学位論文要旨



No 114648
著者(漢字) 堀本,訓子
著者(英字)
著者(カナ) ホリモト,ノリコ
標題(和) 液体分子線による溶液中および溶液表面分子のレーザー誘起過程
標題(洋) Laser Induced Processes of Molecules in and on Solutions Prepared by Liquid Beam
報告番号 114648
報告番号 甲14648
学位授与日 1999.04.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3649号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 秋元,肇
内容要旨 I.緒言

 溶液表面分子の動的挙動や、溶質の周りにある溶媒分子の存在状態は、溶液内部、および気相中と大きく異なっている。これら液体表面の様々な特異性について、分子レベルで理解することは本質的に重要である。液体表面を調べるには、これまで主に表面張力などの巨視的な量の測定が用いられてきた。また、和周波発生法など分光学的な手法も取り入れられてきた。一方、これらの方法は反応途中で関与する分子種などを直接観測し、反応を分子レベルで追跡するための一般的な方法とは言えない。そのことを解決する一つの手段として、溶液を連続液体流(液体分子線)として真空中に導入し、レーザーイオン化後、質量分析する方法を用いた。これにより、真空中に放出されるイオンを観測することで溶液表面分子を選択的に観測した。これらをふまえ、本研究ではまず液体分子線の性質を調べた。そして、代表的な動的挙動の一つである励起分子の緩和過程を取り上げて調べた。典型例として、溶液表面に存在するアニリン分子について研究した。緩和過程は励起アニリン分子の近傍の溶媒和構造をよく反映すると考えられている。次に、溶液表面における化学反応の例として、ナフタレン、およびベンゾトリクロリドのアルコール溶液表面におけるイオン-分子反応を取り上げて調べた。また、表面分子の特異性を明らかにするために、溶液内部の分子を表面と同様に分子レベルで直接調べる方法を開発した。具体的には、液体分子線に対して赤外レーザーを照射して溶媒を選択的に蒸発させ、真空中に溶質を孤立化させた。さらに紫外レーザーでイオン化を行い分子やクラスターの放出過程を調べた。

II.溶液表面における励起アニリン分子の緩和過程

 アニリン(An)の1-プロパノール(PrOH)溶液を30気圧に加圧し、直径20mの小孔をもつノズルから噴出させて液体分子綿を形成し、真空中に導入した。これにポンプ(266nm)およびプローブ(500nm)レーザー光を照射した。レーザー光が液体の中を通ることによって生成する干渉縞を観察することによって、液体分子線は20±1mの連続液体流であることがわかった。二光子イオン化によって液体表面付近で生成したイオンはクーロン放出によって気相中に放出される。これらのイオンを飛行時間型の質量分析計により検出することにより、液体表面分子を選択的に観測した。励起状態の緩和時間測定にはポンプ-プローブ法を用いた。すなわち、ポンプ光の照射によって分子は励起状態(S1)へと遷移する。さらにプローブ光を照射するとS1状態の分子はイオン化される。ポンプ光照射後、時間とともに励起状態の分子は緩和によって減少する。したがって、2つのレーザー光の間の遅延時間に対するイオン強度の変化を測定することによって励起状態の分子の緩和過程を調べた。

 ポンプおよびプローブ光の照射によって得られた質量スペクトルを図1に示す。アニリンイオンおよびプロトンにプロバノールが溶媒和したクラスターイオン、An+(PrOH)nおよびH+(PrOH)n、が主に観測された。これらのイオンの強度がポンプおよびプローブ光に対し1次で増加したことから、2色2光子イオン化が起こっていると考えられる。2つのレーザー光の間の遅延時間を変化させたときのイオン強度の変化を図2に示す。遅延時間に対してAn+(PrOH)nは指数関数的に減少し、アニリン分子のS1状態の緩和時間は7.8±0.8nsであることがわかった。これは気相中における値(7.5ns)に近い。一方、溶液中でのS1アニリン分子の寿命はアニリンのNH2基とアルコールのOH基との間の水素結合のため3.1nsと短かくなることが知られている。これらの事実から、溶液表面では、アルコール分子がOH基を溶液の内側に向けて配向し、アニリン分子も親水性のNH2基を溶液の内側に向けて配向しているため、NH2基およびOH基との間の相互作用が小さくなり、表面における寿命が長くなると考えられる。一方、H+(PrOH)nは、はじめの数nsの間に急激に増加し、その後ゆっくりと減衰した。この立ち上がり時間が溶液表面にある励起アニリン分子(S1状態)の寿命と同程度であること、また、H+(PrOH)nイオン強度のレーザー強度依存性からH+(PrOH)nはアニリンの三重項状態を経由して生成していると考えられる。

III.芳香族化合物-アルコール溶液表面における光誘起イオン-分子反応

 ナフタレン(Np)-エタノール(EtOH)溶液の液体分子線に波長275nmのレーザー光を照射した結果、主にプロトン化したエタノールクラスターイオン、H+(EtOH)nが観測された。他に、ナフタレンイオンにエタノール分子が溶媒和したクラスターイオン、Np+(EtOH)nやナフタレン2量体イオン、(Np)2+なども観測された。H+(EtOH)nとNp+(EtOH)nは、ともにナフタレンの濃度に対し1次、照射レーザー強度に対して2次で増加する傾向を示した。これと、プロトン親和力の異なる溶媒を用いた実験およびエネルギー収支の考察から、H+(EtOH)nはナフタレンイオンから溶媒であるエタノールへのプロトン移動反応で生成すると考えられる。この反応で生成したアリルラジカルC10H7は溶媒からの水素引き抜き反応によって再びナフタレンに戻ると推定される。つまり、ナフタレンは、光増感剤として作用していると考えられる。この反応は、幾何的な要因から溶液表面において安定化エネルギーが大きいためにより進行しやすいことが示唆される。

 また、ベンゾトリクロリド-エタノール溶液の液体分子線に波長274nmのレーザー光を照射したとき、m/z=169(a)、179(b)のイオンが観測された。溶媒を変えた実験、およびフェムト秒レーザーを用いた実験から、(a)は、光イオン化によって生成する中間体C6H5CCl2+に対してエタノールが求核的に反応して生成したC6H5CCl(OEt)+であり、(b)は、(a)に対してもう1分子のエタノールが求核的に反応して生成したC6H5C(OEt)2+であると考えられる。

IV.赤外レーザーによる液体の蒸発過程

 溶液内部の局所的構造を明らかにするために、赤外レーザー蒸発法を開発し、蒸発過程を明らかにした。実際には、試料溶液の液体分子線を真空中に導入し、これに蒸発用の波長1.9mの赤外レーザー(OH基の振動の倍音に相当)を照射した。赤外レーザー照射によって溶質や溶媒和クラスターが真空中に生成する。さらに照射場所および時間を変えながらイオン化用の波長266nmの紫外レーザーを照射し、これらの溶質やクラスターを2光子イオン化した。生成したイオンは飛行時間型質量分析計で検出した。この方法は水やアルコールなど、OH基を持つ種々の溶媒に適用できる。赤外レーザー光は、水素ガスを封入したラマンシフター(12気圧、長さ1m)にNd:YAGレーザーの基本波(1064nm、300mJ/pulse)をレンズ(焦点距離60cm)で絞り込み、第一ストークス光(1.9m、20mJ/pulse)として得た。紫外レーザー光は、Nd:YAGレーザーの4倍波の出力(266nm)を用いた。それぞれのレーザーの時間幅は5ns程度であった。アニリン、フェノール、レゾルシノールなどの簡単な芳香族分子の水溶液およびアルコール溶液についてこの方法を適用し、その可能性を検討した。

 レゾルシノールの水溶液に赤外および紫外レーザーを照射した結果、得られたスペクトルを図3に示す。溶質イオンおよび水和した溶質クラスターイオンが観測された。一方、赤外・紫外レーザーをそれぞれ単独で照射したときにはこれらのイオンは観測されなかった。このことから、赤外レーザーによる溶媒蒸発の結果として真空中にクラスターが生成し、紫外レーザーによって光イオン化されて、上記クラスターイオンとなって検出されたと考えられる。また、2つのレーザーの間の遅延時間を変えたときのイオン強度の変化を図4に示す。遅延時間0から2-3sの間で強度が急激に立ち上がり、その後減少する早い成分と、その後ゆっくりと現れ減少する遅い成分が現れた。早い成分では、溶質イオンおよびクラスターイオンが多く生成しているのに対し、遅い成分では溶質イオンのみでクラスターイオンは観測されなかった。クラスターイオン中に含まれる溶媒水分子の数から、早い成分のクラスターイオンの内部エネルギーは小さく、遅い成分では内部エネルギーが大きいと推定される。次に、赤外および紫外レーザーの相対的な空間配置および遅延時間依存性などから、早い過程のクラスターイオンや溶質イオンの速度を見積ると、いずれも1300m/s程度であることがわかった。クラスターイオンがこのような大きな並進エネルギーを持ちながら、内部エネルギーは小さいことから、赤外レーザー照射後、平衡状態に達する前に気相中に放出されたと考えられる。また、赤外レーザーの強度を大きくすると、相対的に遅い成分の割合が大きくなった。赤外レーザー強度を大きくすると、温度が上がり、蒸発する分子がより多くなると考えられる。以上から、赤外レーザーによる気相中への分子/クラスターの単離においては内部エネルギーの小さいクラスターが生成する過程と、内部エネルギーの大きい分子が生成する過程の2つの過程が起こっていると考えられる。この2つの過程のうちどちらを取り出すかによって、クラスターまたは分子の必要な方を選択的に得ることができる。生体分子や溶液中のクラスターなど、通常の方法では難しい分子の単離に応用し、その分光を行うことができると期待される。

図表[図1]0.5Mアニリン-1-プロパノール溶液のポンプ光・プローブ光照射によって得られた質量スペクトル / [図2]ポンプ光-プローブ光の遅延時間に対するイオン強度依存性(a):An+(PrOH)n (b):H+(PrOH)n / [図3]0.2Mレゾルシノール水溶液の赤外・紫外レーザー光を照射によって得られた質量スペクトル(a):赤外・紫外照射 (b):赤外のみ照射 (c):紫外のみ照射 / [図4]赤外-紫外レーザーの遅延時間に対するイオン強度依存性
審査要旨

 本論文は7章からなり、第1章は、緒言、第2章では、実験装置、第3章では、溶液表面における励起アニリン分子の緩和過程、第4章と第5章では、芳香族化合物-アルコール溶液表面における光誘起反応過程、第6章では、赤外レーザーによる液体の蒸発過程、そして第7章では、まとめが述べられている。

 第1章および第2章では、液体表面の様々な特異性について、分子レベルで理解することの重要性に着目し、液体表面を調べる際、反応途中で関与する分子種などを直接観測し、反応を分子レベルで追跡するための手段を提示している。溶液を連続液体流(液体分子線)として真空中に導入し、レーザーイオン化後、質量分析する方法を用いることにより、真空中に放出されるイオンを観測することで溶液表面分子を選択的に観測している。これらをふまえ、本研究では、以下3章から6章へと導いている。

 第3章では、液体分子線の性質を代表的な動的挙動の一つである励起分子の緩和過程を通じて調べている。典型例として、溶液表面における励起アニリン分子の緩和過程をポンプ-プローブ法を使い研究している。

 次に、第4章と第5章では、溶液表面における化学反応の例として、ナフタレン、およびベンゾトリクロリドのアルコール溶液表面における反応過程を取り上げて調べている。

 さらに、第6章では、表面分子の特異性を明らかにするために、溶液内部の分子を表面と同様に分子レベルで直接調べる方法を開発している。具体的には、液体分子線に対して赤外レーザーを照射して溶媒を選択的に蒸発させ、真空中に溶質を孤立化させ、さらに紫外レーザーでイオン化を行い分子やクラスターの放出過程を調べている。その結果、赤外レーザーによる気相中への分子/クラスターの単離においては内部エネルギーの小さいクラスターが生成する過程と、内部エネルギーの大きい分子が生成する過程の2つの過程が起こっていると考えている。

 本論文では、この2つの過程のうちどちらを取り出すかによって、クラスターまたは分子の必要な方を選択的に得ることができると結んでいる。生体分子や溶液中のクラスターなど、通常の方法では難しい分子の単離に応用し、その分光を行うことができると期待される。

 以上、論文提出者の液体分子線による溶液中および溶液表面分子のレーザー誘起過程に関する研究は非常に独創性の高いものと認められる。なお、本論文第2章は、真船文隆、橋本光夫、松村尚、橋本雄一郎、近藤保、第3章〜5章は、真船文隆、近藤保、第6章は真船文隆、近藤保、河野淳也との共同研究によるものであるが、いずれの場合にも、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、審査委員会は、論文提出者堀本訓子に博士(理学)を授与できると認める。

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