学位論文要旨



No 114704
著者(漢字) 藤村,安芸子
著者(英字)
著者(カナ) フジムラ,アキコ
標題(和) 倫理思想としての『三宝絵』
標題(洋)
報告番号 114704
報告番号 甲14704
学位授与日 1999.09.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第255号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 木村,清孝
 東京大学 助教授 藤原,克己
 東京大学 助教授 菅野,覚明
 共立女子大学 教授 佐藤,正英
内容要旨

 本稿は『三宝絵』を倫理思想として統一的に読み解く試みである。具体的には『三宝絵』の著者である為憲に内在して『三宝絵』を一貫して読むことにより、三巻相互の内的連関を問おうとするものである。

 第一章では、為憲が『三宝絵』を制作した目的とその構成を確認する。

 第一節では『三宝絵』序を取り上げ、『三宝絵』が、性急な厭離を果たした尊子内親王の、落飾後の茫漠とした時を埋めるものであったことを確認する。

 また為憲に従えば、仏宝・法宝・僧宝の三巻は、昔から今に至る一つの史を形成していると同時に、いずれも三宝に関わる「事」を集めた意味では等しい。

 第二節では『三宝絵』各巻に付された述意部と讃部を検討する。各巻の述意部は、いずれも「釈迦」から始まっている。また為憲は、三宝を貴ぶ人々の視点から三宝を叙述しようとしている。ゆえに各巻の「事」を、そこに登場する人々の側から整理することによって、各巻を統一的に把握できると考えられる。

 第二章では、各巻がいかなる「事」の集成かを問う。

 第一節では、仏宝の巻を見る。仏宝の「事」は、主人公の菩薩の前に天の存在が飢者として現れ、身施を通じて人々の前に菩薩の仏道を求める真なる心が顕れる、というのがその基本的な枠組みである。

 第二節では、法宝の巻を見る。まず第一話で聖徳太子が人々に法を示し、人々は太子の前に聖が飢者として現れるのを見てあやしむ。さらに続く「事」は、法によって不可思議な事が生起し、人々が法の真実性を知ることを語っている。

 第三節では、以上の考察をふまえ僧宝の巻を見る。第二十三話は、七月の文殊会で僧や人々が飢えた人に飯を施すことを述べている。それはこの日に、文殊菩薩が飢えた人の姿をとって現れるからであった。あるいは飢えた人は、仏の分身であり、自分の先の世の父母でもあった。

 以上のようにいずれの巻でも何ものかが飢えた姿で現れている。僧宝の巻で人々は、眼前の飢えた衆生を哀れみ身を施した菩薩と同じ立場に立つ。すなわち人々もまた、他者の「飢え」を見ることによって、人は生きている限りお腹が空き、生命の危機に瀕する無常なる存在であると認識し、今ここで飯を施すことによって功徳を積むことができる。

 第三章では、第二章の指摘をふまえ飢えた姿で現れる父母について問う。

 第一節では、仏宝の巻を最終話を中心に見る。釈迦は前生で施无であったとき、父母に毎朝食を運びその結果早く仏に成ったという。ここでは反復する親への施が成仏を早く達成する要因になっている。

 第二節では、法宝の巻を最終話を中心に見る。最終話において僧勤操は友栄好の死後その母の元に毎朝飯を届けた。栄好の母が亡くなると勤操の元に八巻の法華経が残され、栄好の母の後世を導くべく祥月命日に勤操は七人の僧と法華八講を始めた。これは反復する親への施が法をもたらし、隠れた親に関わり続けるため法会が始まることを物語っている。

 第三節では、以上の考察をふまえ僧宝の巻を見る。僧宝第八話の山階寺の涅槃会は、釈迦が亡くなる日に語った涅槃経を釈迦の命日に唱える法会である。あるいは僧宝第六話の修二月では人々は仏に花を供養する。すなわち人々と隠れた存在との間を取り持つのは、法を唱える僧や花など具体的な存在であり、人々はそれらを通じて善き行いを為すことが可能になる。これは法宝最終話で真という価値を担う法が物として隠れた存在との間に、すなわち己の外部に定立したことに由来する。いいかえれば、価値が物によって体現されることによって、すべての人が物、より明確にいえば法の告げる「よき物」に関わることによって、価値が顕になる場に参与できるようになる。また僧宝第二十三話によれば、全ての親は子によって罪を造り後世に飢えた餓鬼となっているという。父母を救うために人々は孟蘭盆会で僧に諸々の美き物を施す。第三章の考察において親は一貫して「飢え」ており、親の今生から来世に至る「飢え」を直視することが、子に無常と因果の理を二つながらに知らしめることとなる。

 最後に以上の考察をふまえ「三宝絵』が尊子内親王に対して果たした役割について問う。為憲は『三宝絵』の末尾に当たる僧宝讃部で、随喜を勧めている。すなわち一つ一つの「事」に随喜することで尊子内親王は一つ一つ功徳を積むことが可能になる。また『三宝絵』は性急に成仏を目指す尊子内親王に対して、父母を典型的な衆生をみなし施を繰り返すことで早く仏に成ることを明かした。さらに仏法僧の原点には等しく釈迦が存在することが予め記されていた。為憲は最終的に、今は亡き釈迦との間を媒介する物として仏法僧が存在し、それらが仏道の実践の契機となる「宝」であることを示したといえよう。

審査要旨

 本論文は、平安時代中期の仏教概説書『三宝絵』を、倫理思想として読み解く試みである。『三宝絵』は、十八歳の若さで出家した尊子内親王に献上するために、当時第一級の知識人として知られた源為憲が著したものである。全三章より成る本論文では、『三宝絵』が内親王のいかなる生の要求に応えるべく著されたかを問いつつ、従来説話集として取り扱われることの多かった『三宝絵』を、三宝を貴ぶ者の生の拠り所を語った統一的な書として読み解くことが試みられている。

 第一章では、『三宝絵』を読み解くための基本的な視点が提示される。論者は、説話集や歴史書として『三宝絵』を捉えようとする従来の諸説の限界を示し、『三宝絵』を、専門の僧侶ではない内親王が直面した茫莫とした時間を、仏の世界への道程として位置づけるために構想された物語として捉え直す。すなわち、『三宝絵』は、それを読み解く行為自体が、勤行の合間の時間を埋める営みとなると同時に、その時間を仏と衆生との関係として意味づけるという二重の要求に応えるものとして構想されたとするのである。

 第二章では、『三宝絵』の基本構造が分析される。論者によれば、『三宝絵』の各話に一貫するのは、仏の真実が、人々の前に具体的な形をとって顕わになるという構造である。すなわち、それぞれの話は、「飢えたる者」の表象を媒介として、仏の真実とこの世との通路を現している。かかる通路として位置づけられた説話を、論者は「事」という概念で捉え直す。個々の「事」が、それぞれ仏と衆生の関係の諸相を示しつつ、全体としては、歴史的釈迦と今日の衆生との時間的な関係を現すように配列されているのが、『三宝絵』の基本構造であるとされる。

 第三章では、僧宝巻に顕著に現れる「父母への孝養」のモチーフが「飢えたる者」との関連で分析される。真実の顕現を媒介する「飢えたる者」は、反復する空腹の表象を通じて、人々自身の有限性・時間性(衆生性)を自覚させ、さらに、飢えの充足の表象を通じて、真実の「行」への通路としての布施の行為を位置づける。この「飢えたる者」の極限的な形象が、『三宝絵』における「父母」のイメージである。『三宝絵』は、父母への供養というモチーフを通じて、根源的な「行」のありようを示しているとされる。

 まとめていえば、『三宝絵』で為憲が示した方向は、一つ一つの「事」に随喜することを通じて、内親王が、自己の衆生性のみならず他者としてある衆生を見いだし、そこへと関わる行のありようを見いだすことであった。『三宝絵』は、そのことを個々の「事」として示しつつ、その全体がまた一つの「事」であるように構想された統一的な著作であったということができる。

 以上、本論文は、『三宝絵』を、一つの有機的な統一体として内在的に再構成すると同時に、布施や父母供養など日本人の仏教受容のあり方をめぐって、いくつかの重要な新知見を提示している。ただ、内在的な解読を徹底したために、逆に個々の説話の由来する原説話集との比較対照が不十分となっている観がある。また、分析に用いられる概念のいくつかがやや生硬で、テクスト内部の概念との連接が滑らかさを欠くなど、問題点がないわけではない。しかし、『三宝絵』の享受主体、及び制作者の内面に深く切り込みつつ、統一的全体像を描き出しえたことの意義は大であり、日本人の仏教受容をめぐって重要な論点を示しえた点も高く評価できる。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判定する。

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