用した、新しいFPVの定量系と抗FPV抗体定量系を確立した。

 第4章では、FIVのリンパ系細胞に対する感染性を検討し、FIVのリンパ系細胞に対する感染性をenv遺伝子が決定すること、FIVの潜伏感染においてウイルスの転写が重要な役割を担う可能性を示した。

 FIVの転写をさらに詳しく検討するため、以下の5、6、7章において、FIVプロモーターの詳細な機能解析と転写因子結合性の検討を行った。その結果、細胞ゲノム中に組み込まれたFIVプロモーターが様々な機序により活性化されること、CキナーゼとAキナーゼの活性化処理とFHV-1感染処理によりFIVのAP-1とATF様配列に結合する核蛋白が影響を受けること、FIVプロモーター内に存在するAP-1、ATF様配列が互いに相補的に働きうることなどが示された。

 これらの研究から、まず、FeFVは高率にPBMCより分離されるにも関わらずリンパ系細胞における増殖が極めて遅いこと、これに対し、FPVはリンパ系細胞中で急速に増殖し細胞死を誘導することが明らかとなった。これらの結果は、両ウイルスのネコにおける病原性をよく反映しているように思われる。また、異なった病原性を持つFeFVとFPVにおいてもアポトーシス誘導が見られたことから、ウイルス感染リンパ球におけるアポトーシス誘導はウイルス感染の拡大を阻止するための宿主側の戦略である可能性が示唆される。さらに、FIVのリンパ系細胞に対する感染性において、吸着・侵入段階とウイルス転写段階という2つの過程が決定的な役割を担うことが示唆されたが、この結果はFIVの宿主域とレセプター研究に新たな知見を与えるばかりでなく、FIVの潜伏持続感染からの再活性化に転写が重要な役割を担う可能性を示すものである。また、FIVのプロモーターを詳細に解析した結果、これまでに知られていなかったいくつかの新しい知見が明らかとなったが、これらの結果は、FIVを含むレトロウイルスの転写の解析ならびに潜伏感染からの再活性化機序の研究に役立つものと考えられる。

 以上、本研究はFeFV,FPV,FIVというネコの代表的なリンパ球好性ウイルスのリンパ系細胞における感染・増殖性状を分子生物学的に解析したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の論文として価値あるものと認めた。

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