学位論文要旨



No 114652
著者(漢字) 齋藤,敬
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,タカシ
標題(和) オリゴチオフェンによる細胞の傷害
標題(洋)
報告番号 114652
報告番号 甲14652
学位授与日 1999.04.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4484号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 軽部,征夫
 東京大学 教授 二木,鋭雄
 東京大学 教授 井街,宏
 東京大学 教授 橋本,和仁
 東京大学 講師 池袋,一典
内容要旨

 本論文は新規な光増感剤の細胞膜破壊への適用に関するものであり、6章より構成されている。

 遺伝子治療や、細胞を利用した人工的な物質生産系等において、細胞内に核酸やタンパク質等の物質を導入する手法はきわめて重要である。逆に、細胞内から核等の組織を取り出す技術も近年重要視されており、クローン動物の作出等に利用されている。言い換えれば、生物を構成する基本単位である細胞に対して物質を注入したり取り出したりすることは生物工学の基本技術であると言える。しかしながら、このような技術は限られている。

 細胞への物質導入が医学・工学において日常的な技術となっている現在、細胞処理の再現性・精度の向上は非常に重要な課題である。既存の細胞処理法の根本的な問題点は細胞膜の破壊を制御する技術の不備にある。従来開発されている毒物は細胞死を引き起こすことなく、部分的かつ一時的に細胞膜を破壊するという細胞工学上の要求に応えるものではなかった。本研究においては、膜を一時的かつ部分的に変性ないし破壊する方法としてリン脂質連鎖過酸化反応に着目し、これを引き起こす膜変性剤として、活性酸素種の生成を促進する光増感剤を使用した。これにより、目標となる最小限の細胞表面に部分的に短時間連鎖過酸化反応を起こすだけで膜の変性が可能となる。しかも過酸化反応により障害を受けた膜は、穿孔後に膜自身の流動性、細胞の抗酸化機構により修復されることが期待される。

 本研究では水溶性の高いターチエニル誘導体である、アミノメチル基を両端に持つオリゴチオフェン(ビスアミノメチルオリゴチオフェン、BOT)を光増感剤として使用した。BOTは、水溶性が高い導電性高分子モノマーとして新規に設計・合成されたものである。

 本研究では、新規光増感剤による細胞傷害の評価を行うと共に、光により生体膜の破壊を制御しながら穿孔する基礎技術の可能性を検討することを目的とした。

 第1章は緒論であり、本研究の行われた背景について述べ、本研究の目的と意義を明らかにした。

 第2章では新規に合成されたBOT二量体(BAB)、三量体(BAT)、四量体(BAQ)の特性評価を行った。BOTの水溶液中における吸収ピークを測定した結果、BAT、BAQではそれぞれ359、394nmの長波長紫外線UVA(320-400nm)領域にピーク波長を持ち、BABは細胞に紫外線障害を強く引き起こす中波長紫外線UVB(280-320nm)領域にピーク波長を持つことが判明した。また、室温25℃においてBABは10mM、BATは5mMの水溶液を調製できたが、BAQは最大で0.4mM程度しか水に溶解しないことがわかった。以上の結果から、細胞傷害実験の適用に最も適した分子としてBOT三量体であるBATを選択した。またBATの水溶媒系での滴定実験の結果から、生体計測において重要な中性(pH≡7.4)領域でもBATが析出せず使用可能であることが明らかになった。

 さらにBATが光増感作用、すなわち光照射下で活性酸素種の発生を促進する機能を示すか、水溶性抗酸化剤Trolox-Cを用いて評価した。Trolox-Cは活性酸素種全般を還元し、Trolox-C自身は酸化される。このため、電極で酸化されるTrolox-C濃度を測定することで、活性酸素種により消費されたTrolox-C濃度を求めることができる。なおTrolox-C濃度は高速液体クロマトグラフィーにより測定し、BATを励起する光源としてはパルスエキシマレーザー光源(=308nm,120〜20mJ/flash)を使用した。その結果、BAT未添加の場合に光量1Jcm-2あたり酸化型Trolox-C濃度は0.07M増加したが、BAT存在下では0.8Mと約11倍に増加していることが示された。このことからBATが光増感作用を持つことが示唆された。

 以上の結果から、BATは電気生理実験の条件下でも、細胞膜破壊剤として使用可能であることが示唆された。

 第3章では、BATの光増感作用による細胞膜破壊を測定した。水溶性に優れるBATを細胞光傷害の光増感剤として使用し、光照射量を変えることにより細胞膜への傷害を制御することを試みた。神経様に分化させた神経系株化細胞PC12を対象として、BATによる細胞膜傷害の経時変化測定を行った。膜傷害の評価は電気生理実験(パッチクランプ法)により行い、膜電位、膜抵抗を求めた。BATを励起する光源としては共焦点レーザー顕微鏡のアルゴンイオンレーザー(=363nm,50mW)を使用した。BATは細胞近傍のピペットから細胞に吹き付けるか、あるいは灌流液に直接添加して用いた。

 その結果、BATによる細胞膜のダメージを光照射量により、1)細胞膜への影響なし、2)細胞膜が数分で回復する程度の傷害、3)細胞膜が破壊され回復しない、の様に段階的に制御出来ることがわかった。

 様々なBAT濃度下での50%致死光量についても検討を行った結果、灌流液中に抗酸化剤Trolox-C(水溶性ビタミンE誘導体)を添加した場合には、Trolox-C非存在下のときと比較して致死光量は約100倍に上昇することが明らかとなった。したがってこのBAT存在下の光による膜破壊現象には何らかの酸化反応が関与していることが示唆された。

 第4章では、BATによって引き起こされる細胞傷害が、細胞膜の酸化によるものかを検討した。細胞の傷害については神経化PC12細胞を対象として、遊離乳酸脱水素酵素測定法により評価を行った。細胞に20MBATを約1時間以上作用させた場合には、光照射により細胞膜の破壊を示す細胞傷害が認められた。また、抗酸化剤である-tocopherol(-toc)を添加した培養により、細胞膜の-toc含有量を0.02nmol/106cellから1.37nmol/106cellに高めた細胞においては、光照射による細胞傷害率が最大で60%も減少した。このことからBAT光増感による細胞傷害の機構として、細胞膜脂質の酸化の寄与が示唆された。

 第5章では、光増感作用によるマイクロインジェクションを行った。2mMの水溶性蛍光染色試薬Lucifer Yellow CH(LY)を含むインジェクション液を調整し、これをPC12細胞に注入することによってインジェクションの成功と判定した。また実験に際しては、電動マニピュレーターによりインジェクション処理を自動化し、可能な限りインジェクション成功率に人為的な影響が及ばないようにした。

 光増感機構によるマイクロインジェクションの成功率を評価する際には、ピペット先端の機械的剪断力が寄与しない条件でインジェクションを行う必要がある。そのため、通常のピペットのアプローチ速度である1000ms-1のときに成功確率80%以上でインジェクション可能であることを確認した上で、アプローチ速度を7ms-1に低下させた。このアプローチ速度では、ピペット先端はインジェクション成功時と同じ位置まで到達するものの、細胞膜をほとんど貫通できない。このような機械的剪断力による膜穿孔が困難なアプローチ条件下において、インジェクション液中の100MBATの有無、および100W水銀ランプによる2分間の光照射処理の有無により、インジェクション成功率がどのように変化するか観察した。

 その結果、BATを含まなかったり、光を照射しなかった条件では成功率が約10%であったが、BAT含有液で光照射を実施した場合は約80%であり、顕著な改善が認められた。さらにインジェクション処理後のLY保持率を細胞生存率の指標として、光増感処理と従来のインジェクションによる処理の間での細胞生存率の比較を行った。その結果、光増感処理を行った細胞は6日目の生存率が約90%となり、約10%という従来処理による生存率と比較して極めて高かった。これらの結果は、光増感機構を利用することによって、インジェクションが細胞に及ぼす傷害を効果的に抑制できることを示唆している。

 第6章は総括であり、本研究を要約して得られた研究結果をまとめた。

審査要旨

 本論文は新規な光増感剤の細胞膜破壊への適用に関するものであり、6章より構成されている。

 第1章は緒論であり、本研究の行われた背景について述べ、本研究の目的と意義を明らかにしている。

 第2章では新規に合成されたビスアミノメチルオリゴチオフェンBOT二量体(BAB)、三量体(BAT)、四量体(BAQ)の特性評価を行っている。光励起のための吸収ピーク波長が細胞毒性の高い中波長紫外線UVB(280-320nm)より長波長側にあること、水溶性が高く細胞培養液に容易に添加して使用可能であることの二点から、細胞傷害実験の適用に最も適した分子としてBATを選択したと述べている。またBATを水溶媒系で滴定した結果、生体計測において重要な中性(pH≡7.4)領域でBATが析出せず使用可能であることを明らかにしている。

 また、光照射およびBATの有無によって抗酸化剤Trolox-Cの消耗がどのように変化するか測定を行っている。その結果、BAT未添加の場合に光量1J cm-2あたり0.07MであったTrolox-Cの消耗がBAT存在下では0.8Mと約11倍に増加したことを明らかにしている。このことからBATが光照射下で活性酸素種の生成を促進し、光増感作用を持つことが示唆されたと述べている。

 第3章では、BATの光増感作用による細胞膜破壊の測定を行っている。水溶性に優れたBATを細胞光傷害の光増感剤として使用し、光照射量を変えることにより細胞膜への傷害を制御することを試みている。実験は神経様に分化させた神経系株化細胞PC12を対象として、膜電位、膜抵抗の経時変化を電気生理実験(パッチクランプ法)によって評価している。その結果、BATによる細胞膜のダメージを光照射量により、1)細胞膜への影響なし、2)細胞膜が数分で回復する程度の傷害、3)細胞膜が破壊され回復しない、の様に段階的に制御可能であったと述べられている。

 また様々なBAT濃度下での50%致死光量についても検討を行った結果、潅流液中に抗酸化剤Trolox-Cを添加した場合には、Trolox-C非存在下のときと比較して致死光量は約100倍に上昇したことを明らかにしている。このことから、BAT存在下の光による膜破壊現象には何らかの酸化反応が関与していることが示唆されたと述べている。

 第4章では、BATによる細胞膜破壊現象の解析を行っている。細胞膜の抗酸化剤である-tocopherol含有量を0.02nmol/106cellから1.37nmol/106cellへ約50倍強高めた細胞においては、光照射による細胞傷害率が最大で60%減少したことを明らかにしている。この結果はBATによる細胞傷害の機構として、細胞膜脂質の酸化の寄与を示唆していると述べている。

 第5章では、光増感作用によるマイクロインジェクションを行っている。水溶性蛍光染色試薬Lucifer Yellow CH(LY)をインジェクションの成否の判定用マーカーとし、これを用いてインジェクション液を調製している。また電動マニピュレーターを用いた自動化処理によって、インジェクション成功率に可能な限り人為的な影響が及ばないようにしている。その上でガラス管キャピラリーの細胞接触速度を、細胞膜をほとんど貫通できない7ms-1に設定して、インジェクション液中のBATの有無、およびBAT励起光照射の有無により、インジェクション成功率がどのように変化するか測定を行っている。

 その結果、BATを含まなかったり、光照射しなかった条件では成功率が約10%であったが、BAT含有液で光照射した場合は成功率が約80%となり、顕著な改善が認められたと述べている。さらにインジェクション処理後の細胞生存率を比較した結果、6日目の生存率が光増感処理を行った細胞は約90%、従来のインジェクション処理による生存率は10%程度であったことを明らかにしている。このことより、BATによる光増感処理が細胞の傷害を有為に抑制したと述べている。

 第6章は総括であり、本研究を要約して得られた研究結果をまとめている。

 このように本論文では、光増感剤オリゴチオフェンを用いて破壊の程度を制御できる新規な細胞膜穿孔技術を開発し、細胞膜破壊と修復の過程を経時的に測定することに成功している。また、光照射による膜破壊技術を実際に細胞への物質導入に適用し、光増感機構を利用することによって、マイクロインジェクションが細胞に及ぼす傷害を有効に抑制できることを示している。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54106