学位論文要旨



No 114691
著者(漢字) 岸本,哲夫
著者(英字)
著者(カナ) キシモト,テツオ
標題(和) 原子ホログラフィーの分解能向上と効率化の研究
標題(洋)
報告番号 114691
報告番号 甲14691
学位授与日 1999.07.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4495号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 助教授 三尾,典克
 東京大学 助教授 志村,努
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 電気通信大学 教授 清水,富士夫
内容要旨

 20世紀初頭の量子力学の誕生により、古典論では解釈できなかったような光の粒子性、電子のような物質粒子の波動性、が理論的に示された。その後、de Broglieにより物質波の仮説が唱えられ、これを出発点としたSchrodinger equationに従う波動的振る舞いが今世紀数十年の間に様々な実験によって検証されてきた。電子、中性子などの実験と同様、それらの複合粒子である原子についてもその波動性を観測することが期待されたが、実験的に観測されたのは1980年代になってからである。その要因として、以下のものが挙げられる。

 ・原子の場合、室温でのde Broglie波dB=h/mvがÅオーダーとなり、近年の超微細加工技術で得られる透過型加工構造物でもその波動性の観測は困難。

 ・中性子と異なって、原子は結晶等の物質中を透過できない。

 しかし、1980年代にレーザー冷却法が発明、実用化されるといくつかの原子種において数百K程度まで冷やされた原子集団が容易に得られるようになった。このことにより、de Broglie波長がサブmと可視光に迫るものが得られるようになり、アルカリ金属、希ガス等の冷却原子で原子の波動性を利用した研究が盛んに行われるようになった。例えば、原子波によるYoungのdouble slitの実験、干渉計の実験、などがある。このような光学とのanalogyからの種々の実験が行われており、原子光学という分野が確立されるまでになっている。この分野において光波と同様に原子波を操作できる原子用光学素子(レンズやビームスプリッタなど)の技術開発をすることは、一つの重要な課題となっている。1990年前後にすでに原子波の回折、干渉現象は観測され、Fresnelレンズの作用をする透過型素子による原子線の集光が確認されている。また、レーザー定在波による原子波の回折、あるいはそのポテンシャルの山の部分を微小レンズに見立てたマイクロレンズアレーの実験も行われており、分解能数十nm程度の集光が可能となっている。しかし、これらの手法は任意の波面を再生できない点に欠点が残っていた。将来、原子によるリソグラフィーや表面物性を知るための道具として原子波を用いるといった応用を考えたとき、原子を任意の強度で任意の位置に操作できるようになることは今後重要になってくることは確実である。そのため、1990年半ばに透過型素子を用いた原子波による任意の像再生を行う原子ホログラフィー技術が開発され、それ以降改良されてきている。ただ、現在この手法で観測されている最も高い分解能は65m程度であり、さらなる分解能の向上が不可欠である。また、ホログラムが振幅型の透過素子なので、ホログラム全体の面積と全開口部分面積の比とホログラム形状に依存する回折効率の積以上には効率的に原子を像再生させることは出来ない。例えば、開口部の総面積がホログラム全体の25%だとしても、ホログラム透過直前の原子のうちの6%程度しか実像の方に回折してこない計算になる。

 現在の装置で得られるNe原子ビームのFluxは〜103/sである。参考までに、Na原子のトラップの場合は〜106/s、近年目覚しい発展を遂げているBECでもFluxは104/s程度である。これらと比較して光の場合、1mW He-Ne laserだと〜3×1015/s、100W Hglampでも1010/s程度のFluxがある。つまり、Fluxのオーダーの違いから容易に想像できるように、光学とのアナロジーから原子波で実験を行う際には、原子線強度の増大、回折効率の向上を研究することが不可欠であることが理解できるであろう。

 ホログラムのピッチと原子のde Broglie波長から求まる回折角で決まる再生画面の大きさに対する再生像の占める割合が大きい場合や再生強度の分布が連続的あるいは適当な階調を持つ場合、再生に要する原子数は二値的強度分布を持つ簡単な像を再生するときよりさらに大きくなる。原子線源が既に最適化された条件下で、これ以上線源強度を上げることが容易でない場合、別な方法によって輝度を上げる工夫が必要となってくる。単純には計算するホログラムサイズを大きくし、透過する原子波の強度を増大させることが考えられるであろう。しかし、ただホログラムのサイズ全体を大きくして計算・設計したのでは、膨大な大きさのFFTを行なわなければならない。

 本実験では以前に用いていたような大きさ(unit-size:2N×2N)のホログラムをm個ずつ縦横に並べ(total-size:m2N×m2N)、それらがすべて同じ像を同じ位置に再生するように設計する。これにより、回折原子波の強度がm2倍になり、格段に明るい像再生が期待される。計算に際しては、ホログラムのうち一つだけに対してFFTを行い、残りの(m2-1)個のホログラムに関しては位置のずれに相当する位相差を含む項のみをかけてあげることでホログラムの透過関数を求めることで、計算時間の大幅な短縮を図る。但し、この方法ではその分割された一つのホログラムサイズによって分解能が決まることになる。

 実験装置は以前より本研究室において行われているものと同様のものを使用している。液体窒素で冷やされている放電部分で放電して準安定状態中性Ne原子をつくり、原子偏向器を通過後、ゼーマン同調法で減速、MOTでトラップする。トラップレーザーには、1S5-2P9に近共鳴(負に離調)したレーザー(640nm)用いており、解放レーザー(1S5-2P5;597nm)によって準安定状態1S3へoptical pumpすることで原子をトラップサイクルから外して自由落下させ、これを原子線ホログラフィーの原子線源としている。トラップとホログラムの距離は41cm、トラップと検出器(Micro-Channel-Plate)の距離は97cm。ホログラムの位置での原子のde Broglie波長は約7nm、速度に対する速度分散の比は約3×10-3。ホログラムはpitch size 200nm、1024×1024のホログラムを縦横4×4並べたもの。全体の25%程度が穴の割合となるように設計されている。穴の大きさは直径約180nmに加工されている。

 図1(c)にあるように、複数枚型のホログラムによる像再生に成功している。gray scaleの強度の情報も再生されているように見える。予測されたように、像は正像、虚像、0次の回折像、からなっていた。正像を形成している原子数は、約65万個。原子の0次の像と重なるようにぼんやりとした四角い像が確認できるが、これは準安定状態にpumpされずに基底状態に緩和する際に原子から放射される真空紫外光(この辺りの波長に対しても多少MCPの感度があるため)も同時に検出してしまっているものである。この再生像から直接すぐに分解能や強度分布情報の再生具合を見積もるのは像の形が複雑なために難しいであろうと考え、次に単純な強度分布を持つホログラムを上述と同様の設計思想で作成し、そのテストチャートをもとにgray scale強度分布の再生がうまく再現されているかも確かめている。

図1:(a)は、ホログラムの計算パターンの一部。黒が穴、白が閉じている部分。pitch:200nm,焦点距離f=287mm;(b)は、ホログラム全体(4096×4096)のうちの真ん中(2048×2048)のみFFTして得られた計算による再生像。;(c)は、実験結果。積算時間:6時間。原子数:2,291,766。正像と虚像の距離が約5mmに相当。

 従来より使用しているホログラムの設計思想だとホログラム固有の回折効率の劇的向上はこれ以上期待できないであろう。しかし、例えば複素透過関数をホログラムで表現する際に、従来のように実部を取った後に負値を切り捨てること無くその正負値ともに表現できれば、0次の回折を消すことが可能であり、これはつまり正像への回折効率の向上につながる。具体的には、ホログラムを透過した原子のうちの半分近くが正像へ回折されることになる。ホログラム透過時に原子に位相差を与えること負値透過率は表現できる。具体的には、2次のシュタルクポテンシャルU=-|E|2/2によって原子に位相差を与えることが可能である。ここで、Eは静電場、は原子の分極率。この思想をもとに0次の回折を消すホログラムの設計を行った。実験方法としては、例えば両面に導体を蒸着したホログラムに微小開口群を加工し、両面の間に電圧をかけると、開口の形状が異なる場合、各々の穴の中心近傍では原子の感じるポテンシャルが異なるため、位相差をつけることができると考えられている。

 次に、分解能の向上を図るために必要な考察について述べる。本作成法によるホログラムの再生像の理論分解能はセルピッチとなる。そこで、さらに今回はサブミクロンの分解能を持つ像再生を目的としたホログラムの設計を試みた。理論的にはホログラムと検出面の距離を近づけ、再生像の設計位置をホログラムの真下に置くほど分解能が向上するが、本実験での設計・加工法の場合、ホログラムの影(0次の大きさのこと)がホログラムの大きさと同じになった時点で端の開口の内部ではピッチの端と端で位相差半波長がついてしまい、これ以上には改善されず、結果的に理論分解能の上限がセルピッチサイズ(開口の大きさがセルピッチより小さい場合、開口の大きさ)となる。出来る限り透過してくる原子数を得つつ、分解能の向上をめざすことを考える。そのため、再生像の位置をホログラムの真下に設定し、その正像に0次の原子がかぶらないようにホログラムの真ん中は開口を一切開けない。軸上像再生を試みる以上は虚像がかぶることは避けられないが、実際にはホログラムの焦点距離が短いため、虚像は完全に広がってしまい、その重なる強度は十分無視できる大きさとなる。ホログラムと検出面を近づけていく上で次に留意すべき事は、収差の問題である。そこで、この収差の補正も試みる。今回は、再生面上の座標の4次の項までを入れて球面面収差補正項を入れ、ホログラムの設計を行った。

 以上の実験・ホログラム設計を行い、複数枚型ホログラムの手法を確立した。この手法によりホログラム透過原子を増大させ、ホログラムサイズの大きいもの(m×mのunithologram)に対しての計算時間は大幅に(最大1/m2)短縮が図られた。このホログラムによって連続強度分布の像再生に成功し、線形な強度変化を再生していることを確認した。また、回折効率の向上、高分解能の再生を目指したホログラムの設計をした。将来的には、振幅型ホログラムによる像再生のみならず、位相型ホログラムによる像再生の実験などの開拓も望まれる。

審査要旨

 原子ホログラフィーはこの論文の著者をメンバーとした東京大学、電気通信大学、日本電気の共同研究グループにより3年前に発明された。本論文はこの新しい中性原子操作法を技術的に実用化することを目指して改良を行った著者の研究をまとめたものである。

 原子のような複雑な粒子も波動的性質を示すことはすでに60年前に実証されたことであるが、1980年代にレーザー冷却が発明され波長(ドブロイ波長)が長い原子波が作れるようになるまで、原子の波動的性質を利用した技術が開発されることはなかった。レーザー冷却の研究と平行して、冷却された波長の長い原子を使った原子干渉計などの波動光学的研究、光双極子力や電場、磁場による原子線の収束、反射などの幾何光学的研究が行われるようになり、原子光学と呼ばれる研究分野が開かれることとなった。ホログラフィーは波動の最も一般的な制御方法であり原理的に任意の波面を作ることができる波動制御法であるが、これを原子制御の一般的な技術として確立するためには、精度が高く、効率的なホログラムの開発が必要である。著者は、原子ホログラフィーに用いられたSiN薄膜ホログラムの設計改良、それを使って生成される原子パターンの質に関する理論、実験両面からの研究を行い、初めて中間階調表現をもったグレートーンの原子像を描かせることに成功した。

 論文は8章と付録からなっている。第1章は序論で原子波動光学の背景と研究の進むべき道について論じている。第2章は種々の原子操作法の比較を行っている。原子の運動を操作する方法には、電場、磁場や非共鳴光による光双極子相互作用などのポテンシャルの勾配を使った操作法と、X線光学部品として開発されてきた微細加工薄膜を使った操作法がある。これを原子の描画用光学部品としてとらえた場合、前者を使ったものではストライプ磁石による反射鏡、6重極磁場によるレンズ、エバネセント光による反射鏡、光定在波レンズなどがある。後者ではフレネルレンズや反射鏡やビームスプリッターに用いられている透過型の回折格子に加え、著者らが発明した原子ホログラフィー用のSiNホログラムもその一つである。著者はこれらの技術の現状分析と評価を行っている。第3章はこのSiN薄膜ホログラムの設計手順とその評価に当てられている.原子は固体物質をコヒーレントに透過することはないから、原子用のホログラムの透過率関数は薄膜に穴が開いているかどうかで決まる2値しかとることができない。一方、任意の波面を生成するためには任意の複素関数が表現できなければならないから、複素関数から2値関数への近似が必要である。この近似の結果、ホログラムで再生された原子の像には余分なパターンやバックグラウンドを生じる。これらは目的とする像にとって効率を落とし、また、像のノイズの原因となる。著者はこれらの影響と対策を論じている。薄膜微細加工技術の限界は数10ナノメーターであるからホログラフィーに用いる原子のドブロイ波長は少なくとも1ナノメーターは必要であり、したがってレーザー冷却された原子を使う必要がある。この実験では準安定状態にあるネオン原子が用いられた。これに合わせて第4章でレーザー冷却の原理を解説し、第5章で本論文の実験で用いられた輝度の高い準安定状態ネオン原子線を得る装置について記述している。第6章は著者が実際に作成、評価したグレートーンのホログラフィーについての記述である。まず、テストパターンを作成し、再生像が第3章の理論的予測と一致することを確かめた。さらに、人物像を表現するホログラムを設計制作し見事な再生像を得ることに成功している。グレートーンのホログラフィーでは黒白像に比べて格段に多量の原子を必要とするが、著者はホログラムの設計、穴の開け方の改良、さらに多重構造のホログラムを作ることで、この量的な問題を解決した。第7章は分解能を改善してサブミクロンの原子パターンを生成するためのホログラム設計についての記述、第8章は原子ホログラフィーの将来の展望に当てられている。

 以上、要するに著者は新しく開発された原子ホログラフィー技術の詳細な評価と改良を行い初めてグレートーンの原子像を描かせることに成功した。原子操作は固体表面の評価や固体表面を利用したデバイスの重要な要素であり、その新しい手段である原子ホログラフィーの開発、改良は工学に対する大きな貢献といえる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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