学位論文要旨



No 114622
著者(漢字) 渡邊,真知子
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,マチコ
標題(和) BDNFおよびNT-3の知覚神経機能への関与の解明 : 炎症性痛覚過敏モデルを用いて
標題(洋)
報告番号 114622
報告番号 甲14622
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第883号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 教授 今井,一洋
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 荒川,義弘
内容要旨 【序論】

 炎症や末梢神経障害等により生じる痛覚過敏やしびれ感などは、臨床上重要な問題である。痛覚過敏の病態は近年、分子レベルで解明されつつあり、神経成長因子(NGF)が重要な役割を示すことが明らかとなっている。一方、末梢神経障害に伴うしびれ感などの知覚異常については、病理所見より痛みや触覚を伝える神経線維の異常が見出されているが、病態の解明はほとんど進んでいない。

 NGFは最近、知覚神経の中でも痛覚を伝える神経(C線維)に対する神経栄養因子であることがわかり、標的組織である皮膚等で発現し、神経末端に作用して痛覚機能の調節を生理的に行っていることが明らかとなっている。一方、NGFファミリーの分子(ニューロトロフィン)である脳由来神経栄養因子(BDNF)およびニューロトロフィン-3(NT-3)についても、ごく最近、遺伝子欠損マウスを用いた解析から、発達段階においてNT-3は触覚を伝える神経(A線維)の生存に重要であり、BDNFは触覚の機能的成熟に重要であることが示された。しかし、発達後の成体におけるこれらの因子の知覚神経機能に対する調節作用については依然明らかではない。

 そこで私は、知覚神経終末が集積する末梢皮膚組織において、これらニューロトロフィン類の発現および痛覚、触覚を含めた各種知覚機能に及ぼす影響を調べるため、局所炎症モデルを用いて解析を行った。ニューロトロフィン類の機能が明らかになれば、上記病態の解明と治療薬開発の手掛りが得られると考えられる。

【方法・結果】1.新規RT-PCR-HPLC法の確立と末梢皮膚組織におけるニューロトロフィンmRNAの検出

 末梢皮膚組織におけるニューロトロフィンは微量で知覚機能を調節していることが予想されるため、皮膚組織での正確な量を測定したりその変動をとらえることは従来困難であった。そこで、それぞれのdeletion mutant RNAを内部標準物質としてRNA抽出時より試料に加え、RT-PCR-HPLCを用いてmRNAの絶対量を測定する方法を確立した。この方法を用いて、正常ラット(Wistar、オス、6週齢)において、背部の尾に近い部分の皮膚(caudal back skin)と、神経終末が密集しているためニューロトロフィンの発現が増加していることが予想される足のうらの皮膚(plantar skin)を採取し、三つの因子(NGF、BDNF、NT-3)のmRNAの発現量を測定した。その結果、三つの因子ともに、足のうらの皮膚におけるmRNAの発現量は背の皮膚よりも高いことが判った(Table.1)。

Table1:正常ラットの皮膚組織におけるニューロトロフィンmRNAの発現量
2.炎症モデルにおけるニューロトロフィンの発現変動

 次に、すでに炎症性痛覚過敏モデルとして確立されているモデルを用いて炎症皮膚組織における各ニューロトロフィンの変動について調べた。ラット(Wistar、オス、6週齢)の右後肢の足のうらに完全フロイントアジュバント(CFA)100lをエーテル麻酔下、皮下注射して局所に炎症を惹起し、炎症部位の皮膚組織におけるニューロトロフィンのmRNAの発現を調べた。その結果、NGFmRNAは炎症惹起後急速に誘導され、6hr後でピークに達した後、12hr後までにほぼ回復した。一方、BDNFとNT-3の発現は炎症惹起後急速に低下し、6hrで最低となった後、2日から3日で回復した(Fig.1a,b,c)。また、同様のモデルにおいてこれらの因子の蛋白レベルの発現の変動をELISA法により確認したところ、NGFとNT-3の発現はmRNAの変動とほぼ同様な結果を示した(データ示さず)。ただしBDNFは微量なためELISA法では検出できなかった。

Fig.1:炎症皮膚組織におけるニューロトロフィンmRNAの変化
3.炎症に伴う知覚機能の変動とニューロトロフィンの発現との関連1)圧および熱痛覚の評価

 皮膚組織におけるニューロトロフィン量の変化と知覚神経の感受性変化との関連を検討するために、上記のモデルを用いた。痛覚過敏状態の評価として圧刺激に対する痛覚試験法であるvon Frey hairs法と熱刺激に対する痛覚試験法であるhot water bath(45℃)法を採用した。圧刺激に対しては痛覚過敏が炎症惹起後急速に形成され、6hr後にピークに達した後、3日以上過敏状態が継続した(Fig.2a)。この変化はすでに報告されている結果と良く一致した。一方、熱刺激に対する痛覚過敏も炎症惹起後急速に形成され、6hr後にピークに達したが10hr後までにはほぼ回復した(Fig.2b)。後者の変化はNGF mRNAの動きと良く一致しており、NGFが末梢の皮膚組織において熱痛覚の調節に生理的に係る因子であることを支持している。

Fig.2:炎症モデルにおける痛覚評価
2)触覚の評価

 炎症惹起時にBDNFとNT-3のmRNAの低下が認められたことから、炎症時における触覚機能とこれらニューロトロフィンとの関連を検討した。paint brush法により炎症部位の触覚感受性を評価したところ、炎症惹起3hr後より触覚機能の低下が認められ10hrではほぼ完全に消失し、2日で回復することを見出した(Fig.3)。この触覚機能の低下と回復の時間経過がBDNFとNT-3mRNAの変動と良く一致していることからこれらの関連性が示唆された。

Fig.3:炎症モデルにおける触覚評価(paint brush法)
4.炎症モデルにおける外来性のBDNF、NT-3の効果

 触覚の感受性の変化とBDNFやNT-3との関連性をさらに検討するために、同モデルにおいて、BDNFやNT-3の発現が低下していると予想される5hr後にリコンビナントBDNFとリコンビナントNT-3をそれぞれ炎症局所足背側に1g皮下注射し、圧刺激に対する痛覚試験と触覚機能の回復について調べた。その結果、BDNFを投与したところ、圧刺激に対する痛覚に対しては痛覚過敏の回復に若干の遅れがみられ(データ示さず)、一方触覚に対しては24hr後に機能が回復し、回復促進効果が認められた(Fig.4a)。この結果は、成体ではBDNFが触覚機能の調節に重要であることを示すものである。NT-3を投与した場合は、直後に圧刺激に対する痛覚過敏が回復したが短時間であった(Fig.4b)。この短時間の作用については、そのメカニズムや生理的意義は不明である。一方NT-3は触覚機能に対しては影響がなかった(データ示さず)。

Fig.4a:BDNFの触覚機能に対する回復効果Fig.4b:NT-3の圧痛覚に対する回復効果
【まとめ】

 本研究により、末梢組織における炎症惹起時にBDNFとNT-3のmRNAの発現が抑制されること、およびこれに対応して触覚機能が大幅に低下することを明らかにした。さらにこの発現低下時にBDNFを投与すると触覚機能が回復することから、BDNFは成体において触覚を生理的に調節する因子であることを明らかにした。BDNFの効果は遅発性であったことから、おそらくBDNFがその受容体(trkB)が存在する神経に取り込まれ、軸索輸送によりその知覚神経節ないし脊髄に運ばれて作用している可能性が考えられた。一方、NT-3の投与は急性の効果を示したことから、圧刺激に応答する神経の興奮性調節に直接関与している可能性が考えられた。また本研究から、BDNFやNT-3がしびれ感などの末梢神経障害に伴う知覚異常の治療薬になる可能性が示唆された。

審査要旨

 これまでにNGF(神経成長因子)が知覚神経に対する栄養因子であること、BDNF(脳由来神経栄養因子)、NT-3(ニュウロトロフィン-3)が発達途中の神経細胞の機能的成熟に重要であることが示唆されていた。本研究はこれら因子が知覚神経終末が集積する末梢皮膚組織においていかに発現し、痛覚、触覚を含めた知覚機能にいかなる影響を及ぼすか、局所炎症モデルを用いて解析したものである。本研究を通じて炎症や末梢神経障害などによって生じる痛覚過敏やしびれ感などの解明、治療への手がかりが得られると期待される。

ニュウロトロフィンmRNAの高感度測定法の確立

 ニュウロトロフィンは微量で不安定であるため組織で検出、定量することはこれまで困難であった。そこでそれぞれのdeletion mutant RNAを内部標準物質としてRNA抽出時より試料に加えて、RT-PCR-HPLCを用いてmRNAの絶対量を測定する方法を確立した。この方法で正常ラットの神経終末の密集している足の裏の皮膚ではNGF、BDNF、NT-3のmRNAの発現量が背中側の皮膚よりはるかに高いことが明らかになった。

炎症モデルにおけるニュウロトロフィンの発現変動

 炎症性痛覚過敏モデルをCFA皮下注射により惹起し、炎症部位でのニュウロトロフィンの発現をmRNA量で測定した。NGFのmRNAは炎症惹起急速に誘導され6時間後ピークに達し、BDNFとNF-3の発現は急速に低下、6時間で最低となり、2-3日で回復した。これら因子の蛋白量の変化をELISA法で検討したところほぼ同様の傾向が確認された。

知覚機能の変動とニュウロトロフィン発現変動の関連

 熱刺激に対する痛覚過敏は炎症惹起後急速に形成され、6時間でピークに達した。この変化はNGFのmRNA発現変動とパラレルであった。一方炎症時の触角感受性は炎症惹起後3時間で低下し始め10時間で消失2日で回復した。この変動はBDNFとNT-3mRNAの変動とよく一致していた。そこでこれら因子の発現の低下している5時間後にリコンビナントタンパク質を投与したところ特にBDNFで著しい触覚機能の回復促進が認められた。これらの事実よりBDNFが触覚機能の調節に重要な役割をはたすことが示された。

 以上、本研究により末梢組織における炎症惹起時にBDNF、NT-3のmRNAの発現が抑制され、これに対応して触覚機能が大幅に低下することからこれら因子の触覚調節因子としての役割が示唆された。またこれら因子がしびれ感などの末梢神経障害にともなう知覚異常の治療薬となる可能性も示された。これらの発見は医療薬学の発展に寄与するところがあり、博士(薬学)の学位に値すると判断された。

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