学位論文要旨



No 114659
著者(漢字) 永井,知代子
著者(英字)
著者(カナ) ナガイ,チヨコ
標題(和) 相貌弁別力の定量的評価
標題(洋)
報告番号 114659
報告番号 甲14659
学位授与日 1999.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1516号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉下,守弘
 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 教授 新家,眞
 東京大学 助教授 関根,義夫
 東京大学 講師 鈴木,一郎
内容要旨 はじめに

 相貌失認は,脳損傷により見慣れたはずの人物の顔をみても誰なのか分からず,また発症後に知り合った人物の相貌も弁別できなくなる症状をいう。すなわち既知相貌が同定できず,未知相貌の認知においても種々の障害を示す。相貌失認は他分野から報告されている研究データとともに,相貌認知の特殊性を示す現象として注目されている。この相貌失認の本質をめぐって主に四つの説がある。第一に視覚失認が軽くなったもので顔に特異的な認知障害であるとする説,第二に健忘症候群の顔に限局した型であるとする説,第三としてあるカテゴリー内で個々を区別することの障害であるとする説,第四として相貌は特別な知覚処理を受けるもので,相貌失認はこのシステムの障害であるという説である。相貌失認と同時に顔以外の動物や自動車などの種類が区別できなくなる場合があること,健忘症患者と違ってある種の知覚障害が存在することなどから,第一・二の説は現在否定的である。第三・四の説を支持する意見は多いが,カテゴリーのレベルや特別な知覚処理を受ける対象はどのように特定されるのかは明らかにされていない。従来の臨床神経心理検査では,未知相貌の異同弁別課題も家族や有名人の顔写真を用いた既知相貌の同定課題も,いずれも正解率による評価であった。この方法では,どの程度の違いなら弁別できるのか,或いは全く弁別できないのかはわからない。しかし,正常人と相貌失認患者では知覚レベルでどのような違いがあるのかの定量的な比較は,相貌失認の本質を考える上でも重要である。

 そこで相貌の弁別力を定量的に評価するため,2枚の異なる顔写真から,モーフィングにより10段階の中間顔をコンピュータ上で作成し,もとの顔写真のどちらの人物に近いかを分類させ,何%変化した顔を正しく弁別できるかをみた。正常人ではいずれかの顔に近い変化率の中間顔は正しく分類できるが,いずれの顔からも遠い変化率の中間顔では分類が難しくなると予想される。相貌失認患者では,正常人と同等のパターンだが弁別可能な中間顔の範囲が狭まっているか,或いは全くランダムに分類するという二種類の反応が考えられる。前者の場合は相貌失認の症状は正常な弁別力の量的な低下と考えられ,後者の場合は弁別力が質的に変化してしまっていると結論することができる。

被験者

 正常群は年齢性別による4群で,SOM(壮年男性),SOF(壮年女性),SYM(若年男性),SYF(若年女性)に各10名ずつ計40名。疾患群は両側後頭葉梗塞による典型的な統覚型相貌失認患者2名(K.H.,T,Y,),相貌失認がない左後頭葉梗塞患者2名(NP1,NP2),及び日常生活に支障を来している軽度の痴呆患者10名(D1〜10)である。

方法

 (視覚刺激画像)VOM(壮年男性),VOF(壮年女性),VYM(若年男性),VYF(若年女性)各年齢性別群ごとに未知相貌・既知相貌写真を2枚ずつ,計16枚の写真を準備する。写真はすべて正面向きで首から上だけとし,眼鏡・帽子は着用せず,髭はなく髪の毛は額にかからないものとし髪型を隠した。また表情が弁別に影響しないよう強い感情表出のないものを用いた。これをコンピュータに取り込み,各写真のワイヤーフレームモデルを作成した。これを各年齢性別群ごとに未知から未知(U1・2),未知から既知(U2F1),既知から既知(F1・2),既知から未知(F2U1)の相貌に変化するよう2枚ずつ組合わせ,ワイヤーフレームの各キーポイントを対応させて10段階の中間顔をモーフィングにより作成した。

 (呈示法)16組の写真を標準刺激とし,一方を標準刺激0,他方を標準刺激1とする。また合成した中間顔を比較刺激とし,標準刺激0に近い順に比較刺激1,比較刺激2,…,比較刺激10と番号をふる。すなわち1=5%変化,2=15%変化,…,10=95%と変化した中間顔になる。これを用いて以下の課題を各被験者につき施行した。刺激画像はB6サイズの小冊子を机上で目から約30cm離れた位置に呈示した。

 [課題]標準刺激0と1を呈示したままにし,随時比較できるようにする。次に比較刺激1,2,…,10をランダムな順番で1枚ずつ呈示し,標準刺激0と1のどちらにより似て見えるか強制選択させる。制限時間はない。ただし目などの部分の変化ではなく,全体の印象で判断するよう促した。これをU1・2→U2F1→F1・2→F2U1,VOM→VOF→VYM→VYFの順で全16課題行う。なお,標準刺激呈示の際,既知感の有無及び名前や職業などを知っているか聞いておく。標準刺激0・1のいずれに分類したかを記録し,全課題終了後,ランダム呈示の結果を各比較刺激の順番に並べ替えてから評価した。

 結果の処理は,まず全体の傾向を知るため正常被験者各群10人中8人以上が0に分類した比較刺激の最大番号と,同様に1に分類した比較刺激の最小番号を書きだし,これらの差を求めた。この差は各群内で判断に迷いの生じた範囲を示し,値が小さいほど正確な判断が可能であったことを示す。また被験者個人の総合データについて,0と1のいずれに分類したかの確率を算出し,ミューラー・アーバンの修正による最小二乗法により0か1かの判断の境界を示す閾値推定値及び判断の精度を示す誤差分散を算出した。こうして得られた正常群の結果と疾患群の結果を比較した。また誤差分散の値は各個人の判断の正確さの指標となるため,これをKruskal-wallis検定により正常被験者群間及び痴呆群で差があるか検討し,相貌失認群と比較した。

結果

 (正常群)比較刺激の最大番号・最小番号差は各群ともほぼ1〜3であり,正常人の8割は標準刺激から35%変化した比較刺激まではより近い標準刺激に分類できることが示された。ただしVOFのU1・2及びVYFのU1・2ではばらつきが大きく,U1・2では他の組合せに比して判断が難しいと思われた。しかし各群9割以上の被験者が熟知していたVOMのみで既知性の組合せによる違いをみると,U1・2は他の組合せと同等の最大・最小差をとり,有意差はみられなかった。次に各個人がいずれに分類したかの確率を求めた正常群平均は閾値推定値=5.263,誤差分散=1.467であり,確率関数曲線は急峻な右上がりのシグモイドカーブを描いた。被験者群別の平均をみるとはいずれも5付近であり,有意差は認めなかった。はSOMでは最も高い値を示したが,統計学的には有意ではなかった。

 (疾患群)相貌失認のない左後頭葉梗塞患者では,NP1では=4.713,=1.873,NP2では=5.132,=1.164であり,閾値推定値・誤差分散とも正常群との間に有意差は認めず,確率関数曲線は正常群同様急峻なカーブを描いた。痴呆群でも=5.259,=1.588で確率関数曲線は急峻であり,正常群と有意差は認めなかった。これに対し相貌失認患者では,K.H.では=5.574,=4.901,T.Y.では=5.219,=2.948であり,誤差分散は有意に大きい値を示し,判断の精度が低いことが示された。これを反映して,確率関数曲線の傾きはなだらかなカーブを描いている。しかし両相貌失認患者とも閾値推定値は正常群と有意差なく判断基準は偏っておらず,確率関数曲線は右上がりのシグモイドカーブを描いてより類似した顔はより正しく分類される傾向が示された。

まとめと考察

 正常群では標準刺激から平均35%変化した比較刺激までは,8割の被験者がより近い標準刺激に分類することができた。また各個人の結果では,閾値推定値が5付近であることから一方の標準刺激に偏った分類はしないこと,判断の精度を示す誤差分散が小さい値であることから正確な判断をすることが示された。またこれらを反映して確率関数曲線は急峻な立ち上がりのシグモイドカーブを描いた。疾患群のうち相貌失認を認めない左後頭葉梗塞患者や軽度の痴呆群では,閾値推定値・誤差分散とも正常群とほぼ同じ結果が得られたが,相貌失認患者では誤差分散は大きい値を示し,正常人とは精度の点で大きな違いを示した。しかし従来の相貌認知検査では全く得点できないほどの相貌失認でも,確率関数曲線は右上がりのシグモイドカーブであり,より純粋にマッチングに近い課題ではより正しく判断しうる傾向が明らかにされた。したがって,相貌失認の症状発現には弁別力の量的な低下が影響しているが,covertなレベルでの弁別力はある程度残存していると考えられる。これは従来の相貌認知検査では得られなかった結果である。

 確率関数曲線の傾きが急峻である場合,カテゴリー知覚が存在するといえる。したがって,カテゴリー知覚効果の強さは正常人であれば一定以上の強さがあるが,相貌失認ではその強さが著しく減弱している。このカテゴリー知覚効果が二次的関係特性レベルで障害されているのが相貌失認であるといえ,この二次的関係特性は顔以外にも専門性を獲得した視覚対象に対しては有効になることが知られており,顔以外の対象も弁別できなくなる症例の存在を説明できる。正常では一次的関係特性を共有する対象に頻回に接して弁別が訓練されることで正しい相貌弁別が可能になることから,相貌の弁別は一種の技能と考えることができ,したがって既知相貌と未知相貌に対する弁別力の違いも,その顔に対する熟練度の違いということになる。以上から,従来の相貌失認説で問題になっていた,個々を区別することのできなくなるカテゴリーはその専門性(獲得された技能)で特定され,その障害レベルは二次的関係特性レベルであるといえる。

 以上,モーフィングを用いた課題により,正常人と相貌失認患者の相貌弁別力を定量的に比較した。相貌失認患者では弁別可能範囲が正常人より狭く低い判断精度を示したが,より類似した顔は正しく弁別する傾向があり,covertなレベルではある程度弁別がなされていた。このことは相貌失認の本質を考える上で重要な示唆を与える。

審査要旨

 本研究はモーフィングにより作成した顔刺激画像を用いて、相貌失認患者の相貌弁別力を定量的に評価するという、新しい試みである。

 第一回審査時の提出論文では、二種類の課題を施行し、課題1では弁別に被験者と刺激画像の年齢性別の一致や既知性が影響するかを調べ、課題2では弁別が正しくできるかを定量的に評価した。しかし課題1ではその施行自体に様々なバイアスがかかる可能性があり、その課題単独では相貌失認の評価が難しいことから、課題2すなわち弁別力自体の定量的評価に焦点を当てた修正が求められた。

 修正した論文に対する第二回審査においては、相貌失認患者における弁別力の低下が真に有意なものであるのか、という点につきさらにデータの追加が求められた。そこで軽度の痴呆患者10人に同様の課題を施行し、正常人と有意差がないことを確かめたデータが追加された。

 第二回審査及びその後の修正を経て得られた結果は以下の通りである。

 (1)相貌失認患者では相貌弁別力が正常人や相貌失認のない脳損傷患者・痴呆患者に比して明らかに低下している。

 (2)弁別力が低下していて、従来の相貌認知検査では全く得点できないような患者においても、すくなくともcovertなレベルではある程度の弁別ができている。

 以上、本論文はこれまで詳しく調べられていなかった相貌失認患者の相貌弁別力を定量的に調べ、それが正常人に比較し明らかに低下していること、しかしcovertなレベルでは弁別力が保たれていることを明らかにした。現在もその症状発現機構が明らかにされていない相貌失認の本質を解明する上で、本研究は重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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