高い内部エネルギーを有する分子が分解する機構の解明は、化学反応の基本に関する学問的に重要な問題であるばかりでなく、燃焼、環境問題、CVD電子材料製造等工学技術の発展においても直接必要とされる重要な問題である. これまでにも衝撃波管、高温加熱反応装置、レーザー励起法、等の実験手法を用いて多くの研究がなされている。本研究は化学活性化という手法を用いてシリコンー水素系分子の酸化過程における重要な反応中間体の一つであるシラノールの安定性に関する研究をとりあげている。シラノールは熱的に不安定であり、直接検出が確認されていないため、その単分子熱分解反応機構の研究はシリコンCVD法による電子材料技術の発展になくてはならない重要な問題であるにもかかわらず、これまで系統的な研究報告は行なわれていなかった。 これまでの関連する研究例として、O(1D)+SiH4(1)の反応の速度定数の測定、生成物中の一部であるH、OHおよびSiOの収率の評価等が報告されている。中でも全ての水素原子を失ったSiOが10%程度も直接生成されることは、対応する炭化水素の反応には見られない、シラン系の反応を特徴ずける極めて特異な反応過程である。 本報告においては、O(1D)+SiH4の反応により生成するSiOの振動分布を正確に決定し、その生成メカニズムを検討すること、また新たにこの反応過程においてSi原子が直接生成されることを見出し、その生成機構に関する検討を加える事、別の化学活性化法として、再結合反応OH+SiH3(2)を用いて(1)と異なる内部エネルギーを有するシラノールを作りこれから出発する熱分解反応によって生成されるSiO分子の振動エネルギー分布についての、(1)のそれと比較検討することにより、シラノールから熱分解によってSiOが生成される機構を広い角度で検討する事、さらに、SiOの振動準位がv=0-7の範囲でその振動緩和過程の速度を種々の衝突対について定量的に評価し、その機構を論ずる事、等の従来得られていない重要な知見を、全6章にまとめている。 第1章は序論である。この研究の位置づけ、本研究の特色、従来の研究の総括等をとりまとめている。 第2章において実験方法について述べている。本研究においては、ArFレーザーによるN2Oの光分解によってO(1D)を生成し、SiH4またはH2と反応させて生成物をLIFで検出している。SiOの振動分布をA-X遷移のLIFで求めるための検出光としては230-285nmと広い波長範囲を必要とするが、そのための光源として周波数逓倍したOPO(Continuum;Surelite OPO)装置を新たに開発することによって従来の研究では実質的に不可能であったエネルギー分布の高精度の計測が可能となった。すなわち、簡易型OPO出力を外付き非線型光学結晶により波長逓倍し結晶角度をPersonal Computer制御機構を用いて同期掃引させることによって分解能が約7cm-1と色素レーザーよりも劣るが、SiOの振電バンドを識別するには十分な程度に狭帯域化させる事ができた。このシステムは、広い波長範囲を条件を変えずに速やかに走査できるため、SiOの振動エネルギー分布を広い範囲で再現性良く測定する事ができ,SiOの初期振動分布を正確に決定することができるようになった。なお、より高分解能を必要とするSiおよびOHの検出には色素レーザーを用いた。試料ガスの代表的な条件として10mTorrのN2Oと5mTorrのSiH4をHe希釈で全圧10Torrとし、室温(295±3K)で実験を行っている。 第3章においては、O(1D)+SiH4におけるSiOの振動分布とその生成機構について記述している。光分解後20s以内の振動緩和がほとんどど進んでいない条件で振動励起したSiOのLIFスペクトルが得られ、v=8までの分布を求めた。これよりボルツマン分布近似したSiOの初期振動温度は5200K±660Kと求められた。SiOはO(1D)がシランのSi-H結合に挿入した活性シラノールが水素分子を2段階で連続的に放出して生成されると考えられ、シラノールの多段階分解経路として、(A)HSiOHを中間体として経由する2段階解離、(B)H2SiOを経由する2段階解離、(C)H2SiOからHSiOHへの異性化を含む3段階過程の3通りが想定された。生成物の振動分布は各段階にBIM(Barrier Impulsive Model)を適用することによって得られる。すなわち遷移状態の障壁以上の余剰エネルギーは生成物の全自由度に統計分配され、遷移状態を過ぎて開放されるエネルギーは専ら並進に与えられるものとする。遷移状態を含めた各化学種の構造とエネルギーはZachariahら3)のBAC-MP4の計算を参照した。SiOの振動温度の計算値として経路ABCに対してそれぞれ6200K,2700K,6300Kが得られ,AとCは実測とよい一致を示した。一方RRKM評価による各経路の分岐比は0.72:0.06:0.22となり経路Aが優勢となった。AとCの差は障壁の高さによるものではなく、H2の1,1脱離によるHSiOH生成の方が1,2脱離によるH2SiOの生成よりもややルーズであることによる。また、250-253nmの検出光により基底状態のSi(3PJ)が検出された。この生成過程を検討するために種々の試料濃度でSi濃度の経時変化を観測した。その結果、Siの変化はO(1D)+SiH4、O(1D)+N2O、Si+SiH4、Si+N2Oの4つの反応速度で記述でき、本実験から求めたこれらの速度定数はすべて既存値と一致した。なお本実験条件ではSiのスピン軌道状態間の差はなかった。何れも速い速度であり、後続反応によるものとしては説明できないことから、Si(3PJ)はO(1D)+SiH4の直接の生成物として結論した。一方288.16nmで検出されるSi(1D)はこの反応の直接生成物ではない。Siの収率はSiOとの信号強度の比較から3×10-4と求められた。Siもまた活性シラノールがH2とH2Oを逐次放出させる過程を経由して生成されるものと思われる。三重項への項間交差を無視した多段階BIMの扱いでは、SiH2を経る経路がHSiOH等を経る経路よりも有利と評価された。 第4章においてOH+SiH3反応の検討を行なっている。すなわち、N2OとSiH4の他に1-3 Torrと多量のH2を系に加えて光分解を行うと、加えない場合と同程度のSiOの生成が見られたが、100s程度の生成の後れが見られた。この場合O(1D)は専らH2と反応してOHを生じ、OHはSiH4の水素引き抜いてSiH3を生じる。SiOとOHの経時変化をH2、N2O、SiH4の濃度を変えて観測し、SiOの生成がOH+SiH3によるものとして説明できることが判った。他の反応素過程ではSiOについて、実験条件を変化させたときの挙動を説明できない。その速度定数について1.16×10-10cm3molecule-1s-1と見積もり、またSiOの収率についてO(1D)+SiH4との比較から0.2と評価した。このSiOの初期振動温度は2800K±800Kであった。この反応はラジカル再結合によりやはり活性シラノールを生じ、O(1D)+SiH4と出発点が異なるが同じ多段階分解経路を持つと考えられる。経路Aを仮定したBIM計算によってほぼ一致した振動分布が得られた。経路B、Cは障壁の高さのため寄与は非常に小さい。 以上のようにエネルギーレベルの異なる二つの系で活性シラノールの多段階単分子分解によりSiOやSiを生じる機構を全体的に掌握することができた。 第5章においては、O(1D)+SiH4反応によって生成された高振動励起状態にあるSiOの振動緩和機構の検討を行なっている。すなわち、LIFスペクトルから振動分布がv=0-8のSiOが検出されているが、このうちSiO(v=0-7)の時間的挙動を解析する事により振動緩和速度を決定することができた。振動緩和速度は衝突相手分子の種類により大きな影響を受ける。SiO-N2O衝突においては振動-振動(V-V)過程が卓越する事、SiO-He衝突においては、振動-並進(V-T)機構が支配する事、また、SiO-SiH4衝突は本実験条件では重要ではないこと等が確認された。さらに既存の振動エネルギー移動理論をこれらの実験結果と比較する事によって、その正当性を吟味した。 第6章は以上の実験結果および理論的考察を総括し、将来の課題について展望している。 以上、要するに本研究はこれまで実験的研究が皆無であった、シラノール分子の安定性に関して初めて系統的かつ直接的実験を行い多くの新しい、重要な結論を得ている。これらの知見はCVD電子材料製造技術等の工学的技術の発展においてとりわけ重要である。 |