本論文は、現代中国における、主として省レベルの地域間所得格差の現状を明らかにした上で、そのような所得格差がどのような要因によって規定されているのかを明らかにしようとしたものである。1949年の建国以来さまざまな変遷を経た後、中国は1978年の経済改革、さらには1992年の社会主義市場経済の導入によって、急速な経済発展を遂げつつある。しかし同時に、マクロ的な経済発展の過程においてさまざまな問題が発生しつつあり、それらが中国社会の安定性を脅かし、ひいては長期的な経済発展をも阻害する危険性のあることが指摘されている。その1つが拡大しつつある深刻な所得格差の問題である。この問題については、中国国内外の人々が大きな関心をもつと同時に、多くの研究者がさまざまな角度から分析を行っている。 そのような中で、本論文は、近年の中国における統計制度の整備にともない公表され始めたマクロ経済データ、および各地域に関する膨大な統計データを収集・整理し、それらにいくつかの統計手法を適用して地域間の所得格差の現状を明らかにした上で、その基本的な要因の抽出とそれらに関する詳細な分析を行っている点が大きな特徴である。具体的に、本論文では、数千年に及ぶ歴史、広大な国土、膨大な人口、多様な民族と文化を複合的に抱える中国において、特に経済改革以降の経済発展に伴って顕在化した地域間所得格差がさまざまな要因の絡まりあった結果であるとはいえ、基本的には産業構造、人口、教育水準という3つの要因に規定されているという仮説を立て、それを実証的に検証している点が、大きな特徴である。さらには、中国における地域間所得格差の現状およびその要因分析に基づき、クズネッツの「逆U字型仮説」の検証を試みている点も、本論文の特徴として挙げることができる。 本論文は、序章と本論4章、および終章からなる。さらに巻末には、統計分析を補足した補論と中国の古代からの社会・経済発展の概要を一覧表の形にした付録が付けられている。また、本論および補論、付録の論述にかかわるデータや概念を表示するために、総計87の表と43の図(グラフ)が本文中に提示されている。具体的な内容は、以下のとおりである。 まず、序章では、現代中国における地域間所得格差問題の深刻さと重大さを確認した後、先行研究の成果も踏まえて研究の目的と方法を明示している。特に、研究方法として、1949年の建国から1995年までの46年間の時系列データと、主として省単位のクロスセクション・データに各種の統計手法を適用するという実証的な分析方法を採用することを強調している。その上で、中国における地域間所得格差の問題は国内の「南北問題」であると位置付け、クズネッツの「逆U字型仮説」の妥当性に関する問題提起も行っている。 第一章「中国の地域間所得格差の現状」では、まず中国国家統計局がSNA体系(国民経済計算体系)に基づく公式の統計として公表しているGNP、国民所得の概念を明確にした後、その精度を生産面、分配面、支出面の三つの側面から明らかにしている。その中で、特に「地下経済」の扱いが不十分であり、改善の余地があることを主張している。これらデータに関する予備的検討の上で、地域間所得格差の現状を把握するために、公表されている統計データに基づいて、中国の各省・市・自治区について1人当たり所得を求め、ジニ係数と分布の不平等度を示す「所得水準指標」(その地域の1人当たり所得と全国の1人当たり所得との比)という二つの指標を用いて分析している。その結果として、省を単位として1人当たり所得の中国全体(全省間)の格差をジニ係数で見たとき、長期的にそれほど大きな変化は見られないものの、沿海地区と内陸地区の所得格差をレンジ(最大所得と最低所得の差)や「所得水準指標」で見たときには格差は拡大しつつあるとしている。また、職員・労働者世帯の1人当たり年間賃金と城鎮・農村の世帯1人当たり年間収入、およびそれぞれの世帯の1人当たり支出を分析した結果、地域的な所得格差、特に都市と農村の所得格差が拡大しつつあることを明らかしている。 第二章「中国の地域間所得格差と産業構造」では、まず中国各地区の地域経済と経済成長の関係について、歴史的、地理的および政策的背景を論じた上で、1949年以降46年間のGNP、1人当たり所得、貿易総額などの推移を見ることによって、時系列的にその特徴を明確にしている。そして、中国の産業分類の特質について論じた後、産業別労働力構成および産業別所得構成のデータに基づいて、その不平等度、産業別生産性の変化、産業間の所得格差を検証している。さらに、各地区毎の産業間の賃金格差、労働生産性、「工業化水準指標」(その地域の工業人口比率と全国の工業人口比率との比)の差異、そして「工業化水準指標」と「所得水準指標」の関連性を分析した結果、各地区の産業構造の差異が中国の地域間所得格差に大きな影響を与えているとしている。 第三章「中国の地域間所得格差と人口」では、まず中国の人口規模の推移を、1949年以降4回にわたる人口調査の結果に基づいて、先進諸国の人口転換と比較しながら論じている。その中で、特に現在の政策的課題として貧困人口と人口移動の関係の問題を強調している。次に、マクロ的な人口構造・人口動態と各地区の人口構造・人口動態の差異を「人口増加率指標」(その地域の人口増加率と全国の人口増加率との比)を用いて詳細に分析した上で、所得格差との関連を明らかにしている。また回帰分析を行い、1人当たり所得を説明する変数として人口密度、人口増加率、年齢別人口、産業別人口、学歴別人口が強い説明力をもつという結果を得ている。 第四章「中国の地域間所得格差と教育水準」では、まず教育水準と経済発展の関連を「人的資本」論の立場から検討している。そして、中国の教育水準に関して、義務教育の就学率、人口に占める在学者の割合、国民所得に占める公的な教育支出などの教育関連の指標によって、主に日本と比較しながら、中国の現状を明らかにしている。そして、各地区の非識字人口の分布を比較するとともに、その不平等の諸要因について分析した結果、各地区の1人当たり所得と非識字人口との間には明白に負の相関があることを見出している。さらに、中国の教育水準と1人当たり所得の関係、特に高等教育と1人当たり所得の関係を検証した結果から、各地区の教育水準、特に高等教育のレベルが中国の地域間所得格差に大きな影響を与えているとしている。 終章では、第一章から第四章に至る実証分析の結果を踏まえて、結論として中国の地域間所得格差が産業構造、人口、教育水準という3つの基本的な要因によって制約されている、すなわち、これら3つの要因に大きく影響されているという仮説が妥当性をもつことを主張している。そして、中国において経済発展が低い段階から高い段階へと発展する過程の中で、所得の格差が拡大傾向に向かっているということから、クズネッツの「逆U字型仮説」の前半部分は妥当性を有するものの、後半部分の妥当性は今後さらに問われるべきであることを主張している。そして最後に、今後の課題として、本論文の実証分析は限られた統計データに基づいたものであることから、地域間所得格差のさらなる研究には、より長期的、ミクロ的な統計データに基づいた、より精緻でかつ厳密な分析と議論を展開しなければならないこと、またクズネッツの「逆U字型仮説」全体に関して結論を下すのは早計であり、国際比較も含めてより一層詳細な分析が必要であることを述べて、締めくくっている。 以上のような内容をもつ本論文には、次のような長所が認められる。 まず第1に、中国の膨大なマクロ経済データおよび地域データを網羅的に収集・整理し、それらを所得格差という観点から図表化するとともに分析している点である。ここ1-2年、中国の経済データの整備とその磁気媒体化が急速に進みつつあるものの、本論文で筆者が提示している多数のデータは今後の研究の基礎資料として十分価値をもつものと評価できる。第2に、そのような膨大なデータを統計的に分析することによって、中国における地域間所得格差を規定する基本的な要因として、産業構造、人口、教育水準の3つを抽出している点である。これまで、地域間所得格差を規定している要因に関して、定性的にはさまざまなものが挙げられてきたが、そのうち上記3つの要因について統計データを用いて定量的に詳細に分析した点は、本論文の独創的な貢献として高く評価できる。なお、この部分についてはすでに日本計画行政学会学会誌『計画行政』第19巻2号および3号(1996年4月および7月)に掲載されている。第3に、特に第四章の教育水準に関する章において、非識字人口の分布を地域別・都市農村別・民族別・男女別・行政管理能力(教育政策の遂行能力)別に詳しく分析し、それらと所得格差の関係を明かにしている点である。というのは、現在、国際的にも、所得格差の問題も含めて経済発展と教育の関連性の問題が注目されているからであり、その問題に関して本論文は一つの知見を与えていると評価しうるからである。さらに第4に、中国の地域間所得格差の分析結果を踏まえて、クズネッツの「逆U字型仮説」の検証を行うとともに、それも包含した形で所得格差の変化に関するモデルを構築している点も、本論文の独創的な点として、評価できる。構築したモデルの有効性に関する実証的な分析は今後の課題であるとはいえ、十分検討する価値のあるモデルを提示している点は、この分野の発展に貢献しうるものと評価できる。 しかしながら、本論文にも問題点がないわけではない。具体的に、第1には、中国の地域間所得格差を規定している基本的要因として抽出されている産業構造、人口、教育水準の3つがたとえ基本的であるにしても、それ以外の要因が所得格差に影響を与えていることは明かであるにもかかわらず、それらについて触れられていないことである。さらに第2に、これら3つの要因は決して互いに独立ではなくて、きわめて密接に関係していると考えられるが、その点についての分析が必ずしも十分とはいえないことである。補論において、この点を補う試みを行おうとしているものの、必ずしも成功はしていない。要因間の関連性という視点をもっと取りこむべきであったと考えられる。第3に、データ上の制約とはいえ、本論文では1949年以降の期間しか扱っておらず、それ以前の各地区の経済状態、すなわち初期条件が現在の所得格差に及ぼしている影響について言及されていないことである。 このような欠点は、しかし、本論文の価値を損なうものではない。中国の経済データが整備されつつある段階にあることを考慮すれば、これらの欠点はこの分野における今後の課題を示しているものといえる。 以上、本論文は若干の欠点をもつとはいえ、豊富なデータと着実な実証分析によって、中国における地域間所得格差に関する研究に十分貢献するものであると評価できる。 よって、審査委員会は全員一致をもって、本論文が博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。 |