学位論文要旨



No 114576
著者(漢字) 吉田,直子
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ナオコ
標題(和) 筋芽細胞及び角膜上皮細胞における転写因子による細胞分化の制御機構
標題(洋)
報告番号 114576
報告番号 甲14576
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1496号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 教授 澁谷,正史
 東京大学 助教授 大鹿,哲郎
 東京大学 講師 沼賀,二郎
 東京大学 講師 吉村,浩太郎
内容要旨 背景

 個体中の細胞は、細胞外のシグナルと細胞内の分化制御メカニズムとが相互に連動した結果として、増殖を続けたり分化への道を進む。細胞の分化、増殖は組織の恒常性、成長や修復に強く関係している。

 一方、転写因子による遺伝子発現制御は、細胞内の分化制御メカニズムの最も重要なものの一つで、骨格筋系や神経系等多くの細胞系譜で重要な役割を果たしていることが明らかとなってきている。

 転写因子が組織の恒常性に関与している可能性を考え、まずin vitroの骨格筋細胞分化系を用いてこの点にアプローチした。

 骨格筋細胞系ではMyoDファミリーと呼ばれる転写因子群が細胞分化を制御している。MyoDファミリーのうち、MyoDとMyf-5は筋肉系細胞への運命の決定とその維持に重要で、myogeninは最終分化の初期段階に不可欠な役割を果たしている。

 マウスC2C12筋芽細胞は、高濃度血清存在下でMyoD、Myf-5を発現する未分化な細胞集団として存在し、血清を除くと一連の過程を経て最終分化に至る。すなわちmyogeninの発現、細胞周期からの永久離脱に続いて収縮蛋白の産生と細胞融合が起こり多核の筋管を形成する。細胞集団の一部はこのように分化するが、一部はこういった事柄を起こさないことが観察されてきた。しかしこの’残りの細胞’には注意が払われてこなかった。私はどのようにこの不均一性が生じるのかをMyoDファミリーに焦点をあてて解析し筋組織の幹細胞であるサテライト細胞との相同性について論じた。

 一方、角膜上皮細胞の分化を制御する転写因子は今まで知られていなかった。最近上皮特異的転写因子ESE-1/ELF3/jen/ESX(以下ESE-1)が報告された。ESE-1は、ets転写因子群に属し、上皮細胞特異的に発現する。ESE-1は表皮等において最終分化の際に誘導され、また表皮の分化マーカーであるSPRR2Aや、単層上皮に発現するタイプのケラチンであるEndoAの遺伝子発現を直接活性化する。しかし角膜上皮での発現の有無や機能については不明であり、私は角膜上皮細胞における発現を調べた。またヒト角膜上皮細胞の不死化された培養細胞系であるHCE2細胞は、細胞密度がコンフルエントになると分化し、重層化、角膜特異的なK3ケラチンを発現する。分化したHCE2細胞系もやはり不均一な細胞集団であり、これをESE-1の発現を調べることにより解析した。また、HCE2培養細胞系を用いて、ESE-1の、角膜上皮細胞における機能についても調べた。

結果と考察1)筋芽細胞系における分化制御転写因子の細胞分化との関わり分化したC2C12細胞系は不均一な細胞集団からなる

 C2C12細胞系において分化を誘導すると、約半分の細胞は分化して多核の筋管細胞を形成し残りは単核のまま筋幹細胞の間に存在した。多核の筋管細胞と一部の単核細胞(myocyte)はtroponin Tやskeletal myosinといった筋収縮蛋白が免疫染色で陽性であったが、多くの単核細胞はこれらが陰性であった。この不均一性をさらに調べるためにMyoDファミリー蛋白の発現を免疫染色で調べた。MyoDの発現は分化した筋管細胞とmyocyteに限られた。Myf-5、myogeninの発現も同様だった。

分化した系における細胞の増殖の状態

 分化したC2C12細胞系の細胞の増殖細胞核抗原(PCNA)とp21WAF1の発現を免疫染色で調べた。筋管細胞とmyocyteはp21WAF1陽性、PCNA陰性で、再び血清存在下においても、PCNA陰性だった。

 一方、未分化な単核細胞はp21WAF1陰性、PCNAは陰性かごく弱く陽性で、再び血清存在下に置くとPCNAは強く誘導された。したがって未分化な単核細胞はゆっくり細胞周期を回っていることがわかった。

分化した系における未分化な細胞は分化能を保持している

 分化した細胞系からMyoD陰性の未分化な細胞のみ選択し増殖条件で培養した。するとほぼすべての細胞がMyoD、Myf-5陽性、myogenin陰性となった。また細胞周期を活発に回っていた。これが再び分化条件下に置かれると、またもtroponin TとMyoD陽性の筋管細胞を形成した。更に、MyoD陰性の単核細胞も再び現れた。したがって分化した細胞系に現れたMyoD陰性の未分化な細胞は、MyoDを発現する能力、再び分化する能力を保持しており、適当な条件下で、分化細胞の供給源になることができると結論した。

MyoDの発現は一部の細胞で急速に低下する

 MyoDの発現は増殖状態のC2C12細胞のほぼすべてに見られたが、分化条件に置くと6時間後には一部の細胞で低下し、12時間後にほぼ定常状態に達した。

MyoD発現の不均一化はmyogeninの発現と不可逆的な最終分化に先行する

 myogeninの発現はMyoD発現が不均一化した後に始まり、MyoD陽性細胞でのみ見られた。不可逆的に分化のほうへ運命づけられた細胞の割合の時間経過は、myogenin陽性細胞の出現の時間経過と一致していた。ゆえにまずMyoD発現の不均一化が生じ、一部の細胞群はMyoD陰性となる。その後MyoD発現が低下しなかった細胞群で、初めてmyogeninの発現が始まり、これが最終分化への不可逆的なポイントとなり分化が進んでいく、と結論した。また、初期のMyoDの不均一化は可逆的であった。

MyoDの発現の低下が未分化なまま分化能を保持した細胞を生み出す

 MyoD発現ベクターを一過性に強制発現させた細胞は分化条件下でほぼ全部分化した細胞になった。stable transformantでも、外来性のMyoDを誘導的に発現させると、非誘導時に比べて有意に高い割合の細胞がmyogenin陽性になった。この実験から未分化なまま分化能を保持した細胞になる予定だった細胞が、MyoDを発現させられたため分化する集団にまわることになり、初期のMyoDの発現の低下が未分化なまま分化能を保持した細胞を生み出していることが示唆された。

2)上皮特異的な分化制御転写因子ESE-1の、角膜上皮細胞における発現と、細胞分化との関わり角膜上皮細胞は上皮特異的転写因子ESE-1を発現している

 in situ hybridization法で、上皮特異的転写因子ESE-1がマウス成体の角膜上皮に発現していることを示した。HCE2細胞系でESE-1の発現は細胞が分化するに伴い増加し、ESE-1が角膜上皮細胞においても分化と関わりがある可能性を示唆した。

HCE2細胞でもC2C12細胞と同様に分化誘導によって不均一な細胞集団を形成する

 分化したHCE2細胞系も不均一な細胞集団であることに注目した。すなわち重層化した部分と単層のままの部分がみられた。そこで角膜特異的な分化マーカーのK3ケラチンの抗体染色を調べた。HCE2細胞が未分化な状態では陰性だったが、分化誘導したところ、重層化部分では陽性、単層部分ではこれが陰性であった。つまり、分化した細胞と分化しない細胞の両者が出現することがわかった。

HCE2細胞系のESE-1の発現も分化に伴い不均一化する

 cell in situ hybridization法でESE-1の発現を調べた。未分化なHCE2系では、ESE-1はすべての細胞で弱く発現し、分化した系では、分化部分では陽性で未分化部分では陰性あるいは弱陽性であった。したがって分化マーカーや転写因子の発現パターンはC2C12細胞系の場合と似ていた。

ESE-1の角膜上皮細胞における機能

 HCE2細胞にESE-1のアンチセンスRNAを強制発現させたところ、K3ケラチン発現細胞の割合は低下した。したがってESE-1は角膜上皮細胞において分化を促進する、あるいは分化に必須な条件であることが示唆された。

まとめと展望

 私はこの論文で、C2C12細胞を用いて、分化した培養細胞系の中で一見’残り物’に見えた未分化な細胞が分化能を保持しており、これにMyoDファミリーの発現が深く関わっていることをみた。この未分化な細胞が、個体における幹細胞に類似した役割を担っている可能性も考えられ、これを考察した。また、C2C12細胞系、HCE2細胞系ともに、未分化な状態では均一な細胞集団だったのが、分化すると、転写因子と分化マーカーがともに陽性の細胞集団とともに陰性(あるいは弱陽性)の細胞集団からなる不均一な細胞集団となることをみた。これは、様々な細胞系において普遍的に、転写因子が、一部の細胞を分化へ導き、他の細胞を未分化な状態を保たせておく、いわば司令塔の役割を果たしていることを示唆する。

 角膜上皮においては、今まで分化に関与する転写因子の発現や機能に関する報告はなく、本研究でESE-1に取り組んだのが初めてである。臨床的に角膜上皮は疾患の場として重要であり、細胞レベルでの分化機構の研究は角膜上皮疾患の病態のさらなる解明のためにも必須である。

 転写因子による細胞分化の制御機構をさらに研究することにより、個体レベルで、組織の正常な新陳代謝や、成長、修復の機構の解明、ひいては臨床応用につながっていくものと信じる。

審査要旨

 本研究は、転写因子による遺伝子発現制御が組織の恒常性に関与している可能性を検討するために、骨格筋細胞分化系および角膜上皮細胞分化系を用いて解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.マウス樹立筋芽細胞株C2C12において培地中の血清除去により分化を誘導すると、多核の筋管細胞と単核の細胞からなる不均一な状態となるが、前者は、筋分化において中心的な役割を演ずるMyoDファミリーの筋分化因子(MyoD、myogenin、Myf-5、MRF4)が陽性、後者はこれが陰性であった。後者の未分化な単核細胞は、p21WAF1陰性、増殖細胞核抗原(PCNA)は陰性かごく弱い陽性で、再び血清存在下におくとPCNAが強く誘導されたことから、ゆるやかに細胞周期を回っていることがわかった。

 2.分化したC2C12系において未分化な単核細胞のみ選択して増殖条件で培養すると、再びMyoDを発現し、これを分化条件におくと元の細胞と同様に筋管細胞と未分化な単核細胞に不均一化した。したがって分化した系における未分化な細胞は分化能を保持していることが示された。

 3.C2C12細胞を分化誘導すると、一部の細胞でのMyoDの発現低下がmyogeninの発現と不可逆的な最終分化に先行して早期に起こった。またMyoDの強制発現実験から、このMyoDの発現低下が未分化なまま分化能を保持した細胞を生み出していることが示唆された。

 4.最近報告された上皮特異的な分化制御転写因子ESE-1の角膜上皮における発現は不明であったが、これがマウス成体の角膜上皮に発現していることをin situ hybridization法を用いて示した。ヒト樹立角膜上皮細胞株HCE2においてESE-1の発現量は分化に伴い増加した。

 5.HCE2細胞系もC2C12細胞のように、分化誘導するとK3ケラチン陽性の重層化部位と陰性の非重層化部位に不均一化した。ESE-1が前者では陽性、後者では陰性であった。

 6.HCE2細胞にESE-1のアンチセンスRNAを強制発現させるとK3ケラチン発現細胞の割合が低下したことから、ESE-1は角膜上皮細胞において分化に必要な条件であることが示唆された。

 以上、本論文はマウス樹立筋芽細胞株において、分化した細胞系の中で一見残り物にみえた未分化な細胞が分化能を保持しておりこれに転写因子であるMyoDファミリーの発現が深く関わっていることを明らかにした。加えて様々な細胞系において普遍的に転写因子が一部の細胞を分化へ導き他の細胞を未分化な状態を保たせておく司令塔の役割を果たしている可能性を示した。また今まで分化に関与する転写因子の発現や機能に関する報告がなかった角膜上皮細胞において、ESE-1が発現しており分化の必要条件である可能性を示した。以上のことから、本研究は、学位の授与に値するものと考えられる。

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