学位論文要旨



No 114499
著者(漢字) 多湖,正夫
著者(英字)
著者(カナ) タゴ,マサオ
標題(和) 放射線肺障害に対するアルガトロバンの有用性についての病理組織学的検討
標題(洋)
報告番号 114499
報告番号 甲14499
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1419号
研究科 医学系研究科
専攻 生体物理医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,紀夫
 東京大学 教授 川名,尚
 東京大学 教授 神谷,瞭
 東京大学 助教授 吉川,宏起
 東京大学 講師 小野木,雄三
内容要旨 研究の背景

 放射線治療のdose limiting factorは,腫瘍組織周囲に存在する正常組織の晩期障害であるが,これを解決する方法として,空間的線量分布の改善および腫瘍組織と正常組織の放射線に対する感受性の差を広げることが考えられ,薬剤の面から見れば放射線増感剤と放射線防護剤があげられる.これらに対する研究は半世紀の歴史を持ち,防護剤についてもSH(水硫基)化合物であるcysteineの発見に始まり精力的に調べられたが,いまだ臨床で広く利用されている薬剤はみられず,今後は基礎面より臨床的結果を得られる研究が重要と考えられる.

 一方,多くの国で肺癌による死亡は増加しておりわが国も例外ではない.肺癌は依然として治療困難な疾患であるが,今後は放射線治療の役割がますます重要になっていくと予想されている.胸部へ照射する場合のdose limiting factorは放射線肺障害であり,これまでその機序や治療,予防に関する多くの研究が行われてきた.機序については,最近ではサイトカインや接着分子レベルで議論されており,確実に解明されつつあるが,実際の治療は相変わらず貧弱で,早期障害である放射線肺炎に対しては副腎皮質ステロイドが有用であるものの,不可逆性でときには致命的となる晩期障害である放射線肺線維症の治療法は存在しないと言える.もちろん,これまで薬剤による放射線肺障害の治療,予防に関する研究も多く,ここ40年ほどで30種類以上のさまざまな薬剤が試され,トリヨードサイロニン,デキストラン硫酸,D-ペニシラミン,WR-2721,ペントキシフィリンなど動物実験において放射線肺線維症を抑制したものもいくつかあるが,副作用などの問題から臨床的に使用可能な薬剤は存在しないのが現状で,今後の肺癌治療における放射線治療の重要性を考えた場合,このような薬剤を発見することは急務といっても過言ではない.

研究の目的

 これまでの多くの報告から,放射線肺障害の機序において,血管内皮細胞が密接に関与していることは明らかであり,その局所において血液凝固カスケードが活性化され,放射線肺障害に対して凝固系が一定の役割を持っているであろうことは容易に予想できる.トロンビンは凝固系での中心的役割以外にも多彩な生理活性を有しており,線維芽細胞に対する増殖促進活性や遊走促進活性も持ち,またブレオマイシン肺線維症動物モデルあるいは肺線維症を合併する全身性硬化症患者における,気管支肺胞洗浄液(以下BALF)中のトロンビン活性および肺線維芽細胞増殖促進活性(以下LFGA)の上昇が報告されている.さらに,in vitro,in vivoのいずれにおいても選択的抗トロンビン剤であるアルガトロバンによるLFGAの抑制が示されている.これらの事実より,放射線肺線維症においても,トロンビンが関与した機序が存在する可能性が高いと考え,アルガトロバン(他疾患に対してはすでに臨床応用されている)の放射線肺障害に対する防護剤としての有用性についておもに病理組織学的に検討した.

 なお,本実験の前段階として,放射線肺障害の評価方法にCT値,CT所見,病理組織学的所見,組織中コラーゲン量などを用いた予備実験を2度行った.詳細は省略するが,いずれにおいてもアルガトロバンによる有意な抑制効果は認められなかった.しかし,CT値,CT所見,組織中コラーゲン量による評価は困難であるものの,病理組織学的にはアルガトロバンが放射線肺線維症抑制効果を持っていることが期待でき,実験方法の問題により良好な結果が得られなかったと考え,以下のような方法による本実験を行った.

実験方法

 実験に用いた動物は,Wister系ラット雄40匹で,生後52〜54日,体重は187〜217g(平均203.7g)であった.ペントバルビタール45mg/kgにて腹腔内麻酔後,仰臥位に固定し,15MeV電子線を用いて,4×3cmの照射野で右肺全体に17Gyを一回で照射した.ラットはコントロール群20匹とアルガトロバン群20匹の2群にわけた.アルガトロバン群では,毎回10mg/kgのアルガトロバン溶解液(約pH2)を皮下投与し,コントロール群では相当量の塩酸溶液(約pH2)を投与した.薬剤投与は,照射日から4週間にわたって,1日2回行なった.なお,最初の投与は照射直前に行った.134日後すべてのラットを屠殺し,染色法として,ヘマトキシリン・エオジンおよびアザン・マロリーを用いて組織標本を作成した.組織学的観察項目は,線維化,泡沫マクロファージ浸潤,色素貪食細胞浸潤,白血球浸潤,浮腫,気管支肺胞上皮の肥厚,鬱血の7項目とし,所見なし,軽度,中等度,重度の4段階に分類した.両群の有意差検定には,Armitage 2検定を用いた.また,アザン・マロリー染色では膠原線維が特異的に青染されることより,組織標本を顕微鏡下に撮影した写真をコンピューター処理し,青染部分の組織標本全体に対する面積比率(線維組織占有率)を算出した.こちらにおける両群間の有意差検定には,Welch t検定を用いた.

結果

 照射日を含めた135日間の経過観察中に,コントロール群2匹が死亡したが,アルガトロバン群では死亡したラットはみられなかった.したがって計38匹を評価の対象とした.組織学的所見上,線維化に関しては,コントロール群で,軽度5匹,中等度10匹,重度3匹であったが,アルガトロバン群では,軽度17匹,中等度3匹であり,有意に線維化が抑制されていた(P<0.001).泡沫マクロファージ浸潤に関しては,コントロール群で,軽度7匹,中等度10匹,重度1匹であったが,アルガトロバン群では,所見なし1匹,軽度16匹,中等度3匹であり,有意に泡沫マクロファージ浸潤が抑制されていた(P<0.01).色素貪食細胞浸潤に関しては,コントロール群で,軽度11匹,中等度7匹であったが,アルガトロバン群では,所見なし4匹,軽度14匹,中等度2匹であり,有意に色素貪食細胞浸潤が抑制がされていた(P<0.01).その他の観察項目である,白血球浸潤,浮腫,気管支肺胞上皮の肥厚,欝血に関しては,両群間で有意差を認めなかった.また,線維組織占有率においては,青染部分がコントロール群では62.42±9.88%,アルガトロバン群では42.73±5.30%で,アルガトロバン群で有意に青色部分の比率が低下していた(P<0.0001).

考察

 今回,選択的抗トロンビン剤であるアルガトロバンにより,病理組織学的に線維化,泡沫マクロファージ浸潤,色素貪食細胞浸潤が有意に抑制されていた.トロンビンはその多彩な生理活性の一つとして,線維芽細胞に対する増殖促進活性や遊走促進活性を持っており,さらにアルガトロバンによるLFGAの抑制が報告されている.ブレオマイシン肺線維症動物モデルでも同様なアルガトロバンの抑制効果や,肺線維症をよく合併する全身性硬化症患者のBALFにおけるトロンビン活性とLFGAの上昇も報告されている.トロンビンはマクロファージに対する増殖作用,走化作用も持っており,照射後のマクロファージからは,線維芽細胞に対する活性を持つサイトカインであるtransforming growth factor-(TGF-)や血小板由来増殖因子が放出され,接着分子もマクロファージ上に発現することなどが報告されている.これらから推測すると,放射線肺線維症に対してアルガトロバンが有用であった機序として,放射線によるトロンビン活性の上昇を介して,直接的または間接的に促進したLFGAが抑制されたことが考えられる.このような抗凝固剤による放射線肺線維症の抑制の報告,および,間接的ではあるものの,放射線肺障害におけるトロンビンの関与を示唆した報告は本論文が初めてである.なお,トロンビン活性上昇の機序は不明であるが,マクロファージからのprocoagulant activity,血管内皮細胞障害に対する凝固系の反応などが考えられる.最近明らかとなってきた,放射線肺障害に対するTGF-を中心としたサイトカインのカスケードにトロンビンは示されていないが,今後はまずトロンビン関与の直接所見を示し,さらにカスケードに対する役割や他の線維芽細胞増殖因子との関係などを解明していく必要がある.

 本実験の問題点として,アルガトロバンが有用である線量幅が狭いのではないかということ(一回17Gyは,臨床で通常用いられる1日1回2Gyでは57.5〜79.2Gyに相当すると計算される),今回の約4.5ヶ月という屠殺時期以降に線維化がさらに進行するのではないかということ,本実験でのアルガトロバン最高血中濃度は3.0〜4.0Mであり,他疾患に対して臨床で有効に用いられている0.2〜0.4Mの約10倍であったことなどがあげられる.それぞれの問題に対して動物実験で確認する必要があるのはもちろんであるが,放射線に対する防護効果を持つ薬剤として理想的ではなくても,臨床的には有用な場合があることも考え,その肺線維症抑制効果を期待して積極的に臨床応用し,肺癌に対する放射線治療の成績向上に寄与できれば幸いである.

審査要旨

 現在世界的に死亡数が増加している肺癌の治療として、今後放射線治療の役割もますます重要になってくると考えられる。本研究は胸部腫瘍に必要な範囲で十分な治癒線量が投与できない原因の一つとなっている放射線肺障害、とくに不可逆性の晩期障害である放射線肺線維症の薬剤予防に関する研究である。さまざまな薬剤を用いた同様な研究はこれまでにも行われてきた。動物実験にて放射線肺線維症の抑制が示された例があるが、臨床的には副作用などの問題により使用可能な薬剤が現状では存在していない。

 放射線肺障害の機序に血管内皮細胞が密接に関与している可能性から、凝固系が一定の役割を果たしているであろうと予想し、これまで報告されているトロンビンの線維芽細胞に対する増殖促進活性や遊走促進活性、およびブレオマイシン肺線維症動物あるいは肺線維症を合併する全身性硬化症患者における気管支肺胞洗浄液中のトロンビン活性と肺線維芽細胞増殖促進活性の上昇、さらに選択的抗トロンビン剤であるアルガトロバンがこれらの活性に対して抑制効果を持つことから、放射線肺線維症においてもトロンビンが関与した機序が存在する可能性が高いと考え、アルガトロバンの放射線肺障害に対する防護剤としての有用性についておもに病理組織学的に検討したものであり、下記の結果を得ている。

 1.Wister系雄ラットの右肺全体に一回で17Gyを照射し、134日後に屠殺後、病理組織標本をアルガトロバン群とコントロール群で比較検討したところ、線維化、泡沫マクロファージ浸潤、色素貪食細胞浸潤の所見に関して、アルガトロバン群における有意な抑制が認められた。

 2.アザン・マロリー染色では膠原線維が特異的に青染されることより、組織標本を顕微鏡下に撮影した写真をコンピューター処理し、青染部分の組織標本全体に対する面積比率を算出したところ、これもアルガトロバン群で有意に低下していた。

 3.これらの結果より、放射線肺障害にトロンビンが関与している可能性が示唆された。アルガトロバンは、放射線によるトロンビン活性の上昇を介した、直接的および間接的な肺線維芽細胞増殖促進活性を抑制することにより、放射線肺線維症を抑制したと考えられた。

 以上、本研究はラットを用いて、放射線過剰照射による肺障害としての肺線維症に対し、アルガトロバンが抑制効果を持っていることを明らかにした。抗凝固剤による放射線肺線維症の抑制、および間接的ではあるが、放射線肺障害の少なくとも一部でトロンビンが関与していることを示した報告は、本論文が初めてである。ややpreliminaryな内容であるが、非常に興味深い結果であり今後さらに詳細な機序を解明することを期待し、また臨床応用に際しては臨床研究が必要であるが、これまで有効な薬物が存在しなかった放射線肺線維症を予防する薬物療法の可能性が見いだされたことにより、肺癌の放射線治療成績向上に重要な貢献をなすと考えられる。また、放射線治療に関連した論文を共著も含めすでにいくつか発表しており、本論文はその研究の一環として位置づけられ、学位の授与に十分値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54712