学位論文要旨



No 114597
著者(漢字) 隆,志群
著者(英字)
著者(カナ) ロン,シグン
標題(和) 哺乳類細胞(PC12)におけるD-アスパラギン酸の動態
標題(洋)
報告番号 114597
報告番号 甲14597
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第858号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今井,一洋
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 荒川,義弘
 東京大学 助教授 新井,洋由
内容要旨

 生体組織、生体液中に存在するタンパク質の構成アミノ酸や遊離アミノ酸は、従来L型のみであり、D型アミノ酸は下等生物にのみ存在するとされてきた。しかし近年、特に80年代後半から、種々のD-アミノ酸が下等生物ばかりではなく、哺乳類に至るまで予想以上に高濃度に存在することが明らかになった。なかでも、D-アスパラギン酸(D-Asp)は哺乳類体内で高濃度に存在しており、どのような役割を果たしているか注目されている。当教室においては、胎生ラット脳内及び生後ラットの松果体、下垂体、副腎、精巣などの組織で、D-Aspが特定の細胞群に局在すること、その組織の成熟に対応して、D-Asp量が一過的に上昇し、その局在性も変化することなどが明らかになった。また、松果体実質細胞の初代培養系において、D-Aspはadrenergicな刺激に対応して放出され、おそらくグルタミン酸受容体を介してメラトニン分泌を抑制することが示された。さらに、D-Aspは精巣ライディッヒ細胞のテストステロン合成を促進することも明らかになった。このようにD-Aspの生理作用を示唆するデータは蓄積されつつある。しかし、高等動物体内、特に哺乳類体内でD-Aspが実際に合成されるか否かは明らかになっていなかった。なぜなら、D-Aspは、食餌からも取り込まれることが示されていたからである。そこで、私は、この問題を解明するため、株化した細胞を用いてアプローチすることにした。細胞種としては、D-Aspの組織分布を踏まえた上で、神経細胞の特性を保有する副腎髄質褐色細胞腫由来のPC12細胞及びそのミュータントを用いて、これらの細胞におけるD-Aspの合成と動態を調べた。

1PC12細胞のおけるD-Aspの同定

 PC12細胞をDMEM増殖培地(High glucose,5%胎児牛血清,10%馬血清)または分化誘導培地TIP/DF(DMEM and F12,1:1,1%N1medium supplement,50ng/ml NGF)で培養後、細胞及び培養液のアミノ酸をメタノールで抽出し、NBD-Fで蛍光誘導体化したのち、ODSカラムさらにキラルカラム(OA2500S,OA2500R)により定性・定量分析を行った。図1に示したように、DMEMとTIP/DFの培地で培養したPC12細胞では、全Aspのうちそれぞれ14.3%(図1a)と12.4%(図1b)のD-Aspが存在していた。立体配置のみを逆転させたキラルカラムを用いて同様のサンプルを分離すると、L体とD体の流出順序が逆転したことから、D-Aspの存在が支持された(図1c)。さらに、D-Aspを立体特異的に分解するD-Asp酸化酵素(長田技大山田教授より恵与)で処理したサンプルでは、D-Aspのピークが消失したことより、D-Aspの存在が確認された(図1d)。他のD-アミノ酸(D-グルタミン酸、D-アラニン、D-セリン、D-プロリン、D-アスパラギンなど)は認められなかった。

Fig.1 Enantiomeric separation and identification of D-Asp in PC12 cells.The Asp fraction in cultured PC12 cells was enantiomerically separated by HPLC on a chiral column OA2500S.a):from DMEM-cultured cells;b):from TIP/DF-cultured cells;c):the same with b)on a OA2500R column:d):the same with b)but pretreated with D-Asp oxidase(DAO)
2培養時間及び細胞数に依存したD-Aspの増加

 上記2種類の培地でPC12細胞を4日間にわたって培養したところ、細胞内と培地中のD-Aspの含量は、培養日数と共に増加することが明らかになった(図2)。また、播種した細胞数に従って、培養期間内に生成するD-Aspの量が増加した。さらに、D-Aspの生成量はNGFによる分化誘導とは関連しないことが示唆された。培養期間中には外からのD-Aspの供給がないので、これらの結果は、PC12細胞内でD-Aspが生合成されることを示唆している。なお、mouse3T3fibroblastやhuman neuroblastoma NB-1などの培養では、D-Asp含量の増加は観察されなかった。これは、D-Aspの生合成がPC12細胞に特異的であることを示唆している。

Fig.2 Time-dependent D-Asp accumulations in the cultures of PC12 Cells Bar:SD for experiments in triplicate.**:Signiticantly different compared to the control(0 day)P<0.01,n=3.
3PC12細胞におけるD-Asp生合成の確認

 PC12細胞の培養に際して、D-Aspが細胞外で生成し(例えば共生する微生物などにより)、細胞内に取り込まれた可能性がある。しかしこの可能性は以下の実験により否定された。PC12細胞は酸性アミノ酸トランスポーターを欠如しており、培地からD-Aspを取りとり込むことができない。この性質を利用して、放射性D-Aspを添加した培地でPC12細胞を2日間培養した。図3に示したように、細胞内のD-Aspの増加は、培地中のD-Asp濃度とは無関係であった。培養期間内に培地から細胞に取り込まれたD-Aspの量は最大6pmolにすぎなかった。それに対して、細胞内には約150pmolのD-Aspが生成していた。以上の結果は、D-AspがPC12細胞内で生成することを示している。

Fig.3 Exogenous D-Asp is not taken up into the cells and has no effect on the cellular levals of D-Asp in PC12 cell cultures.Bar.SD for expenments in triplicate.**:Significantly different compared to the control (0 day) P<0.01,n=3.
4D-Aspの前駆体についての検討

 D-グルコースからD-Aspが生成するか否かを検討するため、高グルコース培地に馴化されたPC12細胞からグルコース欠損培地に適応できる細胞を選別し、放射性グルコースを添加した培地で培養した。得られた細胞では、L-Aspと共にD-Aspにも微量ながら放射能が検出された。また、PC12細胞のミュータントで、酸性アミノ酸を取り込むことのできる細胞を、放射性L-Aspを添加した培地で培養したところ、放射性D-Aspが検出された。これらの結果は、D-Aspの生合成前駆体がL-Aspである可能性を示唆している。

5PC12細胞からのD-Aspの放出と細胞内局在について

 NGF存在下で培養したPC12細胞においてアセチルコリンの刺激に応じてD-Aspが放出されることが明らかになった。同時に放出されたドーパミンの量はアセチルコリンの濃度に依存して著しく増加したのに対して、D-Aspの放出は顕著には増加しなかった。この結果はD-Aspとドーパミンの放出が異なった機構によることを示唆していると考えられる。そこで、D-Aspの細胞内局在性を、抗D-Asp抗体を用いて調べた。ヘマトキシリンあるいは7-aminoactinomycin Dによる核染色との二重染色をした結果、D-Aspの免疫反応はPC12細胞の細胞質に主に観察され、vesicle内に存在することを示す染色像は得られなかった。なお、興味深いことに、PC12細胞及びそのミュータントにおいて、D-Aspの免疫反応がすべての細胞に均一に観察されるわけではなく、個々の細胞ごとに強度に著しい差が認められた。

まとめ

 上記のように、私は、キラル分離とD-Asp酸化酵素処理を利用してPC12細胞におけるD-Aspの同定を行い、哺乳類細胞におけるD-Aspの生合成を初めて証明した1)。生合成ルートについては、L-Aspが前駆体である可能性を示し、刺激に応じたD-Aspの細胞外への放出及び細胞内の分布を検討した。PC12細胞はラット副腎髄質褐色細胞腫由来のものであり、神経分泌細胞のモデルとして、神経あるいは分泌細胞の機能の解析に広く利用されている。今後、PC12細胞におけるD-Aspの生合成経路、放出機構および生理作用の解明が期待される。これにより、哺乳類体内におけるD-Aspの生理的意義に関する研究がより進展するものと考えられる。

【参考文献】1)Long,Z.,Homma,H.,et.al.FEBS Lett.434,231-235,(1998).
審査要旨

 生体組織、生体液中に存在するタンパク質の構成アミノ酸や遊離アミノ酸は、従来L型のみであり、D型アミノ酸は下等生物にのみ存在するとされてきた。しかし近年、特に80年代後半から、種々のD-アミノ酸が下等生物ばかりではなく、哺乳類に至るまで広範囲にわたり存在することが明らかになった。なかでも、D-アスパラギン酸(D-Asp)は哺乳類体内で高濃度に存在しており、どのような役割を果たしているか注目されている。また、D-Aspは食餌からも取り込まれることが示されていたため、高等動物体内、特に哺乳類体内で実際に合成されているか否かは明らかになっていなかった。本論文で、隆志群は、株化した細胞(副腎髄質褐色細胞腫由来のPC12細胞)をもちいて、哺乳類細胞内のD-Aspの生合成と動態について解析している。

 まず、PC12細胞内にD-Aspが存在することを、キラルカラムを用いたHPLCにより同定した。さらに、立体配座の逆転したキラルカラムとD-Aspに対して立体特異的なD-Aspオキシダーゼを用いて、D-Aspであることを確認した。このD-Aspは、培養日数および播種した細胞数に依存して増加することが明らかになった。培養系では外からD-Aspの供給がないので、この結果は、D-Aspが合成されることを示している。この際、培地中で微生物などにより生成したD-Aspが細胞内に取り込まれた可能性は、PC12細胞が外来性のD-Aspを取り込むことができないことを証明し否定した。D-Aspが哺乳類細胞で合成されることを初めて証明したのは初めてである。D-Aspの合成は、3T3繊維芽細胞やNB-1神経芽細胞腫では認められず、PC12細胞に特異的であることも示し、また、多量の試料にも対応できるように、アスパラギン酸の光学分割法を改良し、これを利用して放射性のL-AspからD-Aspが生成されることを示し、L-AspがD-Aspの前駆体である可能性を示している。

 次に、PC12細胞の亜株で、D-Aspを取り込むことの出来る細胞を用いて、取り込まれたD-Aspが、脱分極やカルシウムイオノフォア刺激に応じてCa依存的に細胞外へ放出されることを観察した。また、D-Aspの細胞内局在性を、抗D-Asp抗体と共焦点蛍光顕微鏡を用いて観察したところ、D-Aspは、細胞内では核の近傍に局在し、見かけ上顆粒状に存在した。さらに、染色体の染色から判断した分裂期にある細胞では、D-Aspの免疫反応が濃く観察された。また、分裂のため盛り上がった形状をした細胞では、他の平坦な細胞よりもD-Aspの強い免疫反応が認められることが示され、D-Aspが細胞周期と何らかの関連があるのではないかと指摘している。

 以上、本論文は、哺乳類細胞であるPC12細胞におけるD-Aspの生合成を明らかにし、ついでD-Aspの細胞内の動態について解析したものである。本論文の結果は、最近、哺乳類において様々な生理活性を示すとして注目されているD-Aspの哺乳類体内における生理的意義に関する研究の発展ならびに生化学、分析化学の進展に寄与するものであり、博士(薬学)の学位に値すると認めた。

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