学位論文要旨



No 114700
著者(漢字) 李,廣弘
著者(英字)
著者(カナ) リ,カンホン
標題(和) 登熟期水稲の成長・呼吸効率に影響を及ぼす生態生理的諸要因
標題(洋) Ecophysiological factors affecting efficiency of growth and respiration in ripening stage of rice
報告番号 114700
報告番号 甲14700
学位授与日 1999.09.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2070号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋田,重誠
 東京大学 教授 崎山,亮三
 東京大学 教授 石井,龍一
 東京大学 教授 平井,篤志
 東京大学 教授 坂,齋
内容要旨

 作物生産力には光エネルギーの固定のみならずこれを利用、放出する呼吸もエネルギー収支に大きな影響を及ぼす。作物成長をエネルギー収支の面からとらえる指標としては総光合成速度(Pg)に対する成長速度(CGR)の比で与えられる成長効率(GE)が取り上げられる。イネのGEは生育前半には比較的安定した高い値を維持するが出穂期以降になると急速に低下する。また、GEは窒素吸収量によっても大きく変動し、総窒素吸収量とともに吸収窒素量に対する収量、すなわち、窒素利用効率も生産力をつよく規定する。したがって、これからの作物生産力の向上にあたっては多窒素条件下で如何に窒素利用効率および成長効率を上げるかが基本的方向と考えられる。そこで、窒素吸収量を高めた条件下で水稲を育て、登熟期のエネルギー収支、呼吸効率の変動に関わる生態生理的要因を知るために本研究を行った。

1.窒素吸収量とエネルギー収支・成長

 イネの窒素利用効率は品種改良とともに大きく改善されてきている。しかし、品種の窒素に対する反応及び成長効率をめぐる研究は1970年代以前を中心としたものが多く、その後の研究は限られている。そこで、本研究では窒素吸収量を増大させることが可能な水耕条件下で、しかも最近育成され窒素利用効率が改善されていると予想される水稲品種・系統を用いて、登熟期の水稲個体群の成長・呼吸効率と窒素の関係を明らかにするために試験を行った。

1)水稲個体群の成長・収量と窒素吸収量

 現在日本で最も高い収量性を示すとされる水稲品種タカナリを供試し、生育期間を通して水耕液中の窒素濃度を10および80ppmの2段階で育てた結果、高濃度区での窒素吸収量は44.7g/m2となり、一般的な多収栽培条件下でみられる最大窒素吸収量の約2倍に達した。窒素吸収量が高まることにより全乾物重は増加したが、出穂後葉面積は急激に低下し、収量は著しく低くなった。

 さらに、生育期間を異にする4品種・系統についてN濃度20、60、120ppmの水耕下で育てた結果、出穂時の全乾物重は全品種ともに窒素吸収量と正の相関を示したが、収量は生育期間の長いタカナリとIR66740-AC1-3では約20g/m2以上の窒素吸収量で著しく低下、生育期間の短いフジヒカリとIR69688Hでは窒素吸収量の増大につれて増加した。特に、F1ハイブリッドIR69688Hの場合、約35g/m2の窒素吸収量まで収量は増加した。各品種の窒素利用効率は窒素吸収量の増加とともに低下したが、生育期間の長い品種での低下が顕著であった。

 以上のように、イネの窒素利用効率は育種により改善された例も新たに見い出されたが、最近育成された品種でもこれが低い品種が存在し、この形質が窒素吸収量が高い条件下での収量性を制限していることが明らかとなった。

2)エネルギー収支・成長効率と窒素吸収量

 そこで、窒素吸収量と登熟期間中のイネ個体群のエネルギー収支について解析した。全品種において葉面積指数(LAI)の増加とともに呼吸速度(R)は増加したが、CGRはフジヒカリとIR69688Hでは増加、タカナリとIR66740-AC1-3では7以上の高いLAI下で低下した。すなわち、フジヒカリとIR69688HではCGRに対して最適LAIは見られなかったがタカナリとIR66740-AC1-3では最適LAIが見られた。高いLAIでのCGRの低下はタカナリの場合は群落構造の悪化、IR66740-AC1-3の場合は個体群を構成する個葉の光合成速度が他の品種より低いことによると思われた。その結果、窒素吸収量の増加にともなうGEの低下は生育期間の短いフジヒカリとIR69688Hでは小さかったのに対し、生育期間の長いタカナリとIR66740-AC1-3では著しく大きかった。

 GEの変化に深く関わる全エネルギー固定量当たりの呼吸消費量(R/Pg)はこれまで生育期間を通してほぼ一定の比例関係にあるとされてきたが、本研究の結果からその比例係数は生育時期および品種により大きく変動することが明らかとなった。

 生育期間の短い品種では窒素吸収量が比較的少ないため登熟期のGEは高く維持されたとも考えられるが、F1ハイブリッドIR69688Hでは最大窒素吸収量が35g/m2と高いにもかかわらずGEの低下が認められず、このような高窒素吸収量下でGEを高く維持できる生理生態的機構についてさらなる研究が必要であると考えられた。

3)維持及び成長呼吸と窒素吸収量

 成長効率と暗呼吸の関係を解析するために、呼吸を2つの構成要素である維持呼吸と成長呼吸にわけて検討した。その結果、これまでの知見とは対照的に、出穂後維持呼吸係数(m)は低下、成長呼吸係数(g)は著しく増加し、最適栽培窒素濃度下でのgの値は品種によって大きく変動することが明らかとなった。また、m及びgの値は生育期間を通して窒素濃度の増加により高くなったが、mは窒素濃度の増加により、gは成長呼吸基質量の不足する条件下で増加すると思われた。

 これまで、生育後半の成長効率が低下する原因は維持呼吸量(Rm)の増加によるとされてきたが、Rmの増加はあるものの、主として成長呼吸量(Rg)の低下とgの増加がGE及びYgの低下を来すと解釈するのが妥当と考えられた。

 以上のように、成長呼吸係数gが小さいことは呼吸効率が高いことを示しており、作物の生産性を向上するためにはmが小さい品種ではなく、gが小さい系統を選抜することが必要と考えられた。

2.暗呼吸のモーニングライズおよび温度係数の意義

 前章において見られた呼吸の変動の機構を知るため暗呼吸にみられるモーニングライズおよび暗呼吸の温度係数について検討した。

1)モーニングライズの意義

 イネの暗呼吸にみられるモーニングライズ(morning rise)現象は約24時間サイクルで変動し、その連続はサーカディアンリズム(circadian rhythm)と考えられた。なお、このサーカディアンリズムは日射量及び測定温度が低い場合には不明確となった。本実験では、夜半の呼吸極小値で翌朝の呼吸極大値を除した値をモーニングライズ率(MRR)とし、モーニングライズの変動に関わる要因について検討した。MRRは強い光強度下および低温下で増加し、高窒素濃度下で低下、さらに、生育が進むにつれて低下したが、呼吸測定当日の日射量および単位乾物重当たり呼吸速度(r)とは相関がなく、一定期間平均の相対成長速度(RGR)及びGEと高い相関を示した。これらの結果は、rが同じであってもMRRが高い場合成長速度が大きいことを示しており、モーニングライズは植物の呼吸効率を評価する指標として利用できると推測した。

2)暗呼吸の温度係数の変動とその意義

 一般に呼吸の温度係数(Q10)は2とされてきたが、呼吸パターンが温度により大きく変動するとの上記結果は暗呼吸のQ10が変動する可能性を示唆している。まず、イネ個体全体のQ10について検討した結果、暗黒にしてからの時間に伴い低下した。また、15と25℃、20と30℃、25と35℃の測定温度範囲でのQ10の平均値は各々2.14、1.76及び1.56と低温下ほど高かった。さらに、長期間にわたり日中の光強度が高い場合にQ10は高くなった。これらの結果は、暗呼吸の温度係数は明らかに環境条件に応じて変動することを示している。特に、温度範囲によるQ10の変動はこれまでその根拠が明らかにされていなかった温度の日較差の大きい地帯でイネの収量が高くなる現象に対し、エネルギー収支面から一つの根拠を与えるものと考えられた。

3.呼吸効率に及ぼすシアン耐性呼吸の影響

 前章までの結果によりイネの呼吸効率は生育が進むにつれて大きく低下するが、その生理的根拠については不明な点が多い。呼吸効率の低下に関わる可能性のあるものとしてシアン耐性呼吸が指摘されているが、イネにおいてシアン耐性呼吸と呼吸効率の関連性を検証した例はない。そこで、イネの呼吸効率とシアン耐性呼吸活性度(capacity)および予シアン耐性呼吸経路の末端酸化酵素(AOX)の発現について予備的検討を行った。

1)シアン耐性呼吸活性度の変動

 阻害剤滴定法によりタカナリの葉のシアン耐性呼吸の活性度を測定したところ、登熟が進むにつれて全呼吸量に対するシアン耐性呼吸量の比は低下した。そして、止葉と第4葉のシアン耐性呼吸比を比較した結果、シアン耐性呼吸比は葉の老化にともなって低下すると考えられた。また、シアン耐性呼吸比は高窒素濃度下、強光下で育てたイネの葉で高く、連続暗条件下に置かれたイネの葉のシアン耐性呼吸比は時間とともに低下した。さらに、品種によりシアン耐性呼吸比はかなり変動した。これらの結果は、窒素濃度及び呼吸基質量等の環境条件によってシアン耐性呼吸比は変動することを示し、登熟期のシアン耐性呼吸の変動と呼吸効率の低下と一定関係がないことから、登熟期イネの呼吸効率の低下にシアン耐性呼吸が直接関与している可能性は小さいと推測された。

2)AOX遺伝子の発現パターン

 イネのAOX遺伝子の一つであるAOX1aとチトクローム経路の末端酸化酵素のサブユニット遺伝子の一つであるCOX5bを用いてノーザン解析を行った。葉では根、穂及び稈よりAOX1aの発現が高く、昼間の発現量が夜間より高く、また、生育時期、品種により大きく変動した。登熟期の葉のAOX1aの発現パターンはシアン耐性呼吸の変動と一致しなかった。シアン耐性呼吸には遺伝子の発現量と同時に酵素の活性程度がより深く関わると報告されていることから、今後、蛋白レベルでの活性の変動についての検討が必要と考えられた。

審査要旨

 水稲の生産力向上には登熟期を中心とした個体群のエネルギー収支を高い窒素濃度下でいかに高く保つかが基本的条件となる。本研究は登熟期の水稲を対象に、多窒素条件下での窒素利用効率、呼吸特性、エネルギー収支をめぐる諸問題を生態生理学的視点から取り上げたもので、以下の3章からなる。

 第1章では窒素吸収量の増大下での水稲の光エネルギー収支の改善の可能性を知るために、最近育成され、窒素利用効率が改善されていると予想される4水稲品種・系統を用いて、登熟期の水稲個体群の窒素吸収量とエネルギー収支・成長の関係を解析した。その結果、以下のような諸点が明らがとなった。

 1)生育期間を通じて窒素濃度が20、60、120ppmの水耕下で材料を育てた結果、出穂時の全乾物重は全品種ともに窒素吸収量と正の相関を示したが、生育期間の長い品種では、約20g/m2以上の高窒素吸収下で収量低下が顕著であった。しかし、用いたF1ハイブリッド品種の場合、約35g/m2という高い窒素吸収量まで収量は増加した。

 2)窒素吸収量と登熟期間中のイネ個体群のエネルギー収支について解析し、これまで生育期間を通してほぼ一定の比例関係にあるとされてきた真の光合成量当たりの呼吸消費量(R/Pg比)が、生育時期および品種などの条件により大きく変動することを明らがにした。さらには、用いたF1ハイブリッド品種では最大窒素吸収量が35g/m2と高いにもかかわらず全エネルギー固定量あたりの成長量(成長効率、GE)の低下が認められず、このような高窒素吸収量下でGEを高く維持できる形質が今後の作物の多収を考えるうえで重要となることを指摘した。

 3)成長効率と暗呼吸の関係を解析するために、呼吸速度を維持呼吸速度(Rm)と成長呼吸速度(Rg)にわけて検討し、出穂後維持呼吸係数(m)は低下、成長呼吸係数(g)は著しく増加することを明らかにした。また、m及びgの変動の様相を解析し、これまで、生育後半の成長効率が低下する原因がRmの増加によるとの知見に対し、Rmの増加はあるものの、gの変化がGEの変動に大きく関与することを明らかにした。すなわち、作物の生産性を向上するためにはRmを小さくすると同時に登熟期間中のgが小さく、Rgの大きい系統を選抜することが必要であることを示した。

 第2章では前章において見られた呼吸の変動の機構を知るため暗呼吸にみられるモーニングライズ(morning rise)現象および暗呼吸の温度係数について以下の点を明らかにした。

 1)イネの暗呼吸に見られるモーニングライズ現象において、夜半の呼吸極小値で翌朝の呼吸極大値を除した値をモーニングライズ率(MRR)とし、モーニングライズの変動に関わる要因について検討した。その結果、MRRは強い光強度下および低温下で増加し、高窒素濃度下で低下、さらに、生育が進むにつれて低下し、一定期間平均の相対成長速度(RGR)及びGEと高い正の相関を示すことを明らかにした。これらの結果から、モーニングライズが植物の呼吸の意義を評値する指標となる可能性を示した。

 2)イネ個体全体の呼吸の温度係数(Q10)がどのような条件下で変動するかについて検討した。その結果、暗黒にしてからの時間に伴って低下すると同時に、長期間にわたり日中の光強度が高い場合にもQ10が高くなることを明らかにした。さらには、15から25℃、20から30℃、25から35℃の測定温度範囲での登熟期水稲のQ10の平均値は各々2.14、1.76及び1.56と低温領域ほど高いことを確認し、温度によるQ10の変動の生産生態学的意義を明らかにした。特に、温度範囲によるQ10の変動はこれまでその根拠が明らかにされていなかった温度の日較差の大きい地帯でイネの収量が高くなる現象に対し、エネルギー収支面から一つの根拠を与えた。

 第3章では呼吸効率の低下に関わる可能性が指摘されているシアン耐性呼吸について、呼吸効率との関連性を検討し、次のような点を明らかにした。

 1)阻害剤滴定法により水稲の葉のシアン耐性呼吸の活性度(全呼吸量に対するシアン耐性呼吸量の比)を測定し、活性度は登熟の進行、葉の老化にともなって低下、さらには、高窒素濃度下、強光下で脊てたイネの葉で高まることを明らかにした。このようなシアン耐性呼吸活性度の変動は前車における呼吸効率の変動と一定の関係を示さないことから、登熟期イネの呼吸効率の低下にシアン耐性呼吸が直接関与している可能性は小さいと推測した。

 2)イネのシアン耐性呼吸系の主要酵素であるオールターナティブオキシデース(AOX)遺伝子の一つであるAOX1aとチトクローム系路の末端酸化酵素チトクロームオキシデース(COX)のサブユニット遺伝子の一つであるCOX5bを用いてノーザン屏析を行い、AOX1aの発現量が夜間より昼間に高く、また、生育時期、品種により大きく変動するが、この発現パターンは前述したシアン耐性呼吸の変動と一致しないことを明らかにし、今後、遺伝子の発現量と同時に酵素活性の変動についての検討が必要であることを指摘した。

 以上本論文は、登熟期の水稲個体群の窒素利用効率、光エネルギー固定上の諸特性を解析し、それらの変動の生理生態的機構を明らかにした。本研究成果は今後の水稲収量向上の一つの方向性を示したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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