学位論文要旨



No 114573
著者(漢字) 加治,優一
著者(英字)
著者(カナ) カジ,ユウイチ
標題(和) 角膜創傷治癒過程におけるTGF-の役割
標題(洋)
報告番号 114573
報告番号 甲14573
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1493号
研究科 医学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高戸,毅
 東京大学 教授 脊山,洋
 東京大学 助教授 斎藤,英昭
 東京大学 助教授 大鹿,哲郎
 東京大学 講師 岡,輝明
内容要旨

 角膜は透明な組織であり,視覚系において光学的に最も重要な役割を果たしている.また,角膜は眼球壁の一部を形成し,外界からの異物や微生物の侵入を防ぐ第一線として機能している.実際,角膜は異物などによって損傷を受けることがあるが,透明性をほとんど失うことなく早期に創傷治癒することが知られている.この角膜創傷治癒過程は,さまざまなサイトカインによって制御されていることが知られている.本研究においては,特にTGF-に注目し,これが角膜上皮および実質創傷治癒過程においてどのような影響を及ぼすかを検討した.

1.角膜上皮創傷治癒

 角膜上皮創傷治癒過程において,再生角膜上皮細胞におけるTGF-の作用が亢進していた.これにより細胞外マトリックスのひとつであるフィブロネクチンの産生が促進され,上皮の修復を補助している可能性が示唆された.

 TGF-は,細胞増殖抑制,遊走促進,分化促進,細胞外マトリックス産生抑制などさまざまな作用を有している.これまでの報告で,TGF-は角膜上皮細胞の細胞増殖を抑制することにより創傷治癒過程を遅延させると考えられてきた.しかし,今まで,角膜上皮創傷治癒過程においてTGF-がどの段階で,どの部位で作用を及ぼしているかを検討した報告はない.本研究では,角膜上皮創傷治癒過程に伴うTGF-シグナル伝達経路を解明し,TGF-の生理的な役割を明らかにすることを試みた.

・角膜上皮創傷治癒過程におけるTGF-シグナルとフィブロネクチンの発現の変化

 ラット角膜上皮剥離前,および剥離後12時間,1,2,7日目における角膜の凍結切片を作成した.コントロール角膜においては,TGF-受容体は角膜上皮細胞にほとんど発現されていなかった.しかし,角膜上皮剥離後12時間,1,2日目においては再生上皮細胞においてTGF-受容体の発現が増加していた.また,TGF-受容体の発現増加に伴い,細胞内におけるTGF-シグナル伝達因子であるSmad2,3,4の核への集積も観察された.また,このTGF-の作用が亢進している時期と一致して,特に再生上皮においてフィブロネクチンの発現が亢進していた.また,角膜上皮剥離後7日目においては,ほぼコントロールの状態に戻っていた.

 以上より,角膜上皮創傷治癒過程においては,TGF-作用がが亢進していることが明らかになった.さらにTGF-の作用の亢進と,再生角膜上皮からフィブロネクチンの産生が亢進には関係がある可能性が示唆された.

・培養角膜上皮細胞からのフィブロネクチン産生に関するTGF-の影響

 培養ヒト角膜上皮細胞の培養液中にTGF-を投与すると,その濃度に依存して培養液中のフィブロネクチンの発現が増加した.以上より,角膜上皮創傷治癒過程における,再生角膜上皮細胞からのフィブロネクチン産生は,TGF-の直接作用による可能性があると考えられた.すなわち,角膜上皮創傷治癒過程においては,TGF-は再生上皮からフィブロネクチンの産生を促進することで,角膜上皮の修復が適切に行われるように制御している可能性があると考えられた.

2.角膜実質創傷治癒

 角膜実質創傷治癒過程において,増殖した線維芽細胞様角膜実質細胞においてTGF-の作用が亢進していた.このTGF-の作用によりフィブロネクチンやラミニンなどの細胞外マトリックス産生が亢進し,角膜実質を構成するコラーゲン線維間隔が拡大することで,角膜が混濁すると考えられた.

 角膜実質は,外傷,感染症,手術操作などに伴い創傷を受ける.しかしながら創傷が角膜上皮を越えて角膜実質に及ぶと,瘢痕性の混濁が生じることが知られている.特に近年行われている角膜屈折矯正手術においては,表層角膜切除に伴う角膜混濁は,視力の低下と直結するために,重大な問題のひとつに挙げられる.本研究では,角膜実質創傷治癒過程に伴う角膜混濁機序を,特にTGF-に注目して検討した.

・角膜実質創傷治癒に伴う角膜実質コラーゲン線維の走行の変化

 角膜実質は,コラーゲン線維が密に規則正しく平行に配列しているために透明性が保たれていると考えられている.しかし,これまでのところ角膜実質創傷治癒過程に伴うコラーゲン線維の走行を経時的に観察した報告はない.本研究では,角膜実質創傷治癒過程に伴う角膜混濁を定量的に測定し,さらに角膜実質コラーゲン線維の配列を電子顕微鏡で観察した.

 エキシマレーザーを用いて角膜上皮と実質を定量的に切除した後に角膜混濁を定量的に測定した.角膜混濁は,術後4週間目にもっとも強くなり,その後徐々に減少していった.電子顕微鏡による観察により,コントロール角膜実質のコラーゲン線維は互いに密に配列していたのに対して,角膜切除後においてはコラーゲン線維の走行が乱れ,線維間隔が拡大していることが確認された.特に角膜切除後4週間目においては,コラーゲン線維の配列に乱れが最も顕著となり,コラーゲン線維間隔もコントロールと比べて約2倍に拡大していた.すなわち,角膜実質コラーゲン線維間隔の拡大が角膜混濁と直接関係していること,および,角膜混濁の程度とコラーゲン線維間隔拡大の程度には正の相関があることが明らかになった.

・角膜実質創傷治癒の培養モデル

 角膜実質細胞に対してTGF-がどのような作用を有するかを検討するために,培養角膜実質細胞にさまざまな濃度のTGF-を作用させ,TGF-シグナル伝達機構と,細胞外マトリックス産生に対する影響を検討した.

 培養角膜実質細胞の培養液中にTGF-を投与すると,その濃度に依存して培養上清中におけるラミニンの発現が亢進した.また,培養角膜実質細胞にSmad2,3,4を遺伝子導入後にTGF-を作用させて,Smadの局在を免疫組織化学的に検討した.Smad2,3,4は,TGF-投与前は培養角膜実質細胞の細胞質に認められたが,TGF-投与後は核内に認められた.すなわち,角膜実質細胞にTGF-を作用させると,Smad2,3,4を介してシグナルが核内に伝達され,ラミニンなどの細胞外マトリックス産生が亢進することが明らかになった.

・角膜実質創傷治癒過程におけるTGF-シグナル伝達の解明

 エキシマレーザーを用いてネコ角膜上皮および実質を定量的に切除した.術後の角膜混濁の程度を定量的に測定したところ,術後4週間目に角膜混濁が最も顕著となり,その後徐々に減少していった.

 組織学的には,角膜混濁の最も強い術後4週間目においては,角膜切除部位の上皮直下に線維芽細胞様角膜実質細胞の増殖と,コラーゲン,フィブロネクチン,ラミニンなどの細胞外マトリックス成分から構成される異常な線維化層が認められた.免疫組織化学的には,この線維化層において増殖している線維芽細胞様角膜実質細胞においてはTGF-およびTGF-受容体の発現が亢進していた.また,Smad2,3,4の発現を免疫組織化学的に検討したところ,線維芽細胞様角膜実質細胞の核に染色が認められた.

 以上の事実より,角膜混濁の最も強い時期においては,細胞外マトリックス成分の沈着が最も顕著であり,さらに線維芽細胞様角膜実質細胞においてTGF-の作用が亢進していることが明らかになった.よって,角膜実質創傷治癒過程においては,角膜実質細胞におけるTGF-の作用が亢進することで,細胞外マトリックス産生が亢進し,これが角膜混濁を引き起こすという機序が考えられた.

・薬剤による角膜瘢痕化の制御

 角膜実質創傷治癒過程に伴い角膜に異常な線維組織(瘢痕組織)が形成されると,視力の低下を招く.そのために,角膜実質損傷後の瘢痕組織形成を抑制するためのさまざまな努力がなされている.本研究では,一般的に用いられるステロイド系および非ステロイド系抗炎症薬が角膜瘢痕組織形成にどのような影響を及ぼすかを,in vivoおよびin vitroの実験系を用いて検討した.

 白色家兎の角膜上皮および実質を,エキシマレーザーを用いて定量的に切除した.術後には生理食塩水,0.1%リン酸ベタメタゾンナトリウム(リンデロン),あるいは0.1%ジクロフェナックナトリウム(ジクロード)を点眼した.角膜混濁の程度は,0.1%リンデロン点眼群においては生理食塩水点眼群と比較して有意に抑制されていた.それに対して,0.1%ジクロード点眼群は生理食塩水点眼群と比較して,角膜混濁に関する限り有意差を認めなかった.

 また,角膜切除後の角膜切片において,角膜瘢痕層の指標のひとつであるIV型コラーゲンの発現を調べた.IV型コラーゲンの沈着は角膜混濁の程度とよく相関しており,0.1%リンデロン点眼群においては生理食塩水点眼群と比較して有意に抑制されていたものの,0.1%ジクロード点眼群は生理食塩水点眼群と有意差を認めなかった.

 最後に,in vitroモデルにおいてステロイドのひとつであるデキサメタゾンと非ステロイド系抗炎症薬のひとつであるジクロフェナックの作用を検討した.デキサメタゾンは,角膜実質細胞からのIV型コラーゲン産生を濃度依存性に抑制した.しかし,ジクロフェナックは,角膜実質細胞からのIV型コラーゲン産生をさほど抑制しなかった.

 以上の結果より,ステロイド系抗炎症薬の点眼は,角膜実質創傷治癒過程に伴う異常な線維化を抑制するのに有用であることが明らかになった.それに対して,非ステロイド系抗炎症薬のひとつであるジクロフェナックは異常な線維化の形成には有意な影響を及ぼさないと考えられた.

審査要旨

 本研究は,角膜上皮及び実質の創傷治癒過程を制御しているさまざまなサイトカインのうち,特にTGF-に着目し,その役割を検討したものであり,下記の結果を得ている。

 1.角膜上皮におけるTGF-受容体及びTGF-の細胞内シグナル伝達因子であるSmad2,3,4の発現を明らかにした。また,角膜上皮剥離後12時間〜2日まで,特に基底細胞においてTGF-受容体及びSmad2,3,4の発現が亢進していた。よって,TGF-は角膜上皮創傷治癒過程の特に遊走期から増殖期にかけて積極的に作用を及ぼしていることが示唆された。

 2.角膜上皮修復に重要なフィブロネクチンの発現部位と発現時期が,TGF-のシグナルが亢進している部位と時期に一致していることを明らかにした。また,培養角膜上皮細胞において,TGF-はその濃度に依存してフィブロネクチンの産生を促進させることを明らかにした。これらの結果より,角膜上皮創傷治癒過程において,一過性にTGF-の作用が亢進することで再生角膜上皮からのフィブロネクチンの産生が高まることが示唆された。

 3.角膜実質創傷治癒過程で生じる角膜混濁の原因を明らかにした。ウサギの角膜をエキシマレーザーを用いて定量的に切除した後に,角膜混濁を定量的に測定し,角膜実質におけるコラーゲン線維の配列を透化型および走査型電子顕微鏡で観察した。その結果,正常の角膜実質と異なり,角膜実質創傷治癒過程で生じる瘢痕組織のコラーゲン線維の配列は乱れ,線維間隔が拡大していることが明らかになった。また,これらのコラーゲン線維の変化の程度と,角膜混濁の程度が平行していた。これらの結果より,角膜実質創傷治癒過程で生じるコラーゲン線維の配列の乱れと線維間隔の拡大が,角膜実質の混濁と密接に関わることが示唆された。

 4.培養角膜実質細胞に対するTGF-の作用を検討した。TGF-はその濃度に依存して培養角膜実質細胞からのラミニン産生を促進した。また,培養角膜実質細胞にSmad2,3,4のcDNAを遺伝子導入し,その細胞内の局在を検討した結果,TGF-刺激によりSmad2,3,4は細胞質から核内に移行することが明らかになった。これらの結果より,角膜実質細胞において,TGF-のシグナルはTGF-受容体からSmad2,3,4を介して核内に移行し,ラミニンをはじめとする細胞外マトリックスの産生を促進させることが示唆された。

 5.角膜実質創傷治癒過程におけるTGF-のシグナル伝達を検討するために,猫の角膜実質創傷治癒モデルにおいて,TGF-,TGF-受容体,Smad2,3,4,細胞外マトリックスの発現を免疫組織化学的に検討し,角膜実質混濁の推移と比較検討した。角膜の混濁は角膜実質切除後4週間目に最も強くなり,その後徐々に減少していった。この角膜混濁の強い時期には,再生角膜上皮下にラミニンやIV型コラーゲン陽性の瘢痕組織が多く認められた。この角膜実質瘢痕組織内の角膜実質細胞には,TGF-及びTGF-受容体の発現が亢進しており,Smad2,3,4の核内への移行も認められた。これらの結果より,角膜実質創傷治癒過程においては,角膜実質細胞におけるTGF-の作用が亢進するためにさまざまな細胞外マトリックスの産生が促進され,それが角膜混濁を引き起こすことが示唆された。

 6.抗炎症薬の点眼により,角膜実質創傷治癒過程に伴う角膜混濁を制御することを試みた。ウサギ角膜をエキシマレーザーを用いて定量的に切除し,生理食塩水,非ステロイド系抗炎症薬である0.1%ジクロフェナック,ステロイド系抗炎症薬である0.1%ベタメタゾンを点眼した。術後に角膜混濁を定量的に測定し,角膜組織におけるIV型コラーゲンの沈着部位を免疫組織化学的に検討した。角膜混濁は,ベタメタゾン点眼群において有意に抑制されており,瘢痕組織の指標のひとつであるIV型コラーゲンの沈着も少なかった。

 以上,本論文は角膜上皮及び角膜実質創傷治癒過程において,TGF-が異なった作用を有していることを明らかにした。本研究は,角膜創傷治癒におけるin vivo及びin vitroの研究の基準となりえ,角膜創傷治癒機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる。

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