本論文は「電荷密度波に付随する相転移現象」と題し、遷移金属ダイカルコゲナイドに属する1T-TaS2の低温で現れる金属絶縁体転移を取り上げ、その絶縁性の起源を明らかにすることを論文の主目的としている。実験手段としては輸送現象、比熱、帯磁率、トンネルスペクトル、圧力効果という非常に多岐にわたる側面から精密な物性測定を行っている。論文は以下の9章から構成されている。 第1章では研究の背景が概観されている。1T-TaS2は強い2次元的なバンド構造に由来して電荷密度波を形成するが、依然として金属状態を維持すると予期される。しかし、実際には同様の結晶構造・電荷密度波構造を有する1T-TaSe2が金属的な挙動を示すのに対して、1T-TaS2は低温の200K近傍で絶縁体(半金属)へと転移する。1T-TaS2の低温絶縁相においては負の磁気抵抗や非線形電気伝導といった特異な物性が現れるが、その舞台となる絶縁性の起源について精密に検討されてこなかった。1979年に提出されたFazekasらによるモット局在のモデルが標準的な理解であったが、本研究では最近山口によって提出された層間の電荷密度波のベアの形成が絶縁性の起源であるというダイマーモデルにも注目して検討を行っている。本研究では1T-TaSe2と1T-TaSe2の固溶体である1T-TaSxSe2-xの物性の組成依存性を精密に追うことによって、これら両モデルとの整合性の検討を行い、1T-TaS2の低温での絶縁性の起源を明らかにすることを目的としている。 第2章では単結晶試料の育成について述べている。化学輸送法による良質な単結晶を1T-TaSxSe2-xの全ての組成領域にわたって育成し、粉末X線回折法、EPMA法による評価を行っている。 第3章では各組成の試料について抵抗率の温度依存性の結果を示している。アニオンの置換によって金属絶縁体転移が消失していく様子を捉え、既存の構造解析との結果と併せて1T-TaSxSe2-xの相図を決定している。 第4章と第5章では金属絶縁体転移に伴う磁気特性と比熱の変化が述べられている.温度や組成を変化させた際の静帯磁率や電子比熱係数の変化が系統的に測定され、その結果1T-TaSxSe2-xの金属絶縁体転移において、モット局在のモデルから予想される2つの特徴的な性質、すなわち、転移点近傍における有効質量の増大と絶縁相における局在スピンの存在が全く観測されないという事実を得ている。このことから、従来受け容れられてきたモット転移のモデルは否定されるべきものであると論じている。 第6章では金属絶縁体転移に伴うトンネルスペクトルの変化について述べられている。転移に伴うバンド構造の変化を、温度、組成、位置という3つのパラメータを変化させることにより系統的に測定している。その結果、金属相においてはフェルミ準位に有限の状態の残る不完全なギャップ構造を取るのに対し、絶縁相では完全なエネルギーギャップが形成されることを明らかにした。また、転移温度直上においては局所的に絶縁領域が形成され、相分離の状態が生じることを明らかにした。これは1次の相転移現象を微視的に捉えたものである。 第7章では高圧下における抵抗測定の結果が示され、低温絶縁相が加圧に対して極めて不安定であることを明らかにしている。 第8章ではSTM測定によって金属絶縁体転移に伴い試料最表面近くの内部不純物像が捉えられた結果が示されている。金属から絶縁体になることによって、不純物による電子の散乱の様子が変化し、内部不純物によって散乱された電子の定在波がSTMによって観察されることを明らかにした。 第9章において総合討論として実験結果とモデルとの整合性について検討し、従来広く受け容れられていたモット局在モデルは否定されるべきであると結論している。 一方、逆に本研究での実験結果はむしろダイマーモデルと整合する点が多く、このモデル支持するとする結論に至った。しかしながら、ダイマーモデルでは説明しにくい幾つかの実験事実が報告されていることが紹介され、議論されている。 1T-TaS2のアニオン置換による多種類の物性変化を系統的に追及した論文は他に例がなく、この系における金属絶縁体転移の物理的描像を理解するうえで本論文は重要な基盤を与えている。本論文によって1T-TaS2を始めとする遷移金属ダイカルコゲナイド全般の電子状態のより詳細な描像が包括的に理解されたと言ってよく、その寄与は非常に大きい。更に本論文ではSTM/STS測定というミクロスコピックな測定手法によって実空間での電子状態の微細な変化を得ることに成功しており、従来のマクロな測定手法では決して得られない実空間位置に依存する電子状態を明らかにしている。従来のマクロな測定手法とSTSというミクロな測定手法の組み合わせによって総合的に系の電子状態を理解する、というアプローチは固体物理の研究手法の進歩に対して大きな貢献があると認められる。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |