平成7年3月に東京の地下鉄内で有機リン系毒物の一種であるサリンが散布され、12人の死者と5,000人以上の被害者を出すに至った。現在でも、5千人以上の被害者のうち多くの人々が後遺症に苦しんでいるが、サリンやソマンの短期及び長期毒性の機序の解明はいまだ十分ではなく、不明な点も多い。サリンやソマンは化学兵器として開発されたもので、有機リン系毒物の中でもとりわけ強い毒性を有し、神経剤と呼ばれる。有機リン剤の毒性は、有機リン酸部分がアセチルコリンエステラーゼ(AChE)の活性中心にあるセリン残基の水酸基に結合し酵素活性を失活させることによるが、特に神経剤はこの作用が強いとされる。 松本と東京で起きたサリン事件以降、日本では神経剤の作製は法律によって厳しく制限されることになった。また、神経剤は一般の実験環境で扱うには危険性が高すぎる。しかし、今後神経剤の研究が広く進められるためには、同様の作用機序でほぼ同等の毒性を持ちしかも取り扱いが容易な化合物の開発が必要である。そこで著者らは、以前、この条件を満たすサリン類似物質(bis(pinacolyl methyl)phosphonate,BIMP)の化学合成に成功し、それを用いた実験の報告を行った。それに続いて今回著者は、ソマン類似物質(bis(isopropyl methyl)phosphonate,BPMP)を化学合成することに成功し、それがソマンと同様にアセチルコリンエステラーゼ阻害能を持つことを確認した。そこでこの物質を、以前合成したサリン類似物質と共に、神経剤の毒性機序の解明を目的として、神経剤の代替物質として実験に供すこととした。 ソマン投与後のラットに全身性の痙攣を認めるという報告は散見され、その際に脳内のイノシトール三リン酸の量が経時的に上昇するという報告がある。このことは細胞内情報伝達系の上流であり、主に細胞膜に分布するフォスフォリパーゼC (PLC )の関与を示唆するものであるが、このこと自体を確認した報告は検索した限り見当たらなかった。筆者は今回、神経剤類似物質をラットに静注し、脳ホモジェネートのPLCの活性を測定することで、PLC の上昇の確認を試みた。その結果、PLC が多く分布する細胞膜分画のみならず、細胞質分画のPLC活性も経時的に上昇することを見出した。そこで、細胞質分画においてのPLC活性の変動を検討するため、本実験系の微弱な蛋白リン酸化の検出に際し、免疫沈降法、イムノブロッティング、オートラジオグラフィーまたはケミルミネッセンス法を組み合わせた検出手法を確立し、これを用いて、神経剤類似物質を投与したラット脳の細胞質分画のPLC 活性が経時的に上昇すること、また、in vitro系で神経剤類似物質を投与したラット脳の細胞膜分画によってintactな細胞質分画中の酵素がリン酸化を受けるという知見を得た。また、このin vitro系での反応はATP要求性であった。これらのことより、神経剤によって細胞膜上のリン酸化酵素が何らかの形で活性化され、これにより細胞質のPLC が活性化されることが示唆された。 さらに、神経剤類似物質投与時のMAP kinase(MAPK),Jun N-terminal kinase(JNK)の活性化につき同様に検討した。その結果、JNKとMAPKが、強弱の違いはあるものの、いずれも活性化されていることが見出された。このことは、細胞膜上の増殖因子レセプターの内在性チロシンリン酸化酵素が活性化されている可能性を示唆するものと考えられた。PLC 、JNK、MAPKの活性化がクロストークや他の機序による二次性の変化である可能性は否定できないものの、これらの酵素の活性化が神経剤中毒の急性期の症状や、神経細胞障害による後遺症に関係している可能性があると考えられた。 |