学位論文要旨



No 114661
著者(漢字) 閻,群
著者(英字)
著者(カナ) エン,グン
標題(和) 中国語多音節単語の声調における構音結合に関する生理学的研究
標題(洋)
報告番号 114661
報告番号 甲14661
学位授与日 1999.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1518号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 教授 加藤,進昌
 東京大学 教授 高戸,毅
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 助教授 大西,克也
内容要旨 I.序論

 中国語が声調言語であることは良く知られている。声調言語の特徴は、同じ音素で構成された音節であっても、その中の基本周波数の上昇、下降などの相対的な変化の対立によって語彙的な意味の相違を持つことである。声調は音節の超分節的要素であり、音素と同等に扱われ一つの音声学的単位として分析されてきた。

 声調の音響的特徴のうち、一音節内での相対的な声の高さの変化を示すピッチパターンは最も重要なパラメータである。声調に関する種々の側面は、従来単音節単語を用いて多く研究されてきた。中国語の単語は古くは1音節単語が多かったが、近代になって2音節単語が急速に増加した結果、現代では2音節単語が最も多い。次いで1音節単語が多く、4音節単語がそれに続き、3音節単語が最も少ない。自然な発話ではむしろ複数音節を連続して発話することがほとんどである。

 連続発話でみられる音素間の変化のひとつに構音結合(coarticulation)がある。声調言語ではcoarticulationが声調間にも存在することが知られている。声調のcoarticulationに関する多くの研究は、これまで音響音声学的方法を用いて行われたものがほとんどである。本研究では、声調のcoarticulationについて生理学的に検討する。

II.目的

 現在までの音響音声学的研究を通して見ると、中国語において声調のcoarticulationが存在すると報告している点では一致している。しかし、声調のcoarticulationにおいて、先行音節の声調から後続音節へ及ぶ影響とその逆方向の影響を考えた場合、この2つが同時に起こる、すなわち影響が双方向であるのか、あるいは2つのうちいずれか一方のみが起こる、すなわち影響が単方向であるのかについて一致した結果は得られていない。また、音節全体に影響するのかどうかという点、隣接する1音節だけに影響を与えるのか或いは複数音節に渡って影響を与えるのかという点についても一致していない。数少ない音声生理学的な研究の中には、声調のcoarticulationにおける影響は隣接する音節にのみ起こるのではなく、複数音節に渡って影響することがあると報告しているものがある。

 声調のcoarticulationは基本周波数の変化として表現され、発話時の喉頭制御と直接関係するものであるから、音声生理学の観点から考察する必要がある。特に喉頭における声の生成機構の面からの検討は不可欠である。

 声調のcoarticulationは基本周波数の変化として表現され、発話時の喉頭制御と直接関係するものであるから、音声生理学の観点から考察する必要がある。特に喉頭における声の生成機構の面からの検討は不可欠である。

 本研究では、中国語の自然発話の中で出現する多音節単語の声調について、次のような疑問を提起した。

 声調のcoarticulationは存在するか。するとすれば、その生理学的根拠としてどのような喉頭制御が行われているか。

 これまでの研究で一致した見解が得られていない点、すなわち、声調のcoarticulation効果は単方向か双方向か、複数音節に渡って影響を及ぼすかそれとも隣接する音節にのみ影響するか。さらに、音節の全体に影響するかそれとも音節の起点や終点にのみ影響するか。

 上記の疑問を解明することを目的として、音声生理学的方法の一つである筋電図学的手法を用い、声調の生成機構である喉頭レベルでcoarticulationについて検討を行った。

III.方法

 声調は基本周波数の変化パターンと考えられる。従って本研究では、筋活動と音声学的現象との対応を調べるため、基本周波数の調節に関与する輪状甲状筋(Cricothyroid muscle、以下CTと略称)及び胸骨舌骨筋(Sternohyoid muscle、以下SHと略称)を対象として筋電図学的手法を採用した。

 上昇声調と下降声調の音節からなる四音節有意味単語を発話資料とした。4音節単語について2種類の声調の可能な組み合わせは16通りがあるが、その全てを採用した。

 被験者は中国標準語を母国語とする成人男性3名である。筋電図は有鈎針金双極電極を用い、経皮的に目的とする筋肉に刺入し導出した。その位置は先行研究から知られている特有な筋活動パターンを示す動作を被験者に行わせて確認した。検査語をキャリアセテンスに入れ出来る限り自然に音読させた。検査語をランダムな順で提示し15から20回繰り返し発話させた。筋電図信号と音声信号を同時に記録し、コンピュータに取り込んだ。音声波形の視察によって音声学的に特定される時刻を定め、その時刻を規準として繰り返された発話の筋電図を加算平均し筋活動パターンを抽出した。音声信号から音節の始点と終点の基本周波数の値を収集して統計学的分析を行った。

IV.結果

 まず、各音節の始点と終点の基本周波数値を統計学的方法で分析した。各音節の基本周波数の始点と終点に影響を及ぼす因子を明らかにするために、4音節の声調を因子とする分散分析を行った。

 被験者3人の結果をまとめると次の通りである。第1音節の声調は第2音節の始点の基本周波数に影響を及ぼしている。第2音節の声調は第1音節の終点、及び第3音節の始点の基本周波数に影響を及ぼしている。第4音節の声調は第2音節の終点の基本周波数に影響を及ぼしている。方向性は第1、3、4音節に与える影響は単方向で2音節では双方向であった。

 筋活動パターンでは音節数と異なる数の筋活動ピークが認められた。CTの活動のピーク数によって、筋活動パターンは3つのタイプに分けられることがわかった。すなわち、4峰性、3峰性、2峰性の3タイプである。

V.考察

 3名の発話者の音響データの統計学的分析結果から、次のような結果を得た。各音節の始点と終点の基本周波数は他の音節から影響を受けるが、第4音節の始点だけは他の音節から影響を受けない。影響の方向は音節の位置によって単方向、双方向のいずれの場合もある。複数音節に渡って影響を与える場合がある。従来の報告の中で、声調が複数音節に渡って影響すると述べたものは極めて僅かである。本研究では明らかに複数音節に渡って影響が及ぶことが認められ、生理学的裏付けが後述するごとく得られた。

 本研究において中国語の多音節単語発話時の筋活動パターンは3つのタイプに分類することができることが示された。

 タイプ1は筋活動ピークがそれぞれの音節に対応しているものである。このタイプでは筋活動の特徴から各音節間の声調の影響が及ぶのは隣接する音節に限られると考えられる。

 タイプ2の筋活動パターンは、4音節の発話に対して筋活動ピークが3回認められるものである。いずれか2つの音節の声調をまとめて1回の筋活動で実現している。その結果、声調は複数音節に渡って影響を及ぼすことがあると考えられる。

 タイプ3は2回の筋活動だけで4音節単語の声調を実現するものである。この場合4音節単語の前部の3音節が1回の筋活動で実現される場合、後部の3音節が1回の筋活動で実現される場合、あるいは前半2音節と後半2音節がそれぞれ1回の筋活動で実現される場合が考えられる。このうち今回の発話資料では、第1、2音節群、第3、4音節群に対応して各1回の筋活動が出現する単語のみを認めた。この結果、第4音節から第1音節まで3音節に渡って影響が及ぶことが生理学的に説明可能である。

 多音節単語では、単語の音節数とCTの活動ピークの数が異なる場合がある。つまり、1つの単語の中に音節と異なる単位の筋活動の神経指令群があると考えられる。これらの神経指令間での相互影響が基本周波数パターンに表現される。これは声調の構音結合(coarticulation)の存在を示す生理学的な根拠といえる。

 具体的に今回の結果について述べると、音響分析の結果で、従来の大多数の研究結果と異なり、4音節単語では、複数音節に渡って影響が及ぶ現象が認められた。この現象は筋活動の様式、特にCTの筋活動によって説明された。つまり、音響音声学的に記述される声調のcoarticulationは声調の生成に関与する神経指令群の数によって規定されるといえる。

VI.まとめ

 1.中国語の多音節単語において声調のcoarticulationが存在することの生理学的根拠を示した。

 2.声調のcoarticulation効果は単方向、双方向のいずれの場合もあり、声調の全体に影響する場合もある。

 3.複数音節に渡る声調のcoarticulation効果が存在することを示し、その喉頭制御について検討した。

審査要旨

 本研究は、中国語の多音節単語に声調のcoarticulationが存在することの生理学的根拠を明らかにするために、音声生理学的方法の一つである筋電図学的手法を用い、声調の生成機構である喉頭レベルでcoarticulationについて初めて検討を行ったものである。声調のcoarticulation効果は双方向か、単方向か、及ぶ範囲は隣接する音節間に限られるかどうか、音節の始点や終点だけではなく全体に及ぶのかなど、従来の方法による研究で解明されなかった点についても検討を加えていて、下記の結果を得ている。

 1・ 声調のcoarticulationとは、複数音節の声調を一回の喉頭構音動作で生成することであり、この時、音声学的に定められる音節数より、筋活動という生理学的単位の数が少なくなる。本研究では筋電図学的方法を用いることにより、一回の筋活動で2つ以上の音節の声調を制御する現象を確認し、このことから音節の超分節要素である声調が単音節以上の生理学的単位に対応することがあることが示された。

 2・ 音響学的分析の結果、隣接する音節間で声調を決定する基本周波数に相互影響が認められた。筋電図学的方法による分析では、4音節単語のそれぞれの音節に対応した4回の喉頭筋活動が認められるものと3回以下の筋活動が認められるものがあった。つまり、音響学的分析における隣接する音節の相互影響は、4回筋活動が認められた場合は、隣接する筋活動の間の相互影響が音響特徴の変化として現れたと説明することができ、3回以下の筋活動が認められる場合は2音節の声調が1つの生理学的単位によって実現されることによって、音響特徴に変化が生じた結果であると説明することができる。

 3・ いずれの被験者においても、第1音節が第3音節に影響する場合が認められた。このことは筋電図学的方法による分析の結果、第1音節と第2音節の2音節において声調のcoarticulationが認められたことから説明可能である。つまり、音響学的分析で認められた第1音節から第3音節への影響は、第1音節、第2音節を同時に制御する筋活動と、第3音節を制御する筋活動との間で、前方の単位が後方の単位に影響した結果であると説明することができる。

 4・ いずれの被験者においても第4音節が第2音節に影響する場合が認められた。これは筋電図学的方法による分析の結果、第3音節と第4音節において声調のcoarticulationめられたことから説明可能である。1回目の筋活動は第1音節に、2回目の筋活動は第2音節に、3回目の筋活動は後半の2音節に対応する。音響学的分析で認められた第4音節から第2音節への影響は、2回目と3回目の連続する筋活動、いいかえれば2つの連続する生理学的単位の間で影響が生じた結果であると説明することができる。

 5・ 第1音節から第4音節へ影響する場合が認められた。これは筋電図学的方法による分析の結果、4音節単語で声調のcoarticulationが2回起きることが認められたことから説明可能である。この時、生理学的単位は、前半の2音節及び後半の2音節に対応する2つである。音響学的分析に認められる第1音節から第4音節への影響は、この2つの連続する生理学的単位の間で生じた影響の結果であると説明することができる。

 6・ 声調のcoarticulationの本質は生理学的な現象であるから、その本質を解明するには、声調の生成機構である喉頭レベルでの解明が必要であり、そのために喉頭筋電図学的方法は有効であると示された。

 以上、中国語の多音節単語において、声調のcoarticulationが存在することの生理学的根拠を示した。本研究は、声調の構音結合を初めて音声生理学的現象としてとらえ、その生理学的裏付けを行ったとともに、人間の言語機能の理解に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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