学位論文要旨



No 114516
著者(漢字) 井上,将至
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,マサシ
標題(和) ラット心筋梗塞モデルにおける過分極活性化内向き電流(If)の検討
標題(洋)
報告番号 114516
報告番号 甲14516
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1436号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 助教授 川久保,清
 東京大学 助教授 小塚,裕
 東京大学 講師 竹中,克
 東京大学 講師 小室,一成
内容要旨 【背景】

 心不全患者は突然死の危険が高く、その予後に大きな影響を及ぼしている。心不全患者においては心室性不整脈の発生頻度が高く、突然死は心室性不整脈を背景とするものと考えられている。心不全に合併する心室性不整脈の発生に関与する因子の一つに、心室筋細胞の電気生理学的変化がある。大きな心筋梗塞後には左室リモデリングによって心不全が起こるとともに、非梗塞部位の代償性心室肥大が見られるが、このような不全心室筋細胞の電気生理学的変化の一つとして、一過性外向きカリウム電流(Ito)の減少が報告されている。しかし他のイオン電流についてはまだ一定の見解はない。そこで、本研究では、ラット心筋梗塞モデルを用いて、心不全心室筋細胞における過分極活性化内向き電流(If)に関して検討した。Ifは、生理的条件下で自動能を示す洞房結節・房室結節・プルキンエ線維に存在することが知られている。Ifは過分極で活性化される陽イオンの非選択性内向き電流で、それらの細胞で拡張期脱分極相に流れ、ペースメーカ機能に関与していると考えられている。成体の心室筋細胞におけるIfの存在が報告され、心室性不整脈との関連が示唆されている。ヒトの心室筋細胞においてもIfが存在し、心不全患者におけるIfが健常者に比べ増大していると報告されている。また、高血圧ラット心肥大モデルでもIfが存在し、正常ラットより増大しているが、正常ラットでも1年経過したものではIfの増大も見られると報告されている。ところが、Ifが心筋梗塞後の左室リモデリングのような短期間で急激な心臓の変化に伴って出現するか否かは明らかでない。これらのことを背景に、若いラットの心筋梗塞モデル心室筋におけるIfの有無と、その電流特性を検討した。

【方法】

 心筋梗塞の作成には200〜220g(生後8〜10週)のメスSprague-Dawleyラットを用いた。人工呼吸管理下に左側開胸にて心臓を露出し左前下行枝を結紮した。それに加えて、開胸のみで左前下行枝の結紮を行わないもの(sham operation)を比較対照として作成した。手術後6〜8週間飼育した後に開胸して心臓を摘出、心筋梗塞によりリモデリングを起こした非梗塞部の心室筋細胞を酵素法にて単離した。心室筋細胞の電流は全細胞パッチクランプ法によって記録した。パッチクランプ用のビペット電極には、ピペット溶液(Aspartic acid130mM,MgCl2 2.0mM,K2ATP5.0mM,HEPES10mM,N,N,N’,N’-tetraacetic acid(EGTA)11mM,NaOH10mM,KCl150mM,pH=7.1)を満たしピペット抵抗が2〜4Mのものを用いた。記録はすべて室温(21℃)で行った。単離された心室筋細胞を、細胞外液(NaCl135mM,KCl5.0mM,MgCl2 1.0mM,CaCl2 1.8mM,HEPES10mM,Dextrose10mM,NaOH5.0mM,pH=7.35)で灌流し、保持電位を-70mVとし、-10mVのパルスを加えて得られた電流波形より、細胞膜容量を得た。Ifを記録するための溶液は、先程の細胞外液に、Ifと重なる電流を遮断するためのBaCl2 2.0mM,MnCl 2.0mM,CdCl2 0.20mM,4-aminopyridine5.0mMを加え、KCl濃度を25mMに高めたものを用いた。保持電位を-50mVとし、-10mV毎の過分極パルスを各々1000〜2000ms加えたときの電流をIfとして記録した。Ifの大きさは、過分極パルスの始まりと終わりにおける電流の差を計測した。これを細胞膜容量で除して電流密度が得られた。一部の細胞では、Ifの性質を検討するために、通常のIfの記録に加え、細胞外液にCsCl 4mMを加えるか、あるいは細胞外液のKCl濃度を5mMまで減少させて実験を行った。

【結果】

 心重量(以下はすべて平均±標準偏差。0.93±0.08g vs.1.57±0.48g;p<0.01)および心重量/体重比(3.58±0.42‰vs.6.27±4.57‰;p<0.01)は比較対象ラットに比べ心筋梗塞ラットで有意に大であり、心筋梗塞群での心肥大の存在が示された。さらに、肺重量(1.25±0.14g vs.1.74±0.64g;p<0.05)および肺重量/体重比(4.81±0.67‰ vs.7.00±2.89‰;p<0.05)の有意な増加を認め、心筋梗塞群での心不全の存在が示唆された。-50mVの保持電位から-10mV毎の過分極のパルスを加えたとき、過分極になるにしたがって増大する内向き電流が記録された。この電流は-80mVから過分極の電圧で活性化され、過分極になるにしたがって速い活性化が見られたいた。細胞外液に4mMのCsClを加えたときには、過分極パルスで生じる内向き電流は抑制されることが示された。細胞外液のKCl濃度を25mMから5mMに減少させたときには、過分極パルスで生じる内向き電流は減少し、細胞外カリウム濃度に影響されることが示された。この電流の存在頻度を比べると、比較対照ラットでは24%の細胞にしか電流が認められなかったのに対し、心筋梗塞ラットでは76%の細胞に電流が認められ、有意(p<0.01)に存在頻度の増大を認めた。電流が存在する細胞における電流密度は、-120mVにおいて、(以下はすべて平均±標準誤差)比較対照ラットで-0.11±0.02pA/pFであったのに対し、心筋梗塞ラットでは-2.3±1.3pA/pF(p<0.01)、そして-150mVにおいて、それぞれ-0.82±0.07pA/pFと-5.2±2.3pA/pF(p<0.01)であり、心筋梗塞ラットにおいて有意な電流密度の増大を認めた。

【考察】

 この実験においてラット心筋梗塞モデルで観察された電流は過去の研究で記載されたIfの性質に合致していた。すなわち過分極で活性化される時間依存性の内向き電流で、Ba2+によって遮断されずCs+によって遮断される電流であった。Ifは陽イオン非選択性であるため、細胞外カリウム濃度によって影響を受けるが、本実験においても細胞外カリウム濃度の減少によって内向き電流の減少が認められた。本研究では、比較対照ラットでは少数(24%)の心室筋細胞にわずかなIfしか認められなかったのに対し、6〜8週という短期間しか経過していない心筋梗塞ラットでは多数(76%)の心室筋細胞に大きなIfが認められた。すなわち、心筋梗塞によって生じた左室リモデリングに伴いIfの存在頻度の増大と電流密度の増大が示された。従来の研究で、ヒトにおいて心不全患者の心室筋のIfが健常者に比べて増大していることが報告されている。そこではヒト心室筋細胞は心臓移植のレシピエントから得ていることから、薬物により心不全をコントロールしていたとはいえ、末期心不全に至るまで数年は要していると考えられる。また、高血圧ラットを用いた研究では、生後18〜20か月経過した高血圧ラットにおいて同齢の比較対照ラットに比べIfの電流密度が増大していることが報告されているが、生後2〜3か月の高血圧ラットは同齢の比較対照ラットとIfの存在頻度・電流密度ともに差がないことに加え、比較対照ラット同士でも生後18〜20か月のラットは生後2〜3か月のラットに比べIfの存在頻度・電流密度ともに増大している。したがって、過去の研究におけるIfの変化は、比較的長い時間の心筋の変化に伴うものであった。本研究で、若いラットの心筋梗塞モデルを使うことにより、6〜8週という短い期間でもIfが著明に増大していることが初めて示された。しかも、本研究で用いた心室筋細胞は虚血による傷害が著しいと思われる梗塞内および梗塞周囲部を除外しているので、Ifの存在頻度及び電流密度の増大は左室リモデリングに伴う心筋肥大と心不全の影響として心室筋全体で見られることが示された。陳旧性心筋梗塞に伴う心室性不整脈は、罹病期間によらず発生しうる。罹病期間よりも心不全の程度が心室性不整脈の重症度に関連していることから、本研究で見られたようなIfの変化が心不全の比較的早期に出現し、心室性不整脈出現の背景の一つとなっていることが考えられる。

【結論】

 過分極活性化内向き電流(If)は若いラットの心筋梗塞モデルにおいて存在頻度・電流密度の増大を認めた。したがって、Ifが長期の心不全ではなく、心筋梗塞後の左室リモデリングという短期間で急激な心臓の変化で増大することが示された。この変化が、心不全における心室性不整脈出現の機序の一つになっている可能性がある。

図表
審査要旨

 本研究は、心不全に合併する心室性不整脈発生の一要因を明らかにするため、パッチクランプ法を用いて、若いラットの心筋梗塞モデル心室筋における過分極活性化内向き電流(If)の検討を行ったものであり、下記の結果を得ている。

 1.生後8〜10週で左前下行枝の結紮を行い6〜8週間飼育したSprague-Dawleyラットの心筋梗塞モデルにおいて、心重量および心重量/体重比は比較対象ラットに比べ有意に増大しており、心筋梗塞ラットでの心肥大の存在が示された。また、肺重量および肺重量/体重比の有意な増大を認め、心不全を示す所見が得られた。すなわち、本モデルが心筋梗塞に伴う左室リモデリングに一致する変化を来していることが示された。

 2.単離した心室筋細胞において、パッチクランプ法を用い、IKl・Ica・Itoを遮断するために細胞外液にBa2+・Mn+・Cd+・4-aminopyridineを加え、内向きのCl-電流を阻止するために細胞内のCl-を排除するした状態で、過分極のステップパルスを加えたときに、時間依存性に増大する内向き電流が記録された。この電流は細胞外Cs+の存在で遮断され、細胞外K+濃度に影響されることが示され、過去の研究で記載されたIfの性質に合致していた。この電流について活性化曲線を調べ、その特性を明らかにした。

 3.比較対照ラットでは少数(24%)の心室筋細胞にわずかなIfしか認められなかったのに対し、6〜8週という短期間しか経過していない心筋梗塞ラットでは多数(76%)の心室筋細胞に大きなIfが認められた。すなわち、心筋梗塞によって生じた左室リモデリングに伴いIfの存在頻度の増大と電流密度の増大が示された。

 以上、本論文はラット心筋梗塞モデルにおいて、パッチクランプ法を用いて、心筋梗塞によって生じた左室リモデリングに伴い短期間でIfの存在頻度の増大と電流密度の増大を来すことを初めて示した論文である。心不全における心室性不整脈出現の機序の一つの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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