内容要旨 | | マラリアは,熱帯地域を中心に発症数,死亡数から見ても最も重篤な病気の一つである.マラリア撲滅計画は,薬剤耐性のマラリア原虫や媒介蚊の出現により1970年代にマラリア・コントロール計画へと後退し,未だに決定的な対策は確立されていない.1985年に開催された第38回World Health Assemblyにおいて,マラリアコントロールは各国のプライマリヘルスケア(PHC)システムの一部として開発されるべきである,と推奨された. 本研究の対象地であるパプアニューギニア・マヌス州は,マラリアの罹患率が高く,死亡の重要な要因である.本研究では,マヌス州に属するバロパ地区を対象とした医学生態学調査の一部として,4村を対象に,マラリアに関する調査を行った.本研究の第一の目的は,この地域における抗マラリア原虫抗体価を測定し,村落間差を地理学的条件と関連づけて明らかにすることである.第二の目的は,聞き取り調査によるPHCの6要因と,行動観察調査の結果を抗マラリア抗体価と関連付けるとともに,PHC要因間の関連性を明らかにすることである.そして最終的には,マラリアコントロール計画に有効な示唆を与えることである. 本論文は,第一章において,測定した抗マラリア原虫抗体価における小環境内での相違を環境要因から検討し,第二章においては聞き取り・行動観察調査の結果に基づき,PHCの観点から変数間の関連を検討した. 第一章:パプアニューギニア・マヌス州島嶼部の村落間における抗マラリア抗体価レベルの相違緒言 パプアニューギニア・マヌス州では,生活様式の近代化に伴い糖尿病や高血圧などの慢性疾患が近年増加しているが,マラリアによる罹患率及び死亡率は依然として高く,マラリア対策は重要な課題である.しかしながら,これまでほとんどマラリアに関する研究は行われてこなかった. マヌス州のバロパ地域は,ロウ・パム・バルアンの3つの有人島から成っている.各島に位置し生活様式が類似している3村と,バルアン島に居住しているが生活様式の異なる1村(モウク村)の計4村を選び,採血後,間接蛍光抗体法(IFAT)を用いて血清中の抗マラリア原虫抗体価を測定した.本研究の目的は,抗マラリア原虫抗体価を測定することでマラリア原虫への長期的な暴露状況を明らかにし,媒介蚊の密度と関連する環境要因と抗体価の村落間差とを関連づけ,検討することである. 対象と方法1.対象 15歳以上の男女197名(ソラン村(以下ロウ)54名,ンガンバオイ村(以下パム)45名,ペレリク村(以下バルアン)37名,モウク村(以下モウク)61名)を対象とした.前出の3村の住民は,焼畑農耕と小規模な漁撈を生業とし,一部換金作物の栽培も行っている.モウク村は,ペレリク村のあるバルアン島に位置するが,住民は焼畑耕作をほとんど行わず,漁撈とコプラ作りを中心とした生活様式を維持している.バロパ地域は,ほぼ赤道直下にあり,気温及び降水量は年間を通して大きな変化は見られないが,4村間には小規模な環境要因の違いが見られた. 2.方法 抗マラリア原虫抗体価は,IFATにより測定を行った.対象地で採血した血液サンプルは30分間遠心分離し,血清と血餅とに分離し,フリーザーに保管後,研究室での実験に供試した.すべての測定は,群馬大学医学部寄生虫学教室において行った.抗原スライドグラスは,培養による熱帯熱マラリア原虫,及び三日熱マラリア患者の血液から作成した.血清はPBSを用いて4-4096倍に希釈し,希釈した血清をスライドグラス上に固定した抗原の上に置き,37°Cで30分間抗原抗体反応させた.PBSで洗浄し,次に蛍光標識抗体と反応させ同様に保温した.その後PBSで再度洗浄し,落射型蛍光顕微鏡(Olympus BH2-RFC)下で抗体価を判定した.ここで,最大希釈倍率を抗体価として定めた.統計的検定はSAS統計パッケージを用い,村落間差および性差についての検定を行った. 結果と考察 4村間には,抗熱帯熱マラリア原虫抗体価(2=33.5,p<0.001 for males;2=49.5,p<0.001 for females),抗三日熱マラリア原虫抗体価(2=36.8,p<0.001 for males,2=47.2,p<0.001 for females)ともに有意な差が見られた.抗体価レベルは,モウクで最も高く,ロウ,バルアンの順に低く,パムで最も低レベルであった. マヌス州のマラリア媒介蚊については,先行研究及び調査時に収集した蚊からAnopheles farauti(No.1?)が対象地における主要な媒介蚊と考えられた.バロパ地域では川や池は見られず,この種の生息条件に合っていた. 4村間で観察された抗体価の相違は,主にそれぞれの村の地形学的要因に起因すると考えられた.パムで抗体価が最も低かった原因として,海岸線が切り立っており,媒介蚊の生育環境が出来にくいことから,蚊の数が少ないことがあげられる.対照的に,モウクでは水の溜まりやすい場所(高度差の少ない低地)や井戸が存在し,またロウでは高波の侵入によって形成された汽水プールが存在することから,媒介蚊の繁殖に適した「広域の」環境が提供されると考えられた.同じ島に位置するバルアンとモウクの間にも,熱帯熱マラリア原虫抗体価(Z=-6.2,p<0.001),三日熱マラリア原虫抗体価(Z=-7.5,p<0.001)ともに有意な差が見られた.この相違に関連する要因としても,モウクにおける低地及び井戸の存在が重要と考えられた. マラリア対策の観点から考えた場合,モウクでの抗体価レベルをバルアンでの抗体価レベルまで落とすことが考えられる.モウクにある井戸については,埋めたり位置を変えたりすることは困難ではないが,モウクの水の溜まりやすい場所,およびロウの汽水プールを無くすことは簡単ではなく,多くの労力・努力が必要である. 第二章:パプアニューギニア・バロパ島嶼部住民における抗マラリア抗体価の相違と関連したPHC要因の評価緒言 パプアニューギニア・マヌス州に属するバロパ地域で4村を選び,抗マラリア原虫抗体価を測定したところ,4村間で抗体価に有意な差が見いだされた.同じ島に位置するバルアンとモウクの間にも有意な差が見られ,これらの差は,主にそれぞれの村のもつ地形学的要因に起因すると考えられた. 本研究では,6つのPHC変数が抗マラリア原虫抗体価の違いに及ぼす影響と,それらPHC変数間の関連について検討を行った.抗体価に直接的に関連すると仮定した変数は,1)蚊帳の使用,2)蚊の駆除,3)治療行動,である.これらの変数に影響を及ぼす変数として,4)知識レベル,知識レベルと関連する変数として,5)学校でのマラリア教育,6)ヘルス施設でのマラリア教育,を用いた.媒介蚊が吸血を行う時間帯18:00〜20:00に,住民が過ごした場所の検討も行った. 対象と方法1.対象 第一章で対象とした同じ4村において,マラリアに関する聞き取り調査を,15歳以上の男女262名(ソラン村68名,ンガンバオイ村44名,ペレリク村68名,モウク村82名)を対象として行った.また,バルアン島に位置する2村,ペレリク村とモウク村において,それぞれの村の全員(調査時)67名,97名を対象として行動観察調査をおこなった. 2.方法 [聞き取り調査]:マラリアに関連する項目をPHCの視点から24選び,各個人ごとに調査者が聞き取りを行った.質問は現地語,もしくは公用語であるピジン語を用いて行い,現地アシスタントの助力を得て常に質問の内容を理解しているかどうか,の確認を行った.聞き取り後,24の変数を6つのPHC変数に変換した.PHC6変数に「村」「性」「年齢」変数を加えカイ二乗検定,ロジスティック回帰分析を行い,変数間の関係を見るためにCochran-Mantel-Haenszel統計量を計算した. [行動観察調査]:定位置観察法及び時間短縮型スポットチェック法を改変し,早朝から就寝前の時間帯における各住民の行動及び居場所を14日間記録した.データは就寝前の時間帯のみ分析に用い,抗体価レベルで分けた2群間で比較を行った. 結果と考察1.抗マラリア原虫抗体価とPHC変数 6つのPHC変数及び3つの属性(村・性・年齢)を独立変数とし,ステップワイズ法によるロジスティック回帰分析を行った結果,「村」と「知識レベルと治療の交互作用項」が選択された.抗マラリア抗体価レベルを説明する上で「村」変数の寄与が大きく,この結果は第一章の研究結果の結論を支持した. 蚊帳の使用と抗体価には負の有意な関連が見いだされた.これは,蚊の密度が低い村落(特にンガンバオイ村:抗体価が低い)で蚊帳を用いる住民が少なく,密度が高い村で多い傾向を反映していた.また,行動観察調査の結果,マラリア媒介蚊(An.farauti)の吸血時間帯(18:00〜20:00)に,一人も蚊帳に入っていなかったことも,蚊帳の使用が抗体価の低下に貢献しない原因の一つであると考えられた. 2.PHC変数間の関連 抗体価に関連すると考えられる,蚊帳の使用,蚊の駆除,治療行動という3変数の中で,知識レベルと有意な正の関連が見られたのは蚊帳の使用だけであった.また,知識レベルと二種のマラリア教育の有無との間には,学校での教育経験が正に関連した傾向を見せたものの,治療機関での教育経験は負に関連した傾向が見られた.後者は高齢者で多く見られることがその原因と考えられ,マラリア対策では特に学校におけるマラリア予防教育が重要と判断された.これらの関係を総合すると,学校でのマラリア教育→知識レベル→蚊帳の使用という.PHCにおけるマラリア対策は住民の行動にまではつながっており,それなりに機能しているといえる. 3.蚊帳使用と蚊の駆除における関連性の相違 最後に,知識レベルが蚊帳の使用と関連していたにもかかわらず,蚊の駆除は関連しなかったことについて考察を加える.蚊の駆除はパプアニューギニア政府が推奨していることの一つであり,環境のプライマリケアという視点からも重要であるが,直接的なメリットが住民にとって見えにくいことがその原因と考えられた. |
審査要旨 | | 本研究は,特に熱帯地域の発展途上国において居住者の生存を脅かす最も重篤な病気の一つであるマラリアに関して,その流行度と住民の対策行動及び環境要因との関連について検討したものである.長期間にわたるフィールド調査に基づいた直接観察による住民の行動パタンの把握と,聞き取り調査によるマラリアに関する知識及び対策行動の把握と分析を行い,生体試料の分析結果とともに検討を行うことで,マラリアの流行度に関する生態学的な解析を試みた.また本研究は,解析を行う上で新たにモデルを構築し,そのモデルに基づいて諸要因間の関連の解析を試みたものであり,下記の結果を得ている. 1.マラリアは,島嶼部地域の海岸沿いに位置するという類似した環境においても,蚊の繁殖に適した広域の環境条件だけではなく比較的小規模な環境条件によって,熱帯熱マラリア及び三日熱マラリア流行度には大きな違いが生じることが示された.この結果は,24項目にわたる住民の知識レベルや対策行動などを組み込んだロジスティック回帰分析の結果からも支持された. 2.教育機関におけるマラリア教育は,マラリアに関する住民の知識レベルと有意に正に関連しており,住民の知識レベルは蚊帳の使用と有意に正に関連していたことから,学校教育-知識レベル-蚊帳使用というプライマリヘルスケアの観点からのマラリア対策は,住民の行動まで機能していることが示された. 3.マラリア対策行動の一つである蚊帳の使用は,マラリア原虫に対する抗体価レベルを低下させる上で有効ではなかった.その主な原因は,蚊帳の使用が夜間の就寝時だけに限られ,マラリア媒介蚊の活発な活動時間帯である就寝前の時間に蚊帳を使用している住民が皆無であったためであることが示された.しかしながら,蚊帳使用を促進するためには「蚊帳の中が暑い」などといった住民の不満を考慮に入れる必要があり,対策を見直す必要のあることが示された. 4.本研究対象地では,マラリア対策として蚊の駆除も行われていたが,駆除を行う住民の割合やその頻度は高くなく,蚊の駆除と住民の知識レベル及び抗マラリア抗体価との間にはともに有意な関連が見られなかった.蚊の駆除は,環境のプライマリケアという視点からも重要であるが,直接的なメリットが住民にとって見えにくいことがその原因であると考えられた. 5.プライマリヘルスケアの観点から,本研究対象地における全体として非常に高いマラリア流行度を低下させるためには,薬剤浸漬蚊帳あるいは薬剤浸漬カーテンの導入に加え,住民が定期的に実施しているコミュニティ活動に蚊の駆除を組み込んでいくアプローチが最も有効であり,かつ現実的であると考えられた. 以上,本論文は,マラリア流行地におけるマラリア流行度と流行地居住者の対策行動及び環境要因との関連を明らかにし,研究対象地におけるマラリア対策に対して有効かつ実行可能な提言を行った.本研究は発展途上国におけるマラリア,人間,及び環境要因間の複雑な関連の解明に重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる. |