学位論文要旨



No 114620
著者(漢字) 築地,仁美
著者(英字)
著者(カナ) ツイジ,ヒトミ
標題(和) 硫酸化ルイスa糖鎖を提示したムチンとヒト大腸癌細胞の転移挙動
標題(洋) Mucin-Associated Sulfo-Lea Carbohydrates in Human Colon Carcinoma Metastasis
報告番号 114620
報告番号 甲14620
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第881号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 教授 吉田,光昭
 東京大学 教授 武藤,誠
 東京大学 教授 鶴尾,隆
内容要旨 【背景】

 癌の発生、進行および転移形成に伴い癌細胞が悪性度が増す過程で、細胞表面分子や細胞内分子の発現に変化が起こる。硫酸化ムチンは、糖鎖の末端に硫酸基が付加したムチン(O-結合型糖鎖を多く含む高分子量糖蛋白質)であり、大腸癌の進行に伴って発現量が減少する。

 モノクローナル抗体91.9Hはヒト大腸組織の粗精製硫酸化ムチンを免疫原とし作製された。この抗体の結合性はヒト正常大腸上皮組織で高く大腸癌原発巣では低く、肝転移巣ではほとんどの症例で結合性が失われている。ひとつの原発腫瘍内では浸潤部の方が結合性が低い。

 胃上皮では91.9H抗体のエピトープは発現していないが、腸上皮化性や腫瘍化に伴い検出されるようになる。また胆管、気管などの上皮にも発現がみられる。潰瘍性大腸炎や嚢胞性線維症、胆肝結石症に伴い発現量が変化することも知られている。

 これまで、大腸癌細胞における91.9H抗体の反応性が癌の進行に伴い減少する原因は不明であった。この抗体のエピトープは硫酸基が含まれていること以外には構造が不明であり、大腸癌の進行に伴って減少している抗原の構造、機能、抗原の減少する機構など、全く未解決であった。

I.91.9H抗体の認識する抗原の特定

 91.9H抗体の認識するエピトープ構造を明らかにするため、91.9H抗体と様々な構造既知の糖鎖との結合性を比較した。ポリアクリルアミドで重合されビオチン化された各種オリゴ糖のポリマーと91.9H抗体の結合性を、表面プラズモン共鳴(SPR)を利用したバイオセンサーおよびELISA法を用いて測定した1)。図1に示すように、91.9H抗体は硫酸化ルイスa抗原(図2;HSO3-3Gal1-3(Fuc1-4)GlcNAc)に強く結合し硫酸化ルイスX抗原には結合しなかった。ルイスa、ルイスX、それらのシアル化体にも結合しなかった。硫酸化ルイスaに対する解離定数KDをSPRを利用したバイオセンサーで求めたところ、5.3x10-8(M)であった。

図1:ストレプトアビジンのコートされたチップに対する、ビオチン化オリゴ糖のポリマーとそれに続く91.9H抗体の結合のセンサーグラム図2:硫酸化ルイスa抗原

 硫酸化ルイスa抗原のフコース残基をスミス分解により分解し、SPRを利用したバイオセンサーで91.9H抗体との結合を測定したところ、KDが約20分の1に減少していた。結合阻害ELISA法において、硫酸化ルイスa1残基のオリゴ糖より24残基のオリゴ糖のポリマーの方が、硫酸化ルイスa1残基に対する91.9H抗体の結合性が約770倍高かった。合成糖脂質を用いた解析では、硫酸化ルイスa、さらに還元末端にガラクトースの付加した構造、それにさらにグルコースの付加した構造の順に91.9H抗体の結合性が上昇した2)

 組織学的研究において、ルイス式血液型陽性の個体の大腸上皮のゴブレット細胞において91.9H抗体の強い染色像が得られたが、N-アセチルグルコサミン残基の4位にフコース残基を付加する酵素の欠損した、ルイス式血液型陰性の個体の大腸上皮では、ほとんど91.9H抗体で染色されなかった(図3)1)

図3:91.9H抗体を用いた上行結腸上皮組織の免疫染色 (a)ルイス式血液型陽性の個体、(b)ルイス式血液型陰性の個体。線は100mを示す。

 以上より、91.9H抗体は硫酸化ルイスa抗原を認識し、硫酸化ルイスa抗原のクラスター形成、骨格の伸長により結合性は上昇し、フコース残基の消失により結合性は減少することが判明した。

II.ヒト大腸癌細胞における硫酸化ルイスa抗原の発現様式

 硫酸化ルイスa抗原がヒト大腸癌細胞においてどのような形で提示されているか調べた。19種類のヒト大腸癌細胞株(HCCP-2998、LS174T、GEO、CBS、HCT-15、HT-29、KM12C、MOSER、C、DLD-1、HCT116、SW480、RKO、Omega、DiFi、SW620、LoVo、HCC-M1410、HCC-M1544)において、硫酸化ムチンと91.9H抗体により認識される硫酸化ルイスaの産生を調べた3)。細胞を[35S]-Na2SO4を用いて代謝標識し、細胞抽出液をコンドロイチナーゼABC、ヘパリチナーゼIで処理することでプロテオグリカンを分解した。これを電気泳動し高分子量画分の放射活性を検出することで、硫酸化ムチンの産生を調べた。19種類のうち16種類のヒト大腸癌細胞株が硫酸化ムチンを産生していた。Western blot法により、16種類のうち8種類のヒト大腸癌細胞株が91.9H抗体により認識される硫酸化ルイスaを産生してることがわかった。硫酸の取り込みのみられない細胞では抗体の結合はみられなかった。

 さらに硫酸供与体の生成阻害剤である塩素酸塩、またはO-結合型糖鎖伸長阻害剤であるBenzyl--GalNAcの硫酸化ルイスa抗原産生に対する影響を調べた。各薬剤存在下でLS174T細胞を培養することで、[35S]-Na2SO4の取り込みで示される硫酸化ムチンの産生量は減少し、91.9H抗体の結合性で示される硫酸化ルイスa抗原の産生量も減少した。[3H]-threonineの取り込みを指標に、ムチンのコアとなる蛋白質の産生量は変化していないことを確認した。以上より、LS174T細胞の産生する高分子量糖蛋白質のO-結合型糖鎖に硫酸化ルイスa抗原が含まれていることがわかった。

 一方、特定のムチンコア蛋白質に硫酸化ルイスa抗原が提示されている可能性を考え、19種類のヒト大腸癌細胞株のムチンコア蛋白質(MUC1、MUC2、MUC5AC、MUC5B、MUC6)の遺伝子発現をRT-PCR法で検出した4)

III.91.9H抗体エピトープの発現減少と転移性との関連の機構解明

 91.9H抗体エピトープの発現量を低下させることにより悪性度の上昇した細胞が生じるかを確かめるため、以下の実験を行った。ヒト大腸癌細胞株LS174TをDimethyl Sulfoxide、または塩素酸塩、またはBenzyl--GalNAc処理することにより、91.9H抗体の結合性が減少した細胞を作製した5) 。処理または未処理細胞をヌードマウスの脾臓へ注入し肝転移を観測したところ、予想に反し、91.9H抗体の結合性減少に伴い肝転移能はむしろ低下していた。

 LS174T細胞の肝転移能の高い亜株とLS174T細胞では、91.9H抗体の結合性は変わらないことも考慮し、91.9H抗体のエピトープの発現が低い癌細胞が転移性が高いわけではないと結論づけた。

 LS174T細胞をヌードマウスの盲腸に移植して得た腫瘍塊原発巣とこれに由来する肝転移巣をホルマリン固定後薄切し、免疫組織学的検討を行った3)。91.9H抗体のエピトープは盲腸原発巣のみで発現がみられた。ヒト大腸癌細胞株DLD-1でも肝転移巣における91.9H抗体結合性の消失はみられた。以上より、大腸癌細胞が肝転移を形成する際に、肝臓内微小環境からの影響で91.9H抗体エピトープの発現が抑制されていることが示唆された。

【総括】

 91.9H抗体の認識する抗原が硫酸化ルイスaであることを示した。ヒト大腸上皮組織より大腸癌原発巣が、さらにこれより肝転移巣の方が硫酸化ルイスa抗原の発現が少ないことがわかった。またこの現象は、硫酸化ルイスa抗原が大腸癌の肝臓への転移に抑制的に作用するためではなく、肝臓微小環境における因子による硫酸化ルイスa発現の抑制の結果であることを示唆した。現在、硫酸化ルイスa抗原の生合成および肝臓微小環境での発現抑制の機構を解明するため、硫酸化ルイスa抗原の生合成の鍵となる硫酸基転移酵素の遺伝子クローニングを行っている。

 硫酸化ルイスa抗原は、各種上皮系癌の腫瘍マーカーであるシアリルルイスa抗原の、シアル酸の付加位置に硫酸が付加した構造であり、両者は生合成の段階で競合関係にあると考えられる。また硫酸化ルイスa抗原は、炎症時の白血球の集積の際に重要な働きをする接着分子E-セレクチンのリガンドとなり得る。さらに最近H.pyloriと結合する可能性が示され、感染との関連も注目されている。本研究の結果は、癌の転移のみならず、生体内で多様な機能を持つと考えられる硫酸化ルイスa抗原の解析に貢献できるものと考えている。

[参考文献]1)Tsuiji,H.,Hong,J.C.,Kim,Y.S.,Ikehara,Y.,Narimatsu,H.,and Irimura,T.(1998).Novel carbohydrate specificity of a monoclonal antibody 91.9H prepared against human colonic sulfomucin:Recognition of sulfo-Lewis a structure.Biochem Biophys Res Commun 253,374-81.2)Loveless,R.W.,Yuen,C.T.,Tsuiji,H.,Irimura,T.,and Feizi,T.(1998).Monoclonal antibody 91.9H raised against sulfated mucins is specific for the 3’-sulfated Lewisa tetrasaccharide sequence.Glycobiology 8,1237-42.3)Tsuiji,H.,Hayashi,M.,Wynn,D.M.,and Irimura,T.(1998).Expression of mucin-associated sulfo-Lea carbohydrate epitopes on human colon carcinoma cells.Jap.J.Cancer Res.89,in press.4)Iida,S.,Tsuiji,H.,Nemoto,Y.,Sano,Y.,Reddish,M.A.,and Irimura,T.(1998).Expression of mucin genes and carbohydrate epitopes in nineteen human colon carcinoma cell lines.Oncol Research 10,in press.5)Tsuiji,H.,Nakatsugawa,S.,Ishigaki,T.,and Irimura,T.(1998).Malignant and other properties of human colon carcinoma cells after suppression of sulfomucin production in vitro.Clin Exp Metastasis in press.
審査要旨

 Mucin-Associated Sulfo-Lea Carbohydrates in Human Colon Carcinoma Metastasis(硫酸化ルイスa糖鎖を提示したムチンとヒト大腸癌細胞の転移挙動)と題する本論文は、「ヒト大腸癌の転移形成に伴って硫酸化ムチン発現の減少または消失が見られる」という臨床的な知見を、確固とした腫瘍生物学の枠組みの中で捉えることを目標としている。組織化学的な知見によれば、硫酸基を持つムチンは大腸粘膜上皮細胞の産生する主要なムチンのひとつであるが、大腸癌細胞によっても産生される。しかし、転移巣では発現レベルが極端に低下する。一般に、転移巣において発現レベルが上昇する分子は、癌細胞に転移しやすい形質を付与するものであることが多い。しかし、転移巣で低下する分子の重要性を解明することは容易でない。本研究では、ヌードマウスを用いた実験モデル、培養細胞を用いた実験モデル、及び免疫生化学的な方法を用いて、組織化学的な方法から硫酸化ムチンと呼ばれていた分子の少なくとも一部に、硫酸化ルイスa糖鎖(HSO3-3Gal1-3[Fuc1-4]GlcNAc)を含むムチンが存在することを示した。その結果、これ迄あいまいだった硫酸化ムチンの構造的な実体、多様な機構による発現制御、その発現と大腸癌細胞の挙動との関連等について明らかにするための基礎が築かれ、これらの研究が開始された。

 本研究はGeneral Introduction及びGeneral Conclusions以外には三つの部分から成る。各部分では、ヒト大腸硫酸化ムチンを免疫原として開発されたモノクローナル抗体である91.9Hの認識する抗原エピトープが硫酸化ルイスa糖鎖であることの証明、ヒト大腸癌細胞におけるこのエピトープを持つムチン分子の特定、このエピトープを持つムチン分子を発現しているヒト大腸癌細胞のin vitro及びin vivo(ヌードマウス)における挙動の解析をそれぞれ中心とした研究成果が述べられている。研究は各部分が同時進行する形で行われたものである。

 モノクローナル抗体91.9Hの認識するエピトープ構造を明らかにした部分では、この抗体と種々の糖鎖との結合性が比較された。ビオチン化された可溶性ポリアクリルアミド上に多価で結合するオリゴ糖のポリマーと抗体との結合性を、表面プラズモン共鳴(SPR)を利用したバイオセンサーおよびELISA法で測定する方法が用いられている。モノクローナル抗体91.9Hは硫酸化ルイスa抗原に強く結合し硫酸化ルイスX抗原には結合しなかった。硫酸基を持たない糖鎖とは結合性がなかった。従ってガラクトースの3位に結合した硫酸基及びI型バックボーン(Gal1-3GlcNAc)が必須と考えられた。さらに、硫酸化ルイスa抗原のフコース残基がこの抗体との結合に必須であることが、スミス分解法によりフコースを除去して確かめられた。

 ヒト大腸癌細胞における硫酸化ルイスa抗原を含むムチンの発現制御を明らかにすることを最終目的として、硫酸化ルイスa抗原がどのような形で提示されているかヒト大腸癌細胞株で調べた。19種類のヒト大腸癌細胞株のうち16種類のヒト大腸癌細胞株が硫酸化ムチンを産生していた。そのうち8種類のヒト大腸癌細胞株がモノクローナル抗体91.9Hにより認識される硫酸化ルイスaを産生していた。これらの大腸癌細胞に特定の遺伝子変異などの背景はなかった。硫酸化ルイスa抗原が特定のムチンコア蛋白質に提示されている可能性について探るため、19種類のヒト大腸癌細胞株のムチン遺伝子発現をRT-PCR法で検出したが、正常大腸の主要なムチンで硫酸化ムチンのコア部分の遺伝子と従来考えられていたMUC2の発現が確認できないにも関わらず、硫酸化ルイスa抗原を高レベルで産生する細胞が見い出された。一方、硫酸供与体の生成阻害剤である塩素酸塩、またはO-結合型糖鎖伸長阻害剤であるBenzyl--GalNAcの硫酸化ルイスa抗原産生に対する影響が解析された結果、やはり高分子量のムチン様糖蛋白質のO-結合型糖鎖に硫酸化ルイスa抗原が含まれていることが明らかにされた。

 大腸癌の肝転移巣において硫酸化ムチン及び硫酸化ルイスa抗原の発現レベルが減少しているという、臨床病理学的な知見の背後にある生物学的なメカニズムを実験的に確かめることが、ヌードマウスを用いて試みられた。ヒト大腸癌細胞株LS174T及びDLD-1に、培養条件を変える、細胞表面硫酸化ルイスa抗原発現バリアント細胞を選別する、硫酸化ルイスa抗原生合成を阻害するなどの処理をほどこした。肝転移形成の初期における癌細胞の挙動が、脾注後の肝への着床というモデルで検証された。硫酸化ルイスa抗原の発現と肝への着床性との関係に関して、発現バリアント細胞の取得法によって異なる結果が得られ、硫酸化ムチン発現によって肝臓内への着床性が低下するという可能性は検証できなかった。一方、LS174T細胞をヌードマウスの盲腸に移植して得た同所移植腫瘍とこれに由来する肝転移巣の硫酸化ルイスa抗原発現レベルを免疫組織学的に検討した。硫酸化ルイスa抗原は盲腸の腫瘍のみにみられた。肝転移巣から再び培養系に移した細胞では硫酸化ルイスa抗原を発現していることから、肝転移巣では肝臓内微小環境からの影響で91.9H抗体エピトープの発現が抑制されていることが実験モデルを用いて示唆された。

 以上のように本研究により、ヒト大腸粘膜上皮の硫酸化ムチンを免疫原として作製され、ヒト大腸癌の転移巣では結合性が極端に低下するモノクロナル抗体である91.9Hの認識するエピトープが硫酸化ルイスa糖鎖であることが示された。この糖鎖が、少なくともヒト大腸癌細胞株においては、ムチン上に提示されていることが示された。また、このエピトープのヒト大腸癌細胞における発現に関して臨床病理学的な観察結果を再現するヌードマウス実験モデルが作製された。従って、肝転移巣における腫瘍ムチンの発現変化の機構を生物学的に解明するために必要な分子レベルでの基盤が築かれた。本研究の結果は、大腸癌の転移を標的とする新しい治療法を開発するための生物学だけでなく、細胞認識において多様な役割りを持つ可能性を秘めた糖鎖である硫酸化ルイスaの機能と生合成の解明に資するところが大きい。本研究の成果によりモノクロナル抗体91.9Hが硫酸化ルイスa糖鎖に特異的であることが解明された結果、潰瘍性大腸炎、嚢胞性線維症、肝内胆管結石症、消化器粘膜上皮における感染症などの病態形成におけるムチン糖鎖の役割りに関しても新たな視点が開かれた。従って、これらの研究成果は腫瘍学及び糖鎖生物学に資するところが大であり、本論文の提出者築地仁美は博士(薬学)の学位を受けるに十分であると判断した。

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