学位論文要旨



No 114579
著者(漢字) 佐藤,恵子
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ケイコ
標題(和) 臨床試験における医療情報開示の重要性と情報提供方法の開発 : 患者をサポートするための情報提供用文書の作成と評価
標題(洋)
報告番号 114579
報告番号 甲14579
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1499号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大江,和彦
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 大塚,柳太郎
 東京大学 教授 上西,紀夫
 東京大学 教授 樋口,範雄
内容要旨 I はじめに

 インフォームド・コンセントは、「患者が十分な医療情報を与えられ、理解した上で同意すること」と訳されるが、その本質は、医療方針を共同で決定するために情報を共有し、医師が患者の理解と意思決定を助けるための支援を行うことにある。したがって、医師には、医療を受けるかどうか判断するのに必要な情報を患者に理解できるように提供することが求められる。しかし、日本の医療においては、パターナリズムが長い間是認されていたため、インフォームド・コンセントを義務づける法律や倫理規範は存在せず、臨床試験を実施する際においても、被験者本人から同意を得ることは適正に行われていなかった。また、がんのような難治性疾患の場合は、病名すら知らされないことも多く、患者に十分な医療情報が提供されているとは言い難い。

 最近、日米欧の臨床試験国際協調のためのガイドライン(ICH-GCP)の公表や、相次いで起こった薬害を契機に、医療のあり方全体が見直されることとなり、リスクをはじめとした医療情報を患者に提供することの重要性が認識されるようになった。臨床試験においては、被験者本人からインフォームド・コンセントを得ることが義務づけられた。しかし、医療環境の整備は始まったばかりであり、医師は、患者や被験者に必要な情報を提供することに慣れておらず、難解な医療の内容をしろうとである患者に理解してもらうための方法の提案も行われていない。そこで、本研究では、乳がんの術後補助化学療法の市販後臨床試験(以下N・SAS-BC試験と略)を対象に、

 1)患者の臨床試験に対する理解を促進し、参加・不参加を決めるために必要な情報を提供する文書(説明文書)を開発し、評価すること、

 2)臨床試験に参加した患者の参加意欲を維持し、抗がん剤治療中の自己管理やセルフケアを支援する情報を提供する小冊子(N・SAS-BCノート)を開発し、評価することを目的とした。

II 臨床試験の説明文書の開発と評価

 説明文書(初版)は、米国連邦規則やICH-GCPなどの規定を満たし、米国で使用されている説明文書を参考に作成した。試験を実施する研究者自身が説明に慣れていないことや臨床試験が一般の人になじみがないことなど、日本の状況を考慮にいれ、文書の構成、記述内容、表現を検討し、作成した。説明文書は、臨床研究の説明と試験への参加を依頼する「試験へのご協力のお願い」、試験内容の詳細を説明した「試験の説明」、同意書、および説明を行う担当医師への注意を書いた「担当医師の皆様へ」から構成した。また、臨床試験の意義や目的の説明、ランダム割り付けの説明などを大幅に加えた。

 試験の登録開始から1年後の改定GCPへの移行を機に、試験を実施している医師の説明文書(初版)に対する意見を聴取したところ、情報量が多い、副作用の記述に工夫が必要などの意見が得られた。これらの意見および臨床試験の進行に伴って得られた副作用に関する情報に基づき、説明文書(改訂版)を作成した。改訂版には、説明のための図も挿入した。

 また、実際にN・SAS-BC試験の口頭説明を受け、説明文書を手渡された患者13名(試験参加8名、不参加5名)を対象に、説明内容の理解度、説明文書の読みやすさ、説明文書の有用性、説明方法に対する評価、情報を得ることに対する意識について調査した。調査は、自記式質問紙および質問紙を用いた半構造化面接にて行った。その結果、説明内容に対する理解度は「試験期間」を除いて総じて高く(図1)、正解項目を1点とした合計得点(17点満点)の平均は15.5点であった。また、全員が説明文書を読んでおり、見やすく読みやすいと回答し、説明文書は、医師の説明の補足や、臨床試験の参加・不参加を決めるのに役に立ったと回答した。説明を受けて不安や心配が増したという患者が2名いたが、患者は全員、臨床試験に参加を依頼するときは、詳細な情報を得ることが必須であり、口頭と文書による説明が必要と回答した。

図1 説明内容に対する理解度(n=13)Q1:病名 Q2:治療内容 Q3:治療目的 Q4:臨床試験とは Q5:説明された治療は試験か Q6:治療を受けないときの不利益 Q7:使用薬剤 Q8:副作用の種類 Q9:代替治療 Q10:臨床試験の目的 Q11:試験期間 Q12:参加の自由 Q13:不参加時治療受けられるか Q14:開始後中止できるか Q15:治療法の決め方 Q16:なぜQ15のような方法で決めるか Q17:医師は質問に答えるか
III 乳がん臨床試験参加者のための小冊子「N・SAS-BCノート」の開発とその有用性の評価

 「N・SAS-BCノート(以下ノートと略)」は、米国がん研究所や米国がん学会などが患者向けに提供している情報を参考に作成したが、N・SAS-BCで行われる治療に限定した情報を掲載した、独自の小冊子である。

 ノートは、カレンダーとメモ欄をつけた「治療のスケジュール」欄と、治療中の生活に役立つ情報を掲載した「情報のページ」欄で構成した。「治療スケジュール」には、患者が経口剤の服薬状況や体調のチェックなどの自己管理を行うための記載欄を2年分と治療終了後の年間カレンダーを10年分つけた。「情報のページ」には、臨床試験の説明、治療で用いられる抗がん剤と副作用の説明、副作用の対処方法や予防方法をはじめ、セルフケアに関する情報や肉体的・精神的ストレス軽減のためのアドバイス、家族への協力依頼などを載せた。内容の記載にあたっては、禁止や教訓を極力避け、実践的で現実的な記述とした。

 ノートを実際に手渡された患者131名を対象に、郵送による質問紙調査を行った(回収率93%)。調査内容は、使用実態と情報の有用性に対する評価、医療情報を得ることに対する意識、ノートに対する意見や要望である。ノートの使用実態に関しては、「治療のスケジュール」欄については、服薬や体調のチェックに使用している人は8割だったが、診察に携帯する人は6割だった。「情報のページ」については、ほとんどの人が読んでおり、読みやすいと回答した。情報の有用性に対しては、情報の内容によって「役に立つ」と回答した人の割合に差がみられたが(図2)、いずれの項目も「役に立たなかった」という回答はほとんどなかった。ノートの有用性に関しては、9割が「治療や治療中の生活の役に立った」と回答し(図3)、6割が「医療者と話をするのに役に立った」と回答した。

 回答者の9割が、化学療法を受ける患者本人が体調や内服薬のチェックをしたり、副作用やその対処方法について知ることが必要と回答し、N・SAS-BCノートのような小冊子を他の化学療法を受ける患者や臨床試験の参加者に提供する必要があると回答した。また、9割の人が、「乳がんや治療について最新の医療情報も含めてできるだけ多くの情報がほしい」と回答しており、N・SAS-BC試験についても、「どのように運営されているかや試験の結果を知りたい」と回答した。

図2 項目別情報の有用性図3 治療中の生活における有用性
IV 考察

 N・SAS-BC試験の説明文書は、連邦規則やICH-GCPの基準を満たすものであり、簡単な口頭による同意や不十分な説明文書による説明で臨床試験が行われていた改定前GCP当時としては、先例のない試みであった。また、N・SAS-BCノートのような臨床試験独自の小冊子を作成し、参加者に提供することは、日本でも初めての試みである。

 説明文書は、臨床試験の説明、治療内容、副作用の説明などについて大幅に加筆しているため、情報量は米国で使用されているものよりも3〜4倍多いものとなった。患者の試験内容に対する理解度は総じて良く、患者は、試験の内容をよく理解し、参加・不参加を決めていることがわかった。治療法がランダム割り付けで決められることは、患者に理解されにくいといわれるが、今回の調査では、全員がランダム割り付けの目的と方法を正しく回答しており、適正に説明すれば、理解されることが明らかとなった。また、患者は全員、説明文書が医師の説明の補足や、参加・不参加を決めるのに役に立ったと回答しており、説明文書が患者の臨床試験や治療内容に対する理解を促進し、試験への参加を自発的に決めるのに有用であることがわかった。

 一方、N・SAS-BCノートは、多くの人が内服薬や体調のチェックに利用しており、自己管理やセルフケアの情報源として活用していた。ほとんどの患者は、ノートが抗がん剤治療を受けている間の生活に役に立ったと評価した。また患者は、乳がんの治療に関して、最新情報も含め、広範で正確な知識を得ることを希望していることがわかった。N・SAS-BC試験の実施や結果についても、大多数の人が知りたいと回答しており、継続した情報提供の必要性が示唆された。N・SAS-BCノートは、携帯に適したサイズにすること、掲載内容をさらに充実させることなどの改善点がいくつか指摘されたが、副作用を伴う治療や、長期の観察が必要となる臨床試験に参加する患者にとって、役に立つ道具の一つであることが明らかとなった。

 日本には、詳細な情報を提供することに対し医療側の抵抗があるが、患者は、臨床試験や自分の受ける治療に関して、的確で十分な情報を得ることを希望しており、今回作成した説明文書とN・SAS-BCノートについて、情報提供方法の有用性を評価した。このような実践的な提案を通じることによってのみ、インフォームド・コンセントという抽象的な理念を浸透させることができる。

IV 結論

 1)N・SAS-BC説明文書は、患者の臨床試験に対する理解を促進し、試験への参加・不参加を決めるのに有用であること、

 2)N・SAS-BCノートは、臨床試験に参加した患者の参加意欲を維持し、抗がん剤治療中の自己管理やセルフケアを支援する情報を提供するものとして有用であること、が明らかになった。

審査要旨

 本研究は、臨床試験への参加を依頼される患者および臨床試験に参加した患者に対する医療情報の提供方法を提案したものである。乳がんの術後補助化学療法の市販後臨床試験(以下N・SAS-BC試験と略)を対象に、試験への参加を依頼する際の情報提供方法として、患者が試験への参加・不参加を決めるために必要な情報を平易に記述した説明文書が作成され、評価が行なわれた。また、臨床試験に参加した患者に対する情報提供方法として、抗がん剤治療中の自己管理やセルフケアを支援するための情報を記載した小冊子(N・SAS-BCノート)が開発され、評価が行なわれた。

 主要な結果は以下の通りである。

 1.N・SAS-BC説明文書(初版)は、米国連邦規則やICH-GCPなどの規定を満して作成された。試験を実施する研究者自身が説明に慣れていないことや臨床試験が一般の人になじみがないことなど、日本の状況を考慮にいれ、文書の構成、記述内容、表現を検討し、作成された。

 2.説明文書は、臨床試験の説明と試験への参加を依頼する「試験へのご協力のお願い」、試験内容の詳細を説明した「試験の説明」、同意書、および説明を行なう担当医師への注意を書いた「担当医師の皆様へ」から構成されている。また、臨床試験の意義や目的の説明、ランダム割り付けの説明などの詳細が記載された。

 3.説明文書(初版)に対する試験実施医師の意見、および臨床試験の進行に伴って得られた副作用に関する情報に基づき、説明文書が改訂された。

 4.N・SAS-BC試験の口頭説明を受け、説明文書(改訂版)を手渡された患者13名を対象に、説明内容の理解度、説明文書の読みやすさ、説明文書の有用性、説明方法に対する評価、情報を得ることに対する意識について調査が行われた。その結果、説明内容に対する理解度や利用度は総じて高く、見やすさ読みやすさ、有用度に関しても高い評価が得られた。これらのことから、説明文書は、試験や治療に対する患者の理解を促進し、試験への参加・不参加を決めるために有用であることが確認された。

 5.「N・SAS-BCノート」は、米国がん研究所や米国がん学会などが患者向けに提供している情報を参考にし、N・SAS-BCで行なわれる治療に限定した情報を提供する小冊子として作成された。

 6.N・SAS-BCノートは、患者が治療中の自己管理を行うための「治療のスケジュール」欄と、抗がん剤と副作用の説明、副作用の対処方法やセルフケアに関する情報など、治療中の生活に役立つ情報を掲載した「情報のページ」欄で構成されている。

 7.N・SAS-BCノートを手渡された患者131名を対象に、使用実態と情報の有用性に対する評価、医療情報を得ることに対する意識、意見や要望などが調査された。

 8.N・SAS-BCノートは、多くの人が内服薬や体調のチェックに利用しており、自己管理やセルフケアの情報源として活用していた。9割の患者は「治療や治療中の生活の役に立った」と回答し、6割が「医療者と話をするのに役に立った」と回答したことから、N・SAS-BCノートの有用性が確認された。

 以上、本論文は臨床試験の対象となる患者に対する情報提供方法、特にインフォームド・コンセントを得る際の説明文書および試験参加者に対して臨床試験独自の小冊子の提供を提案した初めての研究である。提案された方法は、臨床試験を倫理的に行なうために必須であるのみならず、今後の医療における情報提供方法を検討する際に非常に有用なものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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