学位論文要旨



No 114669
著者(漢字) 宮澤,千尋
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザワ,チヒロ
標題(和) ベトナム北部村落構造の歴史的変化(1907-1997)
標題(洋)
報告番号 114669
報告番号 甲14669
学位授与日 1999.05.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第224号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関本,照夫
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 助教授 福島,真人
 東京大学 教授 古田,元夫
内容要旨

 本論文は、(1)ベトナム北部紅河デルタ農村が、20世紀初頭の植民地期から、独立を獲得するための民族革命、「反封建」革命である土地改革、社会主義化(農村においては農業合作社による農業集団化)とその破綻、現在の社会主義市場経済を取る開放体制(いわゆる刷新=ドイモイ)に至るまで、どのような構造変化を遂げてきたのかを明らかにすること、(2)ベトナム北部社会の組織原理について考察すること、(3)スコット(Scott 1976)がモラル・エコノミー論で提出した弱者救済を含む「生存維持の倫理(subsistence ethic)」が、スコットの言うように歴史的に過去のものでも、復古的なものでもなく、現在の社会主義ベトナムの農民にとって依然重要なものであり、国家の制度的支援がなくとも社会主義の理想として、自前の資源を動員しても達成されることが望ましいと考えられていること(つまりベトナム社会主義は単なる官製のスローガンや国家の押しつけではなく、草の根の社会主義観に支えられて成立している側面があること)の3点を指摘する。

 筆者が1996年2月から1997年7月まで調査を行い、本論文で事例としてあげるのは、バクニン省イエンフォン県ホアロン社ヴィエムサー村とヴィエムサー農業合作社である。なお行政単位としての村、人々の生活圏(耕地+集落、及び村落の守護神の信仰圏、婚姻圏)としての「むら」、農業合作社の範囲は一致している。

 1945年の植民地からの独立を目指す民族革命以前においては、ベトナム北部村落は政治的・社会的・経済的な地位の差によるヒエラルキーがあり、むらびとがそのヒエラルキーの中で、自分の地位を高めようと激しく競争を繰り広げる不平等な構造を持ちながら、一方で年齢階梯的平等原理に基づいた村落共有田の分給、地位獲得に伴う富の再分配、むらのために死んだ者に対するむらびとの祭祀義務、むらびとの葬式に関する公共財(葬式用輿)、49日儀礼に見るむらの仏教会による死者の追悼など、一定の「公共」領域が存在した。こうしたヒエラルキーの存在を前提としつつも、むらびとはむらの成文規約「郷約」や村外婚の規制、むらの守護神である「城隍神」の祭祀で強く結びつけられていた。このような村落構造は、共産主義者が民族革命(植民地体制の打倒)、民主革命(農村においては土地改革)、社会主義化(同じく集団化)を実行する過程で大きく変化した。特に1955年の土地改革期には、1945年以前の村落構造が逆転し、従来むらの政治機構から排除されていた、富やリテラシーに欠ける層が権力を握ることになった。むらびとの取り結んでいた、むら・親族・家族の関係は、「階級(giai cap)」という新たな観点によって分断された。そして、共産党の入党資格が本人・父母・祖父母三代の経歴が問題とされたように、逆に家族概念が「階級」と、それによるむらびとの分断をを固定した。

 しかし、こうした分断は1950年代後半の合作社運動による社会主義化で、富の指標である耕地・家畜・農具などが農民から合作社に拠出されて集団所有になり、集団耕作が行われたことにより、村落生活の中から姿を消し、「平等」「衡平」が社会主義の理想として追求されるべき目標となった。

 合作社の集団耕作は、最終生産物が個々の合作社員(農民)の処分権に帰属しないことで、インセンティヴを喚起することはできなかったが、正当な理由で、集団耕作の評価の方法であり労働報酬基準となる労働点数が足りない社員には、合作社の余剰分から安価で食料を販売する制度があった。1945年以前のむらの政治・行政機構にはなかった、弱者救済を含む「生存維持の倫理」が実現されたのである。

 こうした共同体内部での「平等」「衡平」を尊ぶ意識は、1980年代に入り、国家が個々の農民・世帯に長期使用権を認めて耕地を交付し、経営主体として公認する経済開放政策に転換し、社会主義市場体制が選択された後も、ヴィエムサー農民から消えることはなかった。

 農業合作社は、集団耕作機関としてはその役割を終えたが解体することはなく、将来の人口増加に備えて合作社が管理・保留する耕地を、経営資本・能力・意欲のある社員に落札させて、その代金を元手にして、一般合作社員が国家に納めるべき農地使用税や水利公社に納めるべき水利費を約半額に減額したり、水路・道路などのインフラ建設、端境期に籾を食べ尽くした世帯・困窮世帯への籾貸与のような社会政策の実現など、実質的に行政機関の役割を果たしている。つまり、経営資本・能力・意欲のある社員(農民)がそうでない社員を支えて、共同体全体の「衡平」を図っているのである。

 また、合作社が資本不足で着手することができない、宗教施設の建設、祭礼の挙行、飲料水を供給する井戸の浚渫、緑化は、保寿会(老人会)が、自らの寄付やむらの宗教施設への「功徳(=布施)」を厳格に管理・運用し、さらに労働奉仕によってこれを補っている。

 このような共同体全体の「衡平」を図ろうとする心性は、フォークなタームでは、「団結(doan ket)」「一人は皆のために、皆は一人のために(minh vi moi nguoi,moi nguoi vi minh)」という言葉で表される。

 「団結」概念は、ベトナム人に革命以前から意識されていたが、20世紀に入ると民族主義運動の重要なキー・タームになる。そして「一人は皆のために、皆は一人のために」という一対多、多対一の関係のなかで、その相互の利益をともに増進させることを目的とする側面が強調されることになった。1920年代から反植民地運動、革命運動をリードすることになった共産主義者は、この「団結」「一人は皆のために、皆は一人のために」という概念を使い、ひとつのむらや工場という「愛着に基づいた小集団」(Woodside 1976)の中で、身近な問題を解決するという戦略を取って支持をひろげ、植民地体制の打倒を成功させた。

 前述した合作社運動の過程で、この概念は「革命道徳」としての地位を占め、憲法には一時期「一人は皆のために、皆は一人のために」が明記されることになった。社会主義市場経済志向体制の選択で、この文言は憲法から消えるが、むらレベルでは今なお、むら独自の規約である「文化のむら建設規約」や、父系親族集団であるゾンホ(dong ho)の規約にも明記されている。この概念が単なるスローガンではないことは、農業合作社の政策、保寿会の活動から明らかであり、また親族、家族、さらには経済的互助組織も、このような原理で運営されている。

 このような心性を持つ人々から構成されるベトナム北部の村落社会の組織は、タイやマレーシアを中心とする東南アジア社会のモデルである、細分化された主体相互の二者間の取引に代表されるトランザクション型戦略(Barth 1966)(関本1986;1991)を取るのではない。それとは対局にあるような、単一で内部秩序を持つインコーポレーション型戦略を取る。

 ただし、そのインコーポレーションは、あくまで「愛着に基づく小集団」の範囲内であり、家族・親族・むらの範囲を越えにくい。その意味において、日本の「イエ集団」がよく統制されているかぎりは地縁的性格を脱しやすく、産業化の不可欠な条件である「企業体」の原型となりうる可能性を含んでおり、それを基盤に形成された「日本的経営」形態で、イエの血縁性を払拭しえた(村上・公文・佐藤1979)のに対し、ベトナムの「小集団」は地縁性、血縁性を払拭しにくい。都市におけるレストランなどの経営においても、日本の「暖簾分け」のようにではなく、しばしば「喧嘩別れ」の形で経営体が分裂していくことなどにも、それは表れている。

引用文献Barth,Fredrik(1966)The Models of Social Oragnization.Royal Anthropologocal Occasional paper 23.London:Royal Anthropological Institute.Scott,James.C(1976)The Moral Economy of the Peasant:Rebellion and Subsistence in Souteast Asia.New Haven:Yale University Press.Woodside,Alexander(1976)Community and Revolution in Modern Vietnam.Boston:Houghton Mifflin.村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎(1979)『文明としてのイエ社会』東京:中央公論社関本照夫(1986)「ジャワ農村経済への社会人類学的視点」板垣與一編『アジア研究の課題と方法』東京:東洋経済新報社.273-293.-(1991)「二者関係ネットワーク論再考-東南アジアの事例」『中国-社会と文化』6号99-113.
審査要旨

 本論文は、ベトナム北部・紅河デルタ地区-農村での単身長期のフィールドワークにもとづいたもので、村の社会経済関係の特徴を、20世紀前半の植民地期から現在に至るまで歴史的変化の中でたどり、ベトナム北部社会の組織原理について考察している。宮澤氏の議論の核心は村人たちが共有する「生存維持の原理」、すなわち相互扶助の規範・慣行にある。それが単なる過去のものではなく、共産主義者が指導する革命、農村の社会主義化、最近の開放経済体制といった諸変化を通じ、なお村内の社会関係を律していると言うのが、筆者の主張である。

 論文は、序章に加え7つの章からなっている。序論ではまず、従来東南アジア農村社会について日本やアメリカの学者が提示してきた構造モデルが検討され、ベトナム北部農村の理解のためそれとは違うモデルの必要がうたわれる。第1章では植民地期の村の状況が、歴史史料と聞き書きから明らかにされ、第2章では、革命期の村が描かれる。土地改革、農業集団化、「反革命分子」への闘争など、革命期の特定の村の状況が詳しく明らかにされた研究はこれまでほとんど無く、本論文はこの点で国際的に貴重なものである。第3-4章で家族・親族をめぐる規範と実践を分析した後、第5章では農業合作社と村行政、第6章では老人会、宗教組織、同年会などの村内組織が分析され、筆者の言う「生存維持の原理」が、各種の困難・矛盾にも拘わらず尚いかに実現されているか、その様が詳しく明らかにされる。

 筆者はたとえば、村落共有農地の耕作権が収穫期ごとに入札に出され、その収入が国に対する村全体の税支払に当てられるという現在の共同慣行を挙げ、これを労働意欲・能力のある者がそうでない者の税も肩代わりする制度と捉える。そして、社会主義下ベトナム農村の平等規範が単なる近代社会主義思想の結果ではなく、伝統的な大同思想や、村内の共同慣行・相互扶助慣行と共鳴し合った産物であると主張する。ベトナムには伝統と結びついた草の根の社会主義があると言うのである。

 本論文の第一の価値は、ベトナム農村の社会状況がひとつの村の日常生活の側から詳細に記録されたことにある。これまでベトナムでは政治的理由により、フィールドワークの方法による特定農村の詳しい調査はほとんど不可能であった。本論文はその点で先駆的であり、現代アジア農村の人類学的・歴史的研究に重要な比較資料を提供するものである。その中でも、革命期の村で実際に何が起こったのかをめぐる村人たちの証言は、ベトナム研究にとって、また社会主義革命下の農村という一般的テーマにとって、とくに貴重なものである。さらに論文の第二の価値は、ベトナムの農民が社会主義を受入れ支持した内在的・自発的根拠を、「生存の倫理」と結びつけて論じていることにある。筆者自身が本論文の中で述べているように、個人の損得や能率に焦点がある「経済」の概念と、その前提である生きること自体に焦点を当てた「生存」概念は、スコット対ポプキンの「モラル・エコノミー」論争を始め、人類学・社会科学上未だ未解決の大きな課題である。本論文は、1990年代ベトナム農村でのフィールドワークと歴史的考察を総合することにより、この問題に新たな光を当てるに成功している。

 人類学フィールドワークの標準から見ると、長期の調査とは言え、村に住みこめず近くの町から毎日通って行われた本調査は、村人の言述や規範と実際の行動とのずれを十分見極めるには、まだ不足な点がある。また、筆者の調査村が北部ベトナム、あるいはより狭く紅河デルタ地帯の農村の中で、平均的代表例なのか、あるいはいかなる特殊性を持っているのかといった位置づけもまだ不十分である。しかしながら、本論文は上に挙げた諸特徴によって文化人類学的ベトナム農村研究の分野で先駆的な位置を占めるものであり、審査委員会は全員一致でこの論文が博士(学術)の学位に値すると結論した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54107