水稲の生産力向上には登熟期を中心とした個体群のエネルギー収支を高い窒素濃度下でいかに高く保つかが基本的条件となる。本研究は登熟期の水稲を対象に、多窒素条件下での窒素利用効率、呼吸特性、エネルギー収支をめぐる諸問題を生態生理学的視点から取り上げたもので、以下の3章からなる。 第1章では窒素吸収量の増大下での水稲の光エネルギー収支の改善の可能性を知るために、最近育成され、窒素利用効率が改善されていると予想される4水稲品種・系統を用いて、登熟期の水稲個体群の窒素吸収量とエネルギー収支・成長の関係を解析した。その結果、以下のような諸点が明らがとなった。 1)生育期間を通じて窒素濃度が20、60、120ppmの水耕下で材料を育てた結果、出穂時の全乾物重は全品種ともに窒素吸収量と正の相関を示したが、生育期間の長い品種では、約20g/m2以上の高窒素吸収下で収量低下が顕著であった。しかし、用いたF1ハイブリッド品種の場合、約35g/m2という高い窒素吸収量まで収量は増加した。 2)窒素吸収量と登熟期間中のイネ個体群のエネルギー収支について解析し、これまで生育期間を通してほぼ一定の比例関係にあるとされてきた真の光合成量当たりの呼吸消費量(R/Pg比)が、生育時期および品種などの条件により大きく変動することを明らがにした。さらには、用いたF1ハイブリッド品種では最大窒素吸収量が35g/m2と高いにもかかわらず全エネルギー固定量あたりの成長量(成長効率、GE)の低下が認められず、このような高窒素吸収量下でGEを高く維持できる形質が今後の作物の多収を考えるうえで重要となることを指摘した。 3)成長効率と暗呼吸の関係を解析するために、呼吸速度を維持呼吸速度(Rm)と成長呼吸速度(Rg)にわけて検討し、出穂後維持呼吸係数(m)は低下、成長呼吸係数(g)は著しく増加することを明らかにした。また、m及びgの変動の様相を解析し、これまで、生育後半の成長効率が低下する原因がRmの増加によるとの知見に対し、Rmの増加はあるものの、gの変化がGEの変動に大きく関与することを明らかにした。すなわち、作物の生産性を向上するためにはRmを小さくすると同時に登熟期間中のgが小さく、Rgの大きい系統を選抜することが必要であることを示した。 第2章では前章において見られた呼吸の変動の機構を知るため暗呼吸にみられるモーニングライズ(morning rise)現象および暗呼吸の温度係数について以下の点を明らかにした。 1)イネの暗呼吸に見られるモーニングライズ現象において、夜半の呼吸極小値で翌朝の呼吸極大値を除した値をモーニングライズ率(MRR)とし、モーニングライズの変動に関わる要因について検討した。その結果、MRRは強い光強度下および低温下で増加し、高窒素濃度下で低下、さらに、生育が進むにつれて低下し、一定期間平均の相対成長速度(RGR)及びGEと高い正の相関を示すことを明らかにした。これらの結果から、モーニングライズが植物の呼吸の意義を評値する指標となる可能性を示した。 2)イネ個体全体の呼吸の温度係数(Q10)がどのような条件下で変動するかについて検討した。その結果、暗黒にしてからの時間に伴って低下すると同時に、長期間にわたり日中の光強度が高い場合にもQ10が高くなることを明らかにした。さらには、15から25℃、20から30℃、25から35℃の測定温度範囲での登熟期水稲のQ10の平均値は各々2.14、1.76及び1.56と低温領域ほど高いことを確認し、温度によるQ10の変動の生産生態学的意義を明らかにした。特に、温度範囲によるQ10の変動はこれまでその根拠が明らかにされていなかった温度の日較差の大きい地帯でイネの収量が高くなる現象に対し、エネルギー収支面から一つの根拠を与えた。 第3章では呼吸効率の低下に関わる可能性が指摘されているシアン耐性呼吸について、呼吸効率との関連性を検討し、次のような点を明らかにした。 1)阻害剤滴定法により水稲の葉のシアン耐性呼吸の活性度(全呼吸量に対するシアン耐性呼吸量の比)を測定し、活性度は登熟の進行、葉の老化にともなって低下、さらには、高窒素濃度下、強光下で脊てたイネの葉で高まることを明らかにした。このようなシアン耐性呼吸活性度の変動は前車における呼吸効率の変動と一定の関係を示さないことから、登熟期イネの呼吸効率の低下にシアン耐性呼吸が直接関与している可能性は小さいと推測した。 2)イネのシアン耐性呼吸系の主要酵素であるオールターナティブオキシデース(AOX)遺伝子の一つであるAOX1aとチトクローム系路の末端酸化酵素チトクロームオキシデース(COX)のサブユニット遺伝子の一つであるCOX5bを用いてノーザン屏析を行い、AOX1aの発現量が夜間より昼間に高く、また、生育時期、品種により大きく変動するが、この発現パターンは前述したシアン耐性呼吸の変動と一致しないことを明らかにし、今後、遺伝子の発現量と同時に酵素活性の変動についての検討が必要であることを指摘した。 以上本論文は、登熟期の水稲個体群の窒素利用効率、光エネルギー固定上の諸特性を解析し、それらの変動の生理生態的機構を明らかにした。本研究成果は今後の水稲収量向上の一つの方向性を示したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |