学位論文要旨



No 114476
著者(漢字) 和田,郁雄
著者(英字)
著者(カナ) ワダ,イクオ
標題(和) トロトラスト被注入症例におけるアルファ線被曝によるヒト肝悪性腫瘍発生の病理学的検討
標題(洋)
報告番号 114476
報告番号 甲14476
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1396号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,紀夫
 東京大学 教授 森,茂郎
 東京大学 助教授 小田,秀明
 東京大学 助教授 丸,義朗
 東京大学 講師 大西,真
内容要旨

 Thorotrastは血管造影剤として用いられた二酸化トリウムの25%コロイド溶液で、1930年頃より1950年頃まで使用された。注入されたThorotrast粒子は網内系細胞に選択的に貪食され、肝臓、脾臓等に沈着する。体外に排泄されにくく、生物学的半減期は200-400年、主成分であるトリウム(232Th)の物理学的半減期は1.39x100年と長いため、被投与者は生涯にわたりトリウムとその娘核種が放出する線に曝露され続けることになる。人体に血管内投与されたThorotrast量は少量であるため、大量被曝による急性障害ではなく、悪性腫瘍発生をはじめとする晩発障害が問題となった。

 線などの高LET線照射の人体への影響についての報告は少ない。しかし、宇宙時代を迎えて、宇宙飛行では高LET線照射による被曝が増加すると考えられている。その人体に対する影響の基礎的研究は重要であるし、晩発障害としての発癌はその発生機序の点からも関心が持たれる。そこで持続的な線被曝によると考えられるThorotrast被注入者の肝腫瘍について、剖検例を用いて検討した。

 本研究は、1.Thorotrast被注入剖検例の肝腫瘍および肝非腫瘍部について組織学的に再検討をおこない、腫瘍組織型とThorotrast注入量、注入後腫瘍発生までの期間、非腫瘍部におけるThorotrastの沈着量及び線維化との関連を明らかにした。2.種々の腫瘍で発癌との関連が指摘されている癌遺伝子ras及び癌抑制遺伝子p53を免疫組織化学的に検索し、さらに、DNAを抽出してp53、RB、M6P/IGF2R(mannnose6phosphate/insulin like growth factor2receptor)のloss of heterozygosity(LOH)の頻度、およびp53の遺伝子変化を調べた。3.Thorotrast関連肝細胞癌の前癌病変は不明であったが、今回の検討でThorotrast関連肝細胞癌の1剖検例に病理組織学的に異型を伴う胆管増生巣の合併を認めたので、この部分が前癌病変である可能性も検討した。

対象と方法

 剖検症例の病理組織学的検索としては、全国より収集したThorotrast被注入者の剖検例肝プレパラート標本144例を対象とし、腫瘍組織型とThorotrastの注入量及び注入後腫瘍発生までの期間との関係を統計学的に検索した。また、腫瘍近傍の肝非腫瘍部における門脈域へのThorotrastの沈着の程度を3段階(D1-3)、肝線維化の程度を4段階(F1-4)に評価し、腫瘍組織型とThorotrastの沈着度及び線維化度との関係についても統計学的検索を行なった。次に、Thorotrast被注入者の肝非腫瘍部の性格を明らかにするために、血管内皮細胞のマーカーであるFactor VIIIおよびCD34、Kupffer細胞のマーカーであるCD68を免疫組織化学的に染色し、検討を行った。染色にはHistofine SAB kit(Nichirei)を用い、酵素抗体法(SAB法:Streptavidin-biotin-peroxidase complex method)にて染色した。腫瘍関連遺伝子の検索には、入手できた剖検例のホルマリン固定パラフィンブロックのうち、B型及びC型肝炎ウイルスの関与が組織学的及び免疫組織化学的に否定された肝細胞癌11例、胆管細胞癌5例、血管肉腫3例の計19例を用いた。まず、腫瘍化と関連があるとされるrasおよびp53の変化について免疫組織化学的に検索し、次に、分子生物学的検索として各標本よりDNAを抽出し、p53、RB、M6P/IGF2Rの各遺伝子についてLOHを検索した。さらに、p53遺伝子については変異頻度の高いとされるexon5,6,7,8についてsingle strand conformation polymorphism(SSCP)およびsequencingを行い、遺伝子変異を検索した。病理組織学的に異型を伴う胆管増生巣の合併を認めた肝細胞癌の剖検例に関しては、肝腫瘍、非腫瘍部の肝組織及び増生した異型胆管組織、Thorotrastの沈着量の多いとされる脾、骨髄、少ないとされる胃、膵臓からDNAを抽出し、p53遺伝子のLOHおよびexon5,6,7,8の遺伝子変異を検索した。

結果

 症例は144例で全例日本人、悪性腫瘍は肝細胞癌21例、胆管細胞癌37例、血管肉腫30例であった。注入されたThorotrastは主として肝被膜下や門脈域に沈着しており、Kupffer細胞ないし組織球に貪食されていた。腫瘍組織像はThorotrastに関連しない腫瘍と同様であった。非腫瘍部の組織像では、門脈域だけでなく類洞壁に強い線維化が認められ、肝細胞は再生像を示さず、再生結節の形成に乏しかった。注入されたThorotrast量については、腫瘍組織型に有意差は認められなかった。一方、注入後腫瘍発生までの期間については、肝細胞癌は他の3群よりも注入から腫瘍発生までの期間が長いことが示された。また、非腫瘍部のThorotrast沈着度については有意差は認められなかったが、線維化度については肝細胞癌は他の3群よりも線維化の高度な肝に発生することが明らかになった。

 Thorotrast関連肝腫瘍におけるras及びp53の免疫組織化学染色の陽性率はそれぞれ全体で2/19(10.5%)および4/19(21.1%)と低率であった。Factor VIII及びCD34と、CD68の免疫組織化学的検索では、線維化の強い部分では類洞内皮細胞はFactor VIII及びCD34に陽性(正常の類洞内皮細胞では陰性を示す)で、CD68陽性細胞は減少する傾向が認められた。

 腫瘍全体でLOHの頻度はp53 4/15(26.7%),RB 1/11(9.1%),M6P/IGF2R0/10(0.0%)と低率であった。p53遺伝子のexon5,6,7,8における変異の検索では、8例(42.1%)において遺伝子変異が認められた。腫瘍組織型別にみると、肝細胞癌では7/11(63.6%)、胆管細胞癌では1/5(20.0%)、血管肉腫では0/3(0.0%)という結果で、肝細胞癌に高頻度に認められた。遺伝子変異はLOHの認められない症例でも4例に認められた。intron部も含めた変位のスペクトラムは、transitionが7箇所(1症例は2箇所に存在)、transversionが2箇所、deletionが2箇所で、transitionが多い傾向にあった。異型胆管増生巣の合併する肝細胞癌の剖検例に関しては、肝腫瘍部及び胆管増生部にp53遺伝子(17p13)のLOHを認めた。腫瘍部ではexon5codon166に点突然変異(TCA→TAA)が認められたが、胆管増生部では変異は認められなかった。一方、肝非腫瘍部及びその他の臓器ではLOHや変異は認められなかった。

考察

 Thorotrast被注入者の肝細胞癌は、血管肉腫、胆管細胞癌及び非腫瘍例に比べ、注入後期間が長く、線維化の高度な例に多い傾向が認められた。このことから、Thorotrast被注入者における肝細胞癌の発生には、肝組織に沈着したThorotrastから発生する線による肝細胞への直接障害の他に、肝線維化が関与していることが示唆された。線維化の強い部分ではKupffer細胞の数が減少する傾向が認められたこととあわせて、網内系機能の低下が腫瘍発生の一因であり得ると考えられた。

 免疫組織化学的および分子生物学的検討からは、Thorotrastから発せられる線による腫瘍発生機序において、ras、RBおよびM6P/IGF2R遺伝子の変化の関与は大きくないことが示された。一方、p53遺伝子については比較的高頻度に遺伝子変異が認められ、その多くはdeletionではなく1塩基のtransitionであった。このことから、Thorotrast関連肝腫瘍に認められるp53遺伝子変異は、線のDNAへの直接障害によるものではなく、亢進した細胞の再生過程で生じた非特異的なものである可能性が示唆された。

 Thorotrastによる線維化は、肝実質の類洞壁に強く認められ、小葉内の肝細胞は萎縮傾向にあり、再生像に乏しく再生結節の形成があまり認められない。このため、肝硬変症に生じる肝細胞癌において前癌病変と考えられている巨大再生結節や腺腫様過形成の像は認められない。このため、Thorotrastによる肝細胞癌の前癌病変は不明であった。今回の検討でThorotrast関連肝細胞癌の1剖検例に病理組織学的に異型を伴う胆管増生巣の合併を認めた。この胆管増生巣にp53遺伝子のLOHが認められることから、この部分が単クローン性に増生していることが示され、前癌病変である可能性が示唆された。

審査要旨

 本研究は、持続的な線被曝によると考えられるThorotrast被注入者の肝腫瘍について、病理形態学的および分子生物学的に検討したものであり、下記の結果を得た。

 1.Thorotrast被注入者144例(肝細胞癌21例、胆管細胞癌37例、血管肉腫30例)の肝臓の病理組織標本を全国より収集し形態学的に検討した結果、Thorotrastが注入された肝臓では、肝実質の類洞壁に線維化が生じ、小葉内の肝細胞は萎縮して再生結節の形成に乏しかった。特に肝細胞癌は、血管肉腫、胆管細胞癌及び非腫瘍例に比べ、線維化の高度な例に多い傾向が認められた。線維化の強い部分ではKupffer細胞の減少が認められた。

 2.剖検例19例のホルマリン固定パラフィン包埋ブロックを用いた免疫組織化学的および分子生物学的検討において、ras遺伝子の活性化、及び、RB、M6P/IGF2R遺伝子のLoss of heterozygosity(LOH)は低頻度であった。一方、p53遺伝子変異は19例中8例(42.1%)と比較的高頻度に認められた。但し、その多くは実験的に線障害に多いとされているdeletionではなく、1塩基のtransitionであった。このことから、Thorotrast関連肝腫瘍に認められるp53遺伝子変異は、線のDNAへの直接障害によるものではなく、亢進した細胞の再生過程で生じた非特異的なものである可能性が示唆された。

 3.Thorotrast被注入肝に生じる線維症では、肝細胞癌において前癌病変と考えられている巨大再生結節や腺腫様過形成の像は認められなかった。このため、Thorotrastによる肝細胞癌の前癌病変は不明であった。今回、Thorotrast関連肝細胞癌の1剖検例に病理組織学的に異型を伴う胆管増生巣の合併を認めた。この胆管増生巣にp53遺伝子のLOHが認められることから、この部分が単クローン性に増生していることが示され、前癌病変である可能性が示唆された。

 本研究は、ヒトThorotrast関連肝腫瘍症例において、注入されたThorotrastからの線の被曝による肝腫瘍発生が、線直接傷害による癌関連遺伝子のLOHや変異のDNA直接障害ではなく、細胞組織傷害後亢進した再生過程において生じたDNA傷害によるものである可能性を示し、さらに、肝細胞癌が再生結節を経ないで生じる可能性を示した。ヒトに対する線障害の解明、及び、肝細胞癌発生機序の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54711