学位論文要旨



No 114571
著者(漢字) 綿谷,早苗
著者(英字)
著者(カナ) ワタタニ,サナエ
標題(和) エンドセリン-1遺伝子欠損マウスにおける下顎形態異常の発現に関する形態学的ならびに分子生物学的解析
標題(洋)
報告番号 114571
報告番号 甲14571
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1491号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 教授 橋都,浩平
 東京大学 助教授 上妻,志郎
 東京大学 助教授 市村,惠一
 東京大学 講師 吉村,浩太郎
内容要旨 (背景および目的)

 顎顔面は第一、第二咽頭弓由来の組織から構築され、その発生過程では、上皮、間葉組織の複雑な相互作用を介して形態形成が行われる。この咽頭弓とは、すべての脊椎動物の胎生期に共通に出現する前頚部の分節構造であり、第一、第二咽頭弓は頭頚部の骨、軟骨、歯、筋肉、神経、脈管など多くの組織・器官の原基となっている。すなわちMeckel軟骨(第一咽頭弓軟骨)及びReichert軟骨(第二咽頭弓軟骨)を中心とする骨格系の他、鰓嚢の発達とも関連して、口蓋や舌・歯・腺組織・軟部組織などの構造を形成する。咽頭弓を構成する細胞は、外胚葉・中胚葉・内胚葉すべてに由来するが、その主要成分となるのは背側から顔面及び頚部に移動してきた神経堤細胞由来の外胚葉性間葉である。

 神経堤細胞は、神経板の陥入過程で神経溝の両縁に生ずる外胚葉由来の細胞集団である。自己再生能と多分化能を有する幹細胞としての性質を備え、最終的に神経細胞やグリア細胞・皮膚メラノサイト・副腎髄質細胞などへ分化する。神経堤細胞は神経管の閉鎖に伴って遊走し、その行き先によって運命が決定される。頭頚部の神経堤細胞は骨や軟骨などを形成する能力をもつが、体幹の神経堤細胞にはその能力がない。神経堤細胞の分化の分子機構はあまり明らかにされていないが、上皮間葉相互作用をはじめとする細胞間の相互作用や細胞外基質の働きが重要と考えられている。最近Pax3やHANDsなどのDNA結合蛋白の欠失によって神経堤細胞の分化に異常をきたすことが報告され、これらの遺伝子の重要性がクローズアップされてきた。Pax-3,dHAND,eHANDは、ダイナミックな形態変化のみられる顎顔面形成の場において、神経堤細胞という特定の細胞由来の組織の増殖あるいは分化に各々重要な役割を担っていることが推測される。

 これに加えて、最近エンドセリン-1(ET-1)遺伝子欠損マウスが作成され、ET-1が胎生期の顎顔面形態形成に重要な因子であることが明らかになった。ET-1は、血管内皮細胞由来の血管収縮因子として同定されたアミノ酸21残基よりなるペプチドで、強力な血管平滑筋収縮作用の他、細胞増殖、ホルモン分泌促進、神経伝達物質放出の調節、増殖促進など多彩な作用をもつ。ET-1はET-2、3とともにペプチドファミリーを形成しており、その広汎な分布、作用により、多くの循環器疾患の病態生理における関与が示唆されている。このように循環調節ペプチドとして捉えられてきたET-1の遺伝子完全欠損マウス(ET-1(-/-))は、神経堤細胞由来の第一、第二咽頭弓から発生する頭頚部領域及び心血管系に限局した形成異常を呈し、大動脈弓離断や心室中隔欠損などを含むVelocardiofacial症候群と極めて類似していた。この事実は、顎顔面を形成する鰓弓の発達異常に起因する疾患が単一遺伝子の異常で起こりうることを示しており、ヒト先天奇形のモデルとしてその分子レベルでの病態解明に貢献することが期待された。

 本研究では、正常なマウス(ET-1(+/+,+/-))とET-1遺伝子完全欠損マウス(ET-1(-/-))の胎生期における発生過程を肉眼的、組織学的に経時的に観察、比較していくと共に、Whole Mount In Situ Hybridization法を用いてマウスの顎顔面の発生過程におけるET-1,Pax-3,HAND遺伝子の発現を解析し、奇形の発症メカニズムと顎顔面発生の研究における意義について考察した。

(方法)

 1.肉眼像

 2.神経の走行(抗ニューロフィラメント2H3抗体を用いた全胎仔免疫染色)

 3.骨・軟骨形態像、下顎骨長の計測(骨・軟骨標本)

 4.血管の走行(血管バリウムインジェクション)

 5.組織像(レジン樹脂包埋前頭断切片、トルイジンブルー染色)

 6.下顎突起における遺伝子の発現様式(Whole mount in situ hybridization)

(結果)

 ET-1(-/-)とET-1(+/+,+/-)についてその表現型を比較、検討したところ、ET-1(-/-)では全例下顎正中癒合不全、小顎化、耳介の低形成を呈しており、下顎にはET-1(+/+,+/-)では存在しない3列の洞毛の毛包が認められた。この形態は、上顎突起由来の上顎の3列の洞毛形態と類似していた。

 神経の免疫染色からはET-1(-/-)では異所性(尾側)に過剰な(複数の)下顎神経束が下顎異所性に生じた洞毛のwhisker pad様構造物へと伸びているのが観察され、この下顎神経の異常形態は、上顎神経の鼻尖末端部の神経形態とよく類似していた。

 胎生15.5日以降の骨・軟骨標本からは、下顎骨低形成が明らかな有意差をもって認められたと同時に、メッケル軟骨が腹側先端には認められたが軸部では完全に欠失し、下顎骨の形態が上顎頬骨弓形態と類似していることが明らかになった。

 バリウム注入による血管鋳型標本からは、ET-1(-/-)では、顔面動脈から分枝した下唇動脈過剰枝が4本外内側に枝分かれして表層に広く分布し、下顎に存在するwhisker pad様構造物へと走行しており、この複数の枝分かれのために、上唇動脈へと走行する枝はET-1(+/+,+/-)と比較するとかなり細くなっていたが、上唇動脈は、顎動脈からの分枝と吻合することによって再び太くなり、血液供給を補っているものと示唆された。

 Whole mount in situ hybridizationでは、ET-1は胎生10.5日ET-1(+/+,+/-)の頭側咽頭弓上皮に発現し、Pax3がその直下の間葉細胞に球状に限局して発現していたが、その発現部位がET-1(-/-)では広範囲に分散していた。同部位の組織切片像からは、球状に肥大した核、細胞間基質の増大、多数の間葉細胞の凝集が認められたが、ET-1(-/-)では認められず、その疎な細胞形態は上顎突起の組織像と類似していた。胎生12.5日ET-1(+/+,+/-)では、上顎突起腹側口吻部の洞毛毛包部を除いた部位全体、下顎突起いずれにも広範囲に認められ、ET-1(-/-)では、whisker padを除く上顎突起全体、whisker pad様の異常形態部位を除く下顎突起全体に広範囲に発現が認められた。d-HAND,e-HANDの発現は胎生10.5日ET-1(-/-)で著明に減少しており、ET-1(+/+,+/-)第一咽頭弓の器官培養においては、dHANDの発現はメッケル軟骨および前歯歯胚周囲に、eHANDの発現は舌あるいはその周囲に強く認められた。

(考察)1.形態異常から

 ET-1(-/-)の形態異常は、第一、第二咽頭弓由来の器官に集中していたことから、第一、第二咽頭弓へ遊走してきた神経堤細胞は、その後、周囲から受けるさまざまなシグナルによって増殖・分化し、軟骨、骨あるいは歯、結合組織などを形づくる過程においてET-1遺伝子欠損における影響を被っているものと考えられた。中でも下顎突起由来の構造物に上顎突起によく類似した形態が認められたことから、ET-1は、下顎の形態の独自性を与えているものと考えられた。

2.遺伝子の発現

 ET-1(+/±)の下顎突起では、4つの遺伝子の発現関係を比較すると、上顎突起ではPax3優位、下顎突起ではHAND優位であった。

 4つの遺伝子の発現は、重複することなくそれぞれ独立して発現していた。

 これまで頭部神経堤細胞は、神経堤から表皮直下を移動して咽頭弓の中へ遊走してきた一群の細胞集団と見なされていたが、今回の実験結果から少なくとも

 Pax3とHANDの発現細胞は必ずしも一致せず、heterogeneousな細胞群を形成していると考えられた。

 そして、ET-1は各々の細胞群に対して異なる影響を与えている、つまり、

 (1)Pax3を発現している細胞群の凝集を高める

 (2)HANDsの発現を促進する、あるいはHANDsを発現している細胞の増殖を促進していると予想された。

 以上、ET-1は上皮-間葉相互作用のメディエーターとして咽頭弓の上皮直下に遊走してきた神経堤細胞に由来する外胚葉性の間葉細胞に作用し、dHAND,eHAND,Pax3の発現を調節することによって下顎の形態の発達を促進していると考えられた。最近、DiGeorge/CATCH22の原因遺伝子の候補と考えられているHIRA遺伝子が核内蛋白としてPax3と結合して働く可能性が報告されており、こうしたヒト疾患とET-1のシグナルおよびその下流遺伝子との関連が今後注目される。

審査要旨

 本研究はヒトもしくはマウスなどの哺乳類の下顎発生メカニズムを明らかにするため、顎顔面奇形モデルであるエンドセリン-1遺伝子欠損マウスを用いて、下顎ならびに口腔発生過程を詳細に観察するとともに、顎顔面を構成する主要成分となる神経堤細胞の分化過程と、それを制御する遺伝子発現との関連についての解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.肉眼像:ET-1(-/-)とET-1(+/+,+/-)についてその表現型を詳細に比較、検討したところ、ET-1(-/-)ではすでに報告のある全例下顎正中癒合不全、小顎化、耳介の低形成の他、下顎にET-1(+/+,+/-)では存在しない3列の洞毛(触覚毛、ヒゲ)の毛根(whisker pad)が新たに認められた。この形態は、上顎突起由来の上顎の3列の洞毛形態と類似していた。

 2.神経像:神経の免疫染色からはET-1(-/-)では異所性(尾側)に過剰な(複数の)下顎神経束が下顎異所性に生じた洞毛のwhisker pad様構造物へと伸びているのが観察され、この下顎神経の異常形態は、上顎神経の鼻尖末端部の神経形態とよく類似していた。

 3.骨・軟骨像:胎生15.5日以降の骨・軟骨標本からは、メッケル軟骨は腹側先端には認められたが軸部では完全に欠失し、下顎骨の形態が頬骨形態と類似していることが明らかになった。

 4.血管像:バリウム注入による血管描出からは、ET-1(-/-)では、顔面動脈から分枝した下唇動脈過剰枝が4本外内側に枝分かれして表層に広く分布し、下顎に存在するwhisker pad様構造物へと走行しており、この複数の枝分かれのために、上唇動脈へと走行する枝はET-1(+/+,+/-)と比較するとかなり細くなっていたが、上唇動脈は、顎動脈からの分枝と吻合することによって再び太くなり、血液供給を補っているものと示唆された。

 5.組織像:トルイジンブルー染色による組織切片像からは、胎生10.5日ET-1(+/+,+/-)の頭側咽頭弓上皮直下の間葉細胞に球状に肥大した核、細胞間基質の増大、多数の間葉細胞の凝集が認められたが、ET-1(-/-)では認められず、その疎な細胞形態は上顎突起の組織像と類似していた。また、胎生16.5日ET-1(-/-)ではメッケル軟骨軸部、腺組織が欠失し、過剰血管、神経が認められ、これらは前述した1〜4の結果と一致していた。

 6.遺伝子の発現:胎生初期胚のWhole mount in situhybridizationにより、ET-1(+/+,+/-)の下顎突起では、上顎突起ではPax3優位、下顎突起ではHAND優位であったのに対し、ET-1(-/-)の下顎突起ではHANDの発現が著明に減少し、相対的にPax3の発現領域が拡大していることが明らかになった。

 以上、本論文はET-1(-/-)の形態異常が下顎突起由来の構造物が上顎突起によく類似した形態をとることから、下顎の形態の独自性を与えている可能性があるというET-1の新たな役割について、およびそのメカニズムとしてET-1が、上皮-間葉相互作用のメディエーターとして咽頭弓の上皮直下に遊走してきた神経堤細胞に由来する外胚葉性の間葉細胞に作用し、dHAND,eHAND,Pax3の発現を調節することによって下顎の形態の発達を促進しているという新しい知見を明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった胎生初期の顎発生におけるメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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