学位論文要旨



No 114489
著者(漢字) 杉本,智恵
著者(英字)
著者(カナ) スギモト,チエ
標題(和) JCウイルスによる人類移動の解析
標題(洋)
報告番号 114489
報告番号 甲14489
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1409号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 助教授 大海,忍
 東京大学 助教授 菅野,純夫
 東京大学 助教授 正井,久雄
内容要旨 1.はじめに

 JCウイルス(JCV)は1971年Padgettらによって、進行性多巣性白質脳症(PML)患者の脳からはじめて分離された。PMLは免疫機能の低下した患者にまれに起きる疾患であるが、近年AIDS患者の増加に伴い発症例が増えている。他方、JCVはヒト集団に広く浸淫しているウイルスでもある。JCVの初感染は幼児期に起き、無症候性である。初感染の後、JCVは腎に寄生する。ほとんどの成人は仔ウイルスを尿中に排出するので、JCV DNAはPCRにより容易に分離できる。

 JCVの伝播の特徴は、水平感染にも関わらず、主に親から子へ伝播することである。また、異なるヒト集団間ではJCVはほとんど伝播しないことも知られている。これらのことから、JCVは日常的に密接な接触のある限られた集団(通常は家族)の中で伝播することが明らかである。

 これまでに旧世界(ヨーロッパ、アフリカ、アジア)の各地のJCV DNAが制限酵素を用いて解析され、JCV DNAが3つの型(A、B、C)に分類されることが明らかにされた。そして、それぞれの型は特徴的な地理的分布を示すことが発見された。すなわち、Aはヨーロッパ、Bはアジアとアフリカ、Cはアフリカの一部に分布した。このことからJCVゲノム型とヒト集団と間には密接な関連があることが示唆された。

 本研究では先ず、旧世界各地で採取された尿から得たJCV DNAを分子系統解析することによって、旧世界のJCV DNAをゲノム型に分類し、各ゲノム型の地理的分布を詳細に明らかにすることを目的とした。次ぎに、この結果を様々な民族の起源を探る上でのカタログとし、その例として中南米先住民と東シベリア先住民の起源を推定することを試みた。

2.旧世界におけるJCVゲノム型の分類とその分布

 旧世界(ヨーロッパ、アフリカ、アジア)の34カ国、42地域で尿を採取した。遠心分画した尿からウイルス粒子を回収し、ウイルスDNAを抽出した。これを鋳型として、610塩基対のVT遺伝子間領域(IG領域と略す。この領域が最も塩基置換が多い)を増幅した。得られた増幅断片をpUC19にクローニングして、オートシークエンサーによって塩基配列を決定した。これらの塩基配列から近隣結合法により分子系統樹を作成した。

 分子系統樹から、旧世界のJCVは12のゲノム型に分類できた。これらのゲノム型の旧世界における分布域を図1に示した。各ゲノム型の分布域を要約する。EU(ヨーロッパ全域、北アフリカ、西アジア)、Af1(西アフリカの一部)、Af2(アフリカ全域、中東、インド北部)、Af3(中央アフリカ)、B1-a(中国、フィリピン)、B1-b(西アジア、中央アジア)、B1-c(ヨーロッパ)、B1-d(中東)、B2(インド、モーリシャス)、SC(東南アジア、中国南部)、CY(北東アジア)、MY(日本、韓国)。

 6つのゲノム型(EU,Af2,B1-a,B1-b,SC,CY)は広域に分布していた。残り6つのゲノム型(Af1,Af3,MY,B1-c,B1-d,B2)は比較的狭い分布域を有し、広大な他のゲノム型の分布域の中に存在した。

 JCVゲノム型の分布域はそれぞれ特徴的であったことから、地球上の様々なヒト集団がそれぞれ固有のJCVゲノム型を持つことが示唆された。また、JCVゲノム型の分布パターンは、アフリカで誕生した人類のその後の分化および移動と一致した。JCVゲノム型ほどきれいにヒト集団との関連が示された遺伝マーカーは知られていない。以上から、JCVゲノム型解析により、ヒト集団の移動の軌跡をたどることが可能であることがわかった。

 JCVゲノム型解析のもうひとつの利点は、主要なゲノム型の分布域の中に少数ゲノム型を検出できることである。このようにヒト集団の祖先のわずかな痕跡も見つけだすことができる。

3.JCVから見た先住民の起源3-1.中南米先住民

 これまでの様々な人類学的、考古学的研究から、アメリカ先住民の祖先は1.5〜3万年前にベリンジアを渡ってきたモンゴロイドであると考えられている。しかしアメリカ先住民が現存するモンゴロイド集団のうちのどの集団に一番近いかに関しては諸説がある。

 グアテマラ(3地域)とペルー(2地域)において、各地域約50人の先住民から尿を採取し、IG領域を増幅した。得られたIG領域の塩基配列と旧世界の塩基配列から、近隣結合法により分子系統樹を作成した。

 グアテマラとペルーの先住民が保有するJCVはMYに属することが明らかになった。MYは旧世界では主として日本と韓国に分布するゲノム型である。また、系統樹解析からMYはさらに3系統(MY-a、MY-b、MY-c)に分かれることが見いだされた。MY-aは主に日本と韓国の株、MY-bは主にグアテマラの株、MY-cは主にペルーの株を含んでいた。

 本研究の結果から、中南米先住民は日本人・韓国人と近縁のモンゴロイドであることが示唆された。1〜3万年前にベリンジアで広く活動していたモンゴロイド集団のひとつがMYを保有していたと推定される。現在のMYの地理的な分布はこの集団のその後の移動を示していると考えられる。

3-2.東シベリア先住民

 シベリアには多数の先住民族が入り組んで分布しており、その起源は必ずしも明確にはされていない。また、シベリア先住民はシベリアの人口の90%以上を占めるヨーロッパ系移民との混血も進んでいる。このような集団からも、JCVゲノム型解析では先住民固有のゲノム型を見つけだすことが期待できる。

 ヤクーツクのヤクート族、アムール川流域のナーナイ族およびコリマ川流域の複数集団から尿を採取した。また、対照としてハバロフスクのスラブ系住民からも尿を採取した。得られたIG領域の塩基配列と旧世界の塩基配列から、近隣結合法により分子系統樹を作成した。

 (1)ヤクート族の主要なゲノム型はB1-bであった。B1-bは西アジアと中央アジアに存在するゲノム型である。(2)ナーナイ族とコリマ川流域先住民の主要なゲノム型はEUであった。EUは主にヨーロッパに存在する。しかし、シベリアのEUの多くは系統樹の上でヨーロッパのものとは異なる独自のクラスター(EU-a)を形成した。(3)ハバロフスクのスラブ系住民の主要なゲノム型はEUで、これはヨーロッパのEUと同じクラスターに分類された。

 以上のことから、ヤクート族の祖先は西アジア・中央アジア系の集団であることが示唆された。これはヤクート族の人類学的な分類と一致する。一方、ナーナイ族とコリマ川流域先住民の祖先集団の一部がコーカソイド系であることが示唆された。これは従来の人類学的な研究では得られなかった新しい知見である。

4.まとめ

 JCVゲノム型の世界的な分布は人類の分化および移動とよく対応していた。このことから、JCVゲノム型はヒト集団の移動・拡散の軌跡をたどる上で、現在のところ最も信頼できる指標であることが明らかになった。また、JCVゲノム型解析により、ヒト集団の祖先のわずかな痕跡も検出できることもわかった。中南米先住民や東シベリア先住民を例にとり、JCVゲノム型解析が集団の成り立ちや移動経路の解明に有効であることを示した。

図1.旧世界における12のJCVゲノム型の地理的分布尿の採取地点とJCVゲノム型の分布域を示す。●は尿を採取した地点を示し、同じゲノム型が検出された地点を線で囲んだ。これを分布域と呼ぶ。
審査要旨

 本研究は第一に、分子系統解析法を用いて旧世界(ヨーロッパ、アフリカ、アジア)のJCウイルス(JCV)ゲノム型の地理的分布を詳細に検討した。第二に、旧世界での結果を様々な民族の起源を探る上でのカタログとし、中南米先住民と東シベリア先住民の起源を推定することを試みた。その結果、下記の結果を得ている。

 1.旧世界の34カ国、42地域で採取した尿から得たウイルスDNAを鋳型として610塩基対のVT遺伝子間領域(IG領域)を増幅し、塩基配列を決定した。これらの塩基配列から近隣結合法により分子系統樹を作成した結果、旧世界のJCVは12のゲノム型に分類できた。それぞれのJCVゲノム型は特徴的な分布域を持っていた。例えば、ヨーロッパ全域、北アフリカおよび西アジアにはEUが分布し、アフリカ全域と中東からインドまでの一帯にはAf2が分布した。東アジアではいくつかのゲノム型が互いに重なり合って分布した。これらの結果から、JCVゲノム型の分布はヒト集団の分布とよく対応していることが示された。以上によって、JCVゲノム型がヒト集団の移動の軌跡をたどる新規なマーカとなることが明らかになった。

 2.グアテマラとペルーの先住民から尿を採取し、IG領域を増幅した。得られたIG領域の塩基配列と旧世界の塩基配列から、近隣結合法により分子系統樹を作成した。その結果、グアテマラとペルーの先住民が保有するJCVは、主として日本と韓国に分布するゲノム型MYであった。また、系統樹解析からMYはさらに3系統(MY-a、MY-b、MY-c)に分かれることが見いだされた。MY-aは主に日本と韓国の株、MY-bは主にグアテマラの株、MY-cは主にペルーの株を含んでいた。以上の結果から、中南米先住民は日本人・韓国人と近縁のモンゴロイドであることが示唆された。1〜3万年前にベリンジアで広く活動していたモンゴロイド集団のひとつがMYを保有していたと推定され、現在のMYの地理的な分布はこの集団のその後の移動を示していると考えられた。

 3.ヤクーツクのヤクート族、アムール川流域のナーナイ族およびコリマ川流域の先住民から尿を採取した。また、対照としてハバロフスクのスラブ系住民からも尿を採取した。得られたIG領域の塩基配列と旧世界の塩基配列から、近隣結合法により分子系統樹を作成した。その結果、(1)ヤクート族の主要なゲノム型は西アジアと中央アジアに存在するゲノム型、B1-bであった。(2)ナーナイ族とコリマ川流域先住民の主要なJCVは主にヨーロッパに存在するゲノム型、EUに分類された。しかし、その多くは系統樹の上でヨーロッパのクラスターとは異なる独自のクラスター(EU-a)を形成した。(3)ハバロフスクのスラブ系住民の主要なゲノム型(EU)はヨーロッパのEUと同じクラスターに分類された。以上のことから、ヤクート族の祖先は西アジア・中央アジア系の集団であること、ナーナイ族とコリマ川流域先住民の祖先集団の一部がコーカソイド系であることが示唆され、従来の人類学的な研究では得られなかった新しい知見が得られた。

 以上、本論文はJCVゲノム型はヒト集団の移動・拡散の軌跡をたどる上で、現在のところ最も信頼できる指標であることを示した。さらに、中南米先住民や東シベリア先住民を例にとり、JCVゲノム型解析が集団の成り立ちや移動経路の解明に有効であることを示した。本研究はヒト集団の起源や人類の移動を解明する上で重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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