学位論文要旨



No 114694
著者(漢字) 椎野,修
著者(英字)
著者(カナ) シイノ,オサム
標題(和) 電荷密度波に付随する相転移現象
標題(洋)
報告番号 114694
報告番号 甲14694
学位授与日 1999.07.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4498号
研究科 工学系研究科
専攻 超伝導工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北澤,宏一
 東京大学 教授 内田,慎一
 東京大学 教授 内野倉,國光
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 助教授 渡邉,聡
 東京工業大学 助教授 長谷川,哲也
内容要旨 1.背景

 高温超伝導がモット絶縁体である母物質にキャリアをドープすることによって発現することから、モット転移に伴う電子状態の変化を理解しようとする試みが盛んに行われている。しかし、金属絶縁体転移近傍の電子状態は強い電子相間によって電子が局在する近傍にあるためにその理解は難しく、より多くの実験結果が求められている。

 1T-TaS2は非常にバラエティに富んだ電荷密度波(CDW)転移を示すことから、そのCDW状態を理解する研究は盛んに進められてきた。その結晶構造とCDW構造、CDW転移温度を図1に示す。この物質は一つのCDWユニットセルが13個のTa原子により構成されるため、CDW存在下においてもキャリアが残りフェルミ準位に完全にギャップが開くことはなく、金属的な性質が予想される。抵抗率の温度依存性から見ると1T-TaS2と同じ結晶構造、CDW構造をとる1T-TaSe2がこの予想と一致した単純な金属的挙動を示すのに対し、1T-TaS2ではNC→C転移とC→T転移において非常に大きな抵抗率の跳びを示し、これらはCDW転移に伴いモット転移が同時に生じているためであると考えられてきた。しかしこの1T-TaS2におけるモット転移の機構については全く理解が進んでいない。

図1、1T-TaS2の結晶構造、CDW構造(C-CDW)、CDW転移温度
2.目的と実験

 本研究の目的は1T-TaS2のセット転移の機構を明らかにすることである。そこで実験はまず、1T-TaSxSe2-x固溶系単結晶を育成し、STM/STSを用いて金属絶縁体転移に伴う電子状態の変化を詳細に調べた。さらに層間の結合とモット転移との関係を明らかにするために抵抗率の圧力依存性を調べた。

3.結果と考察3.1抵抗率の組成依存性

 1T-TaSxSe2-x固溶系単結晶は通常のヨウ素気相輸送法によって育成した。その抵抗率測定の結果を図2(a)に示す。1T-TaS2にSeを置換することによってモット転移に伴う抵抗率の跳びが消失し、金属的な振る舞いへと移行していく様子がわかる。抵抗測定の結果をもとに作成した相図を図2(b)に示す。そこで金属絶縁体転移に伴う電子状態の変化として矢印に示すような変化をSTM/STSを用いて調べた。

図2、(a)1T-TaSxSe2-xの抵抗率の温度依存性、(b)1T-TaSxSe2-xの相図
3.2バンド構造の組成依存性

 77Kにおいて1T-TaSxSe2-xのバンド構造の組成依存性を測定した。その結果を図3に示す。1T-TaSe2において幅950meVの伝導バンドがSの置換によって約600meVにまで狭まり、その後急激にMott-Hubbard Gapが形成される様子を捉えている。これはMott-Hubbard Gapが形成される様子をSTM/STSによって明瞭に捉えた初めての成功例である。ここで注目したいのはギャップが形成される過程において電子の有効質量の発散を示すピーク構造がフェルミ準位に現れないということである。電気伝導度は=ne2/m*と表すことが出来ることから、この結果は1T-TaSxSe2-xのモット転移がm*→∞ではなくn→0という過程によって生じていることを示している。ここで、たとえ相間が強くとも金属相においてキャリア数が変化するということはアニオンの置換によってバンドのフィリングが変化していることを意味する。そこでトンネルスペクトルの形状も考慮に入れ、1T-TaSxSe2-xのモット転移に対し図4の様な2-band modelを提案した。

図表図3、77Kにおける1T-TaSxSe2-xのSTM/STS測定の結果 / 図4、1T-TaSxSe2-xのバンド構造の模式図
3.3温度依存性

 金属絶縁体転移に伴う電子状態の変化を調べる別のアプローチとして、1T-TaS1.7Se0.3の試料を徐冷し転移温度近傍における電子状態を調べた。抵抗率測定から見た転移の開始温度は188Kであるが193KにおけるSTM/STS測定から、転移温度直上で絶縁相領域と金属相領域とが共存し、絶縁相でのみMott-Hubbard Gapが開いていることが明らかになった(図5)。絶縁相領域は安定に存在し、これは転移が一次転移であることに由来すると考えられる。また、その絶縁相領域が形成されている最小の領域は約5nmであり、これはCDW約4波長分に相当する。

3.4モット絶縁相における電子の局在位置

 完全にMott-Hubbard Gapが開く1T-TaS1.5Se0.5の電子状態についてトンネルスペクトルの位置依存性を77Kにおいて測定した(図6)。トンネルスペクトルは表面を観察すると同時に2.5Å間隔で連続的に測定した。STM像は波長約13Åの明瞭なCDWの超周期構造を示している。トンネルスペクトルをその測定位置によって分類した結果、Mott-Hubbard Gapは全測定領域で明瞭に観察されているものの両ハバードバンドがCDWの山の位置において同時に強く観測されている。通常のバンド絶縁体の場合、ギャップ端の状態密度はユニットセルの中で占有準位と非占有準位の状態が異なる位置に局在することから、この測定結果はこのエネルギーギャップが通常のバンド絶縁体のものではなく電子相間によるものであり、電子の局在位置がCDWの山の位置であることを強く示唆している。

図表図5、193Kにおける1T-TaS1.7Se0.3のSTM/STS測定の結果 / 図6、77Kにおける1T-TaS1.5Se0.5のSTM/STS測定の結果
3.5抵抗率の圧力依存性

 同じ結晶構造、CDW構造を持ちながらも1T-TaS2と1T-TaSe2では抵抗率の異方性が大きく異なるという報告がある。この異方性の違いが両者に大きな物性の違いを与えるのではないかと考え、高圧下における抵抗測定を行うことにより層間の結合とモット転移の関係について調べた。1T-TaS2に対する測定からは加圧に伴い転移温度が低温側にシフトし、約10kbarで完全に消失するという結果が得られた(図7)。Seを置換した1T-TaS1.5Se0.5に対する測定結果では、約6kbarというより低い圧力で転移が消失することから、1T-TaS2のモット転移に対して系の持つ強い2次元性か重要な役割を果たしており、Seの置換は3次元性を強める働きであることが明らかになった。

3.6モット転移と構造相転移

 1T-TaS2のモット転移が一次転移であることから、このモット転移が構造相転移に伴うものであると考えられる。但し77Kで組成を振った場合、面内ではあらゆる組成領域でC-CDW相が保存される。しかしながら1T-TaSe2と1T-TaS2のC-CDW構造を比較した場合、前者が3次元的秩序を持ったout-of-phase stackingをとるのに対し後者は3次元的秩序のないin-phase stackingをとる。さらに1T-TaS2の室温付近の金属相においてもout-of-phase stackingであることから、このスタッキングの変化がモット転移を誘起する構造相転移の本質であると考えている。

3.7金属絶縁体転移に伴う不純物像の変化

 モット転移に伴う電子状態の変化を調べている際に転移に伴い不純物像が大きく変化していることを見出した。室温において不純物像はCDWの波長とほぼ等しい小さなスポットとして観察されるが、低温においては最大100Åもの大きさとして観察され(図8)、さらに不純物の周辺において電子の定在波と思われる濃淡が観察されている。この不純物像の変化は金属絶縁体転移に伴い、キャリアの減少によって遮蔽が弱くなり、さらには低エネルギー励起に関与する電子の波長が長くなったことに由来すると考えられる。

図表図7、1T-TaS2の抵抗率の圧力依存性 / 図8、1T-TaS1.7Se0.3の123Kにおける不純物像
4.結論

 以上の実験結果から1T-TaSxSe2-xのモット転移に対して以下のことを明らかにした。

 1)1T-TaSe2へのSの置換は電子のトランスファー積分を減少させる効果がある。

 2)モット転移点では電子の有効質量は発散しない。

 3)モット転移によってキャリアはCDWの山の位置に局在する。

 4)転位点近傍では金属相と絶縁相のヒステリシスを伴う相分離が起こる。

 5)1T-TaS2のモット転移に対して系の強い2次元性が重要な役割を果たし、Seの置換は3次元性を強める働きがある。

 6)1T-TaSxSe2-xのモット転移を誘起する構造相転移は、3次元的秩序を持ったout-of-phase stackingから3次元秩序を持たないin-phase stackingへの変化である。

 7)モット転移に伴い、遮蔽の低下とバンド構造の変化によって不純物像が劇的に変化する。

審査要旨

 本論文は「電荷密度波に付随する相転移現象」と題し、遷移金属ダイカルコゲナイドに属する1T-TaS2の低温で現れる金属絶縁体転移を取り上げ、その絶縁性の起源を明らかにすることを論文の主目的としている。実験手段としては輸送現象、比熱、帯磁率、トンネルスペクトル、圧力効果という非常に多岐にわたる側面から精密な物性測定を行っている。論文は以下の9章から構成されている。

 第1章では研究の背景が概観されている。1T-TaS2は強い2次元的なバンド構造に由来して電荷密度波を形成するが、依然として金属状態を維持すると予期される。しかし、実際には同様の結晶構造・電荷密度波構造を有する1T-TaSe2が金属的な挙動を示すのに対して、1T-TaS2は低温の200K近傍で絶縁体(半金属)へと転移する。1T-TaS2の低温絶縁相においては負の磁気抵抗や非線形電気伝導といった特異な物性が現れるが、その舞台となる絶縁性の起源について精密に検討されてこなかった。1979年に提出されたFazekasらによるモット局在のモデルが標準的な理解であったが、本研究では最近山口によって提出された層間の電荷密度波のベアの形成が絶縁性の起源であるというダイマーモデルにも注目して検討を行っている。本研究では1T-TaSe2と1T-TaSe2の固溶体である1T-TaSxSe2-xの物性の組成依存性を精密に追うことによって、これら両モデルとの整合性の検討を行い、1T-TaS2の低温での絶縁性の起源を明らかにすることを目的としている。

 第2章では単結晶試料の育成について述べている。化学輸送法による良質な単結晶を1T-TaSxSe2-xの全ての組成領域にわたって育成し、粉末X線回折法、EPMA法による評価を行っている。

 第3章では各組成の試料について抵抗率の温度依存性の結果を示している。アニオンの置換によって金属絶縁体転移が消失していく様子を捉え、既存の構造解析との結果と併せて1T-TaSxSe2-xの相図を決定している。

 第4章と第5章では金属絶縁体転移に伴う磁気特性と比熱の変化が述べられている.温度や組成を変化させた際の静帯磁率や電子比熱係数の変化が系統的に測定され、その結果1T-TaSxSe2-xの金属絶縁体転移において、モット局在のモデルから予想される2つの特徴的な性質、すなわち、転移点近傍における有効質量の増大と絶縁相における局在スピンの存在が全く観測されないという事実を得ている。このことから、従来受け容れられてきたモット転移のモデルは否定されるべきものであると論じている。

 第6章では金属絶縁体転移に伴うトンネルスペクトルの変化について述べられている。転移に伴うバンド構造の変化を、温度、組成、位置という3つのパラメータを変化させることにより系統的に測定している。その結果、金属相においてはフェルミ準位に有限の状態の残る不完全なギャップ構造を取るのに対し、絶縁相では完全なエネルギーギャップが形成されることを明らかにした。また、転移温度直上においては局所的に絶縁領域が形成され、相分離の状態が生じることを明らかにした。これは1次の相転移現象を微視的に捉えたものである。

 第7章では高圧下における抵抗測定の結果が示され、低温絶縁相が加圧に対して極めて不安定であることを明らかにしている。

 第8章ではSTM測定によって金属絶縁体転移に伴い試料最表面近くの内部不純物像が捉えられた結果が示されている。金属から絶縁体になることによって、不純物による電子の散乱の様子が変化し、内部不純物によって散乱された電子の定在波がSTMによって観察されることを明らかにした。

 第9章において総合討論として実験結果とモデルとの整合性について検討し、従来広く受け容れられていたモット局在モデルは否定されるべきであると結論している。

 一方、逆に本研究での実験結果はむしろダイマーモデルと整合する点が多く、このモデル支持するとする結論に至った。しかしながら、ダイマーモデルでは説明しにくい幾つかの実験事実が報告されていることが紹介され、議論されている。

 1T-TaS2のアニオン置換による多種類の物性変化を系統的に追及した論文は他に例がなく、この系における金属絶縁体転移の物理的描像を理解するうえで本論文は重要な基盤を与えている。本論文によって1T-TaS2を始めとする遷移金属ダイカルコゲナイド全般の電子状態のより詳細な描像が包括的に理解されたと言ってよく、その寄与は非常に大きい。更に本論文ではSTM/STS測定というミクロスコピックな測定手法によって実空間での電子状態の微細な変化を得ることに成功しており、従来のマクロな測定手法では決して得られない実空間位置に依存する電子状態を明らかにしている。従来のマクロな測定手法とSTSというミクロな測定手法の組み合わせによって総合的に系の電子状態を理解する、というアプローチは固体物理の研究手法の進歩に対して大きな貢献があると認められる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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