学位論文要旨



No 114611
著者(漢字) 高須賀,俊輔
著者(英字)
著者(カナ) タカスガ,シュンスケ
標題(和) アデノシンとインスリンの情報伝達クロストーク
標題(洋)
報告番号 114611
報告番号 甲14611
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第872号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 仁科,博史
内容要旨

 インスリンの主要な生理作用の一つに、末梢組織における糖取込の促進がある。インスリンの標的の一つである脂肪細胞において、アデノシンが細胞膜上のA1受容体を介して、インスリンの作用を増強することが報告されている。私が解析に用いたラット遊離脂肪細胞では、自発的に放出された細胞由来のアデノシンが細胞懸濁液中に多量に存在する。そこで、アデノシンデアミナーゼ(ADA)を細胞に加えた時に、糖取込促進作用のインスリンに対する濃度依存性が高濃度側にシフトするという形で、細胞外に存在するアデノシンの増強作用が認められる(Table 1)。

Table 1 グルコース取込促進におけるインスリン感受性に対する細胞外アデノシンの影響

 アデノシンがインスリンの作用を増強する機構は未だ不明だが、細胞内cAMP濃度の変化に起因するものではないと考えられている。アデノシンは、インスリンと受容体の結合、および受容体チロシンキナーゼの活性には作用せず、最終的に糖取込を担っている糖輸送担体(GLUT4)の活性に対しても影響しないことが報告されている。これらの知見から、インスリン受容体を起点とし、GLUT4の膜移行に至るシグナルと、A1受容体からのシグナルがクロストークしていることが考えられた。

結果と考察

 インスリンによる糖取込促進に関る細胞内情報伝達(図1)に対するアデノシンA1受容体のシグナルの影響を検討した。インスリンの受容体への結合により、受容体チロシンキナーゼが活性化し、細胞内基質(IRS-1など)がリン酸化される。インスリン刺激時の細胞内基質のチロシンリン酸化状態を抗ホスホチロシン抗体を用いたイムノブロットにより測定したところ、アデノシンの影響は認められなかった(データ省略)。この結果から、アデノシンはインスリンと受容体の結合、受容体チロシンキナーゼの活性化を変化させないことが明らかとなった。

図1 糖取込に関るインスリンの細胞内情報伝達

 リン酸化されたIRS-1には、イノシトールリン脂質3-キナーゼ(PI3-kinase)が結合し、活性化される。PI3-kinaseはその特異的な阻害剤wortmanninおよびLY294002や、活性化型変異体、ドミナントネガティブ変異体を用いた研究により、インスリンの情報伝達において重要な役割を果たしていることが明らかになりつつある。そこで、薄層クロマトグラフィーを用いた方法を脂肪細胞にも適用可能となるように改良し、PI3-kinaseの細胞内産物(PIP3)の測定を行った。その結果、細胞をADAで処理することにより、インスリン依存的なPIP3の産生が顕著に抑制(約70%)されることが明らかとなった(図2)。

図2 PIP3産生に対するADAの影響

 インスリンの糖取込促進作用に及ぼすアデノシンの影響は、主に濃度依存性に対するものである(Table 1)。一方で、インスリンのPIP3産生に対するアデノシンの増強作用は、インスリンに対する濃度依存性の変化を伴わない(図3)。

図3 PIP3産生に対するADAの影響

 仮に、細胞内のPIP3の量に比例して、糖取込促進が起こるとすると、アデノシンによるPIP3産生の増強は、糖取込促進のインスリン濃度依存性の変化と矛盾することになる。そこで、PIP3の産生量と糖取込量の関係を検討した。PIP3の量をX軸に糖取込量をY軸に取り、インスリンの濃度を変化させた時(○)、および高濃度インスリン存在下でwortmanninの濃度を変化させた時(●)について図示した(図4)。図3、4より、アデノシン非存在下でも、3nM程度のインスリンによって、糖取込を最大限に促進するのに必要なPIP3(10〜20%)が産生されると考えられる。細胞外アデノシン存在下では、1nM弱のインスリンによって同程度のPIP3が産生されるが、この濃度の差は実際に糖取込において観察された濃度依存性の差とほぼ一致する。このことから、A1受容体によるPIP3産生の増強は、糖取込促進のインスリン感受性を変化させ得ることが推測された。

図4 PIP3蓄積量と糖取込量の関係

 細胞外アデノシンの作用が、確かにA1受容体を介しているかどうか、非水解性A1受容体アゴニスト(PIA)を用いて検討した。PIAは、ADA処理した細胞に対して、濃度依存的にインスリンによるPIP3産生を増強した(図5)。さらに、A1受容体のアンタゴニストであるPAPA-XAC、DPCPXを用いても、ADAと同程度の阻害作用を示した(データ省略)。これらの結果から、アデノシンはA1受容体を介してPIP3産生を増強することが明らかとなった。

図5 PIAによるPIP3産生の増強

 アデノシンA1受容体は、百日咳毒素感受性GTP結合蛋白質(Gi)と共役しており、アデニル酸シクラーゼに対して抑制的に働いている。インスリン依存的なPIP3産生は、百日咳毒素処理によって、ADA処理時と同程度に抑制された(データ省略)。この結果から、アデノシンA1受容体とインスリン受容体のクロストークには、Giが関与していることが示唆された。そこで、他のGi共役型受容体アゴニストにより、アデノシンの作用が代替され得るかどうか、プロスタグランジンE2(PGE2)を用いて検討した。さらに、Giの活性化に伴い引き起こされる細胞内cAMP濃度の低下こそが、アデノシンの作用機序である可能性を考え、Giの活性化を伴わずにアデニル酸シクラーゼを阻害する薬物(DDA)を用いて検討した。

 図6Aに示したように、イソプロテレノールによるcAMP濃度の上昇は、細胞外アデノシン存在下では、5〜6倍程度である。A1受容体アンタゴニスト(PAPAXAC)を加えると、アデノシンによる抑制が解除され、cAMP濃度は70〜80倍程度まで上昇する。この時、PGE2、DDAは、共に濃度依存的にcAMP濃度を低下させ、アデノシンの作用を代替した。

 一方で、インスリンによるPIP3産生に対しても、PGE2は濃度依存的な増強作用を示し、アデノシンの作用を代替した。しかし、同条件下においてDDAは全く増強作用を示さなかった(図6B)。

図6 アデニル酸シクラーゼ阻害薬の影響

 これらの結果から、インスリンによるPIP3産生のA1受容体による増強は、Giを介したシグナルによって担われていることが明らかとなった。さらに、このGiのシグナルはアデニル酸シクラーゼの抑制だけでは説明できないと考えられた。

 Giにより、他の受容体シグナルが増強される例として、アデニル酸シクラーゼ(typeIV)、およびホスホリパーゼC(3)の活性化が知られている。これらの分子は、それぞれGs共役型受容体、Gq共役型受容体刺激により活性化されるだけでなく、Gi共役型受容体刺激により遊離したG蛋白質サブユニット(G)との相互作用により、さらにその活性化が増強されると考えられている。

 そこで、インスリン受容体刺激により活性化されたPI3-kinase分子が、さらにGと相互作用することにより活性化される可能性を考え、インスリン刺激した細胞から免疫沈降したPI3-kinase分子に対するGの作用を検討した。図7に示したように、PI3-kinaseは、Gを添加することにより活性化された(約2倍)。この結果から、細胞内ではインスリン受容体刺激依存的にIRS-1と結合し、活性化(細胞膜へ移行)したPI3-kinase分子に対して、A1受容体刺激により遊離したGが相互作用し、PIP3の産生を増強していることが考えられた。

図7 GによるPI3-kinaseの活性化

 次に、インスリンによるPIP3産生に対するアデノシンの増強作用が、さらに下流の情報伝達因子にどう伝わるのかを検討した。

 PI3-kinaseから、GLUT4の膜移行に至る情報伝達に関しては、不明な点が多いが、PIP3の標的分子として同定されたプロテインキナーゼB(PKB)が、PI3-kinaseの下流で糖取込促進に関与しているという報告がある。そこで、PKBの活性を測定し、アデノシンの影響を検討した。

 PKBはインスリンによって、約30倍に活性化された(図8)。この活性化は、ADA処理により約50%抑制され、PIP3産生と同様に、細胞外のアデノシンがPKBの活性化を増強していることが考えられた。さらに、ADA存在下で、A1受容体のアゴニストであるPIAを添加することにより活性の増大が観察された。これらの結果から、アデノシンA1受容体刺激により増強されたPIP3産生に対応して、下流の情報伝達因子であるPKBの活性化も増強されると考えられた。

図8 PKB活性に対するアデノシンの影響
まとめ

 インスリンによる糖取込促進に対して、アデノシンの関与が報告されている脂肪細胞において、PIP3の測定を可能にした。この手法を用いて、アデノシンA1受容体のシグナルとインスリン受容体のシグナルの間にクロストークが存在することを、セカンドメッセンジャー(PIP3)の変化として初めて示した。このクロストークの機構として、GによるPI3-kinaseの活性化が考えられた。PIP3産生における両受容体のクロストークは、インスリンの糖取込促進に対するアデノシンの増強作用を説明し得る新たな機構として興味深いと考えられる。

審査要旨

 インスリンの主要な生理作用の一つに、末梢組織における糖取込の促進が挙げられる。インスリンの標的臓器・器官の一つである脂肪組織では、アデノシンが細胞膜上のA1受容体を介して、インスリンの作用を増強することが知られている。この増強作用は、主にインスリンの用量-作用曲線が低濃度側ヘシフトする(高感受性になる)ことによる。アデノシンによるインスリン作用の増強は、インスリンとインスリン受容体との結合の変化によるものではなく、細胞内cAMP濃度の変化にも依存しないことが示されている。これらの知見は、インスリン受容体を起点とし、糖取込に至るシグナルと、アデノシンA1受容体からのシグナルがクロストークしていることを示唆しているが、その機構は依然として不明なままである。「アデノシンとインスリンの情報伝達クロストーク」と題する本論文では、インスリン受容体刺激にはじまる細胞内シグナル経路に対するアデノシン受容体からのシグナルの影響を解析することにより、両受容体の情報伝達上でのクロストークをセカンドメッセンジャーの変化として同定し、さらにその変化を担う分子機構について報告している。

1.インスリン刺激によるイノシトールリン脂質3-キナーゼ活性化のアデノシンによる増強

 インスリンによる糖取込促進に至るシグナル伝達経路に対して、アデノシンA1受容体刺激の影響が検討された。インスリンの受容体への結合により、受容体チロシンキナーゼが活性化し、細胞内基質(IRS-1)がリン酸化される。この細胞内基質のチロシンリン酸化に対しては、アデノシンの影響は認められなかった。リン酸化されたIRS-1には、イノシトールリン脂質3-キナーゼ(PI3-kinase)が結合し、活性化される。PI3-kinaseは糖取込促進において必須の役割を担う酵素であり、細胞内ではPIP3を産生する。そこで、新たに開発した薄層クロマトグラフィーによる方法を用いて、PI3-kinaseによる反応生成物(PIP3)の測定を行った。その結果、細胞外のアデノシンがインスリンによるPIP3の産生を増強することが明らかとなった。このPIP3産生の増強は、下流の標的分子として知られるプロテインキナーゼB(PKB)へと伝達され得るものであった。さらに、PIP3産生量と糖取込量の間の関係を明らかにすることにより、A1受容体によるPIP3産生の増強が、糖取込促進のインスリン感受性を変化させ得ることを示した。

2.アデノシンによるイノシトールリン脂質3-キナーゼ活性化の増強機構

 アデノシンA1受容体は、百日咳毒素感受性のGTP結合蛋白質(Gi)と共役しており、アデニル酸シクラーゼに対して抑制的に働いている。アデノシン依存的なPIP3産生の増強は、百日咳毒素処理によって抑制され、Giが関与していることが示唆された。次に、Giの活性化に伴い引き起こされる細胞内cAMP濃度の低下が、アデノシンの作用機序である可能性を考え、Giの活性化を伴わずにアデニル酸シクラーゼを阻害する薬物(DDA)を用いて検討した。しかし、DDAはインスリンによるPIP3産生を増強することはなかった。この結果から、インスリンによるPIP3産生のA1受容体による増強は、Giを介したシグナルによって担われているが、アデニル酸シクラーゼの抑制に依存する現象ではないことが明らかとなった。Giからのシグナルを検討した結果、インスリン受容体刺激により活性化されたPI3-kinase分子が、さらにGi三量体から解離したサブユニット(G)と相互作用することにより活性化されることが示された。細胞内ではインスリン受容体刺激依存的にIRS-1と結合し、活性化(細胞膜へ移行)したPI3-kinase分子に対して、A1受容体刺激により遊離したGが相互作用し活性化することにより、PIP3の産生が増強されていることが示唆された。

 以上を要約するに、本論文はアデノシンA1受容体のシグナルとインスリン受容体のシグナルの間にクロストークが存在することを、細胞内セカンドメッセンジャー(PIP3)の変化として初めて報告している。このPIP3の変化は、その下流の因子PKBへと伝達され得るものであり、インスリンの糖取込促進に対するアデノシンの増強作用を説明し得る新たな機構として興味深い。また、このクロストークの機構が細胞内cAMP濃度の変動には依存しないことを示し、さらにGによるPI3-kinaseの直接の活性化に起因することを示唆している。これらの成果は、長らく不明であったアデノシンによるインスリン作用増強の機構を明らかとするだけでなく、生体内でのインスリン作用を考える上でも重要な知見を与えるものであり、博士(薬学)の学位として十分な価値があるものと認められる。

UTokyo Repositoryリンク